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序章

「海老原、一人でこんだけの量こなしてたんですか」  海老原斎がバイクで帰宅中自損事故を起こして入院したのは半月前の事だった。ただでさえ人数の少ないこの第五分室メンバーの中でたった一人の営業事務である斎が抱えていた仕事量はとても一人で片付けられる量のものでは無かった。  その斎が一ヶ月の入院を要する事となり、滞った仕事の山を見た室長の四條は頭を抱えた。そもそも斎一人に全てを任せきりだった事が間違いであり、今後の事を考えればメンバーの増員は逃れられぬ選択であった。 「榊と本田に釣り合う仕事したかったんやろなあ。こら過労で事故起こしてもしゃあないわ」 「過労じゃないですよ? 猫避ける為にハンドル切ったって海老原言ってましたから」  穏和で柔らかな関西弁を話す四條は眼鏡を外して眉間を抑える。分室が出来る前の部署で部下だった千景に時間外での対応を頼んだは良いが、それも長くは続けられない。分室が出来る前から四條の部下であった斎は同時に千景の後輩にもあたる。本来別部署の手伝いは時間外でも手伝う謂れは無いものだったが、少なからず斎が後輩だった時期もある千景は渋々と手伝っていた。 「海老原の業務を引き継げるように、人員増やせて上からも言われとるんやけどねえ……」  四條は何処か浮かない表情だった。その手に持っていたのは長い間分室への異動希望を出し続けていた人物の資料。 「何か問題あるんですか? 人が増えて更に成績上がれば万々歳じゃないですか」 「佐野くんがウチに異動してきてくれるのが一番なんやけどね」 「お断りします」  高い成績を納める事が分室の存続条件だった。社内でも特に能力の高い者だけを集め、最大限のパフォーマンスが出来る様な環境を整える。その為、分室に所属するメンバーには凡ゆる面での特権が認められていた。スーツが窮屈と感じれば私服での勤務が可能となり、喫煙所に移動する時間が無駄と感じれば自らの執務スペース内での喫煙が許可されている。メンバーが仕事に対しストレスを微塵も感じる事の無い環境作りに四條は力を入れており、それ故に社内の一部の人間からはストレスに弱い翻車魚へ準えて『翻車魚の水槽』と呼ばれる事もある。  個の能力が高くなければ元々分室への異動希望を出す事すら出来ない。赤松那由多は新卒で入社してからの三年間文字通り営業でトップの成績を挙げ続けていた。 「まあ自分から第五に異動希望出す奴なんて、ろくな奴じゃないですよね」  成績を挙げる為ならば徹夜や寝泊まりも当然、本人達はそれを好きでやっている。いわば能力の高い社畜の巣とも言える分室の体制が千景には合わず、四條に何度も勧誘をされてはいたがその都度断っていた。 「この営業の彼にヘルプで入って貰て、後は庶務を支店から招集しとるとこや」 「営業事務の仕事を営業と庶務に分担ですか。海老原の穴埋めるなら妥当な采配だと思いますよ」 「一番の問題は新人があの子達と合うかやねえ」 「ああ……」  今まで分室に増員がされなかった大きな理由は、新設時から所属しているメンバーが他人に対して大きな壁を持っていたからだった。その中でも斎だけは社交的な方ではあるが、残りの二人と上手く付き合っていける人間の方が少ない。辛うじて千景はメンバーからは好かれている稀有な存在である事が、四條が何度も千景を分室へと勧誘する一番の理由だった。 「それにしても何でわざわざ支店から。うちにも使えそうな奴は居たでしょう」 「そいつなあ、僕の従弟やねん」 「……職権濫用してませんか?」  従弟と言っても親密な訳では無く、年に数回会う程度の間柄だった。偶然にも同じ企業内の支店に勤務していた事を知った四條は、有無を言わさず雑用係として従弟を呼び付ける事にした。 「海老原が戻って来た時、居場所が無くなってれば良いのに」 「佐野くんは昔から海老原に手厳しいなあ」  自ら二年間も分室への異動希望を出し続けていた執着心には引っ掛かる物があったが、期間限定の試しとして四條は手に持つ書類へ承認の印を押した。

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