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第十一章

 その日詩緒が自宅へ帰宅したのは深夜零時を過ぎた頃だった。決して仕事が片付かなかったという訳ではなく、詩緒にとっては仕事外で考える事が多過ぎた。綜真に伝えられなかった言葉を伝えられたし、綜真も決して憎からず思っていた事も知る事が出来た。  詩緒が改めて感じた事は幾ら気持ちを伝える事が出来ても過去には戻れないという事と、自分は恋愛に向いていない、という事だった。大切に思っているからこそいざという時に理性より感情が先走ってしまう。やはり自分に恋愛事など上手く行く訳が無かった。幸い真香や斎の存在で毎日は充実している。傷付ける事に怯える必要もない、気が置けない友人が居ればそれで良い。  那由多にもちゃんと話をしなければならない、そう考えながら詩緒は鍵を挿して施錠を解く。  今日の態度には少しだけ引っ掛かりを覚えたが、元々那由多も気の良い奴だから話せば分かるだろうと詩緒は扉を開けて部屋の中へと足を踏み入れる。玄関横のキャビネットに鍵を置いた時、普段と異なり部屋の照明が点いている事に気付いた。今朝家を出る時電気を消し忘れてしまったのだろうか、綜真に声を掛ける事だけで頭がいっぱいになっていたのは事実なのでその可能性も有り得ると三和土で靴を脱ごうとした詩緒は凍り付いた。  揃えられた見知らぬ靴、明らかに詩緒の物では無かった。今自分は確かに鍵を開けて自宅に入ったという事を思い出す。 「お帰りなさい」  詩緒は声を出しそうな程驚き、後退した挙げ句玄関扉に背中を強打した。視線を上げると玄関横のキッチンで那由多が調理のような事をしていた。 「遅かったですね、ご飯出来てますよ」 「赤松……何で此処に居る?」  声が上擦っていないか、不自然に見えていないか、詩緒は冷静を扮い那由多に言葉を返す。その手に包丁を掴んだまま那由多は詩緒へと近付く。すぐには気付かなかったが、部屋中に散らばった脱いだ服や食べかけの袋麺のゴミがいつの間にか綺麗に整頓されている。  ゾッと詩緒の背筋に悪寒が走る。クローゼットの奥には斎が冗談で置いていった玩具箱がある。奥深くに封印してはあるものだったが、もしあれを見られたとしたら――。  チャリ、那由多の手の中で金属音が響く。那由多が手に持っているものは詩緒の家の鍵ととても良く似ていた。 「こないだお邪魔した時に、型取っておいたんですよ」  普通に犯罪だろ、と喉の奥まで飛び出た言葉を詩緒は呑み込んだ。那由多の据わりきった目はとても冷静に話し合えるものではないと気付いたからだった。  那由多が一歩、また一歩と距離を縮めて来るのに呼応して詩緒は背後にある玄関扉のノブを下げる。 「恋人の帰りを家で待つ、って一度やってみたかったんですよね」  那由多の中で詩緒の存在は既に恋人だった。身体を重ねたあの日から。  とにかく今は逃げるしかないと詩緒は後ろ手でドアノブを下げるが、ガチッと音がしただけで下がらない。部屋に入った時、無意識に内鍵を掛けていたと気付いた詩緒は慌てて扉を振り返るが、詩緒が内鍵を開けるより早く那由多の腕が詩緒の目前を通り扉に叩き付けられる。 「あれからずっと御嵩さんと一緒に居たの? ……なあにセックスでもしてきた?」 「……違う、ただ話を……して、きただけ、だ」  その時詩緒は自分自身に起きている異変に気付く。何度息を吸っても肺が満たされない感覚、浅い呼吸を無意識に何度も繰り返す。真香でも斎でも良い、誰かに助けを求めなければと詩緒はスキニーの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。 「ああ、その顔ですよ榊さん……」  詩緒の手からするりとスマートフォンを奪い取ると、那由多はそれを自分のスラックスのポケットへと仕舞い込む。そして左手で詩緒の顎を掴み固定するとその頬に包丁の背を押し付ける。 「三年前、恐怖で歪む貴方のその顔に俺は堪らなく欲情したんだ……」  那由多の舌がねっとりと詩緒の頬を舐め上げる。  苦しくて、那由多が何かを言っているのは分かっていても詩緒にはその言葉の意味を理解しきる事が出来ない。那由多は包丁の刃先を詩緒のシャツへと滑らせてボタンを一つずつ飛ばして行く。 「……赤、松……やめろ……」 「やめません。愛してます、詩緒さん。俺だけの物になって下さい」

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