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第一章 崩壊と露呈

 Ⅷ号室――真香の部屋  荷解きついでに配置の手伝いもさせられた斎は、一通りの目処が付くと新品のシーツを敷いたベッドの上に真香を組み敷いていた。それぞれの部屋が一部屋ごと空いているのは声が漏れ聞こえる心配をする必要が無く、まだ夕食の時間にも早く誰かに邪魔をされる可能性も少ないと考えた斎は嬉々としてその首筋に顔を埋める。ちくりとする痛みに真香の腕は震え斎の下からその両腕が伸ばされ斎の頭部を抱え込む。真香の指は長過ぎる側頭部の髪を耳へと掛け、微かな吐息が斎の鼓膜を揺らす。 「――斎、俺らもうこんな事やめよ?」 「え――?」  始めは真香の戯れによる冗談ではないかと斎は思った。しかし真香はそのままベッドの上で身を起こし、乱れた着衣を整えてから斎と向き合うようにして座り直す。到底冗談を言っているようには見えない真香の真剣な眼差しに斎の心臓が早鐘を打つ。何か機嫌を損ねることをしてしまったのだろうか、冬なのに全身から汗が吹き出す感覚があった。 「ど、して……?」  入寮の件で慌ただしくなってしまい、しっかりと斎に話をする時間を作る事が出来なかったことを真香は悔いた。約三年間、詩緒、真香、斎の三人の間に存在していたセフレ関係。それが終わりを迎えたのは先日その内の一人である詩緒が元彼の綜真とよりをを戻し付き合い始めた事が理由だった。どちらかといえば毎回真香と斎に押し切られていただけの詩緒に恋人が出来たのならば、それはセフレ関係を解消して然るべきであった。セフレとしてだけではなく、友人としても真香と斎を大切に思っていた詩緒へ自ら関係の解消を言い出したのは真香からだった。それぞれに特別な存在が居なかったからこそ成り立っていたセフレという関係、そこから詩緒が抜けた事で残されたのは真香と斎の二人だけになったが、今まで三人で成り立っていた事を二人となってからも継続すべきであるかは重要な事だった。 「榊が居ないのに、俺たち二人でこんな事続けていっても仕方無いだろ……?」  真香と斎はお互いに恋愛感情を持っている訳では無い。お互い外で自由に遊ぶ時間も少なく性欲の解消相手として紡がれてきた関係を二人だけとなった今でとなっては継続すべき事ではないと真香は考えていた。ただ友人として斎を大切に思う気持ちが消える訳では無く、肉体関係だけでもこの入寮を期に清算するべきだと真香は以前から考えていた。  加えるならば、元々真香と詩緒、斎と詩緒の間に成立していた関係であり、その中心人物とも言える詩緒が居なくなれば遅かれ早かれ瓦解するものだった。 「真香も、榊も……俺の前から居なくなるの……?」  求める事、求められる事、求める事に拒絶されない事で斎は真香や詩緒の存在を感じ続けていた。斎にとっては詩緒も真香と同じ位大切な存在ではあったが、斎は真香や詩緒が自分以外の誰かに幸せを見出して離れていってしまう事を何よりも恐れていた。身体だけが全てでは無いと幾ら頭では分かっているつもりでも、心が離れて行く事を拒絶していた。離れてしまわれる事が自分に価値が無いと言われているような気がして、斎の頬に涙が伝う。 「何も変わらねぇよ? 俺も榊もお前の友達だ。居なくなったりしねぇよ。榊だって同じ事言うよ」  真香は言い聞かせるようにゆっくりと斎の頬を撫でる。無くなるのは身体の関係だけ、それ以外は今までと何も変わらない。斎と真香、詩緒、そしてこれからは綜真も含めて四人で、家族のような友達よりも近しい関係は何一つ変わる事は無い。  一つ屋根の下で暮らして行くからこそその辺りのけじめはしっかりと付けておかなければならない。二人だけでセフレ関係を続けたとして、それを詩緒や綜真に一切悟られない事が本当に可能なのか。真香でさえもぎりぎりまで熟考して出した結論だった。 「……そ、だよ……ね」  泣いて縋ったならば真香だけでも意見を翻してはくれないだろうか、斎の中に打算が走った。身体の関係を続ける為だけに真香に愛していると伝えれば、真香だけでも引き留める事が出来るだろうか。その方が二組のカップルという事で尚更空気は良くなるのでは無いだろうか。  しかし何かの気の緩みで詩緒との肉体関係を思い出してはしまわないだろうか。詩緒と綜真、二人の関係を壊すつもりは無かった。二人の平穏を守る為に斎と真香の関係を解消すべきだと理屈は理解していた。詩緒がどれ程綜真の事を想っているか、綜真がどれ程詩緒を大切に考えているか、それに気付かない程斎は他人の感情に鈍感でも無かった。 「おはようもおやすみも、今までと何も変わんねぇ。だからそんなに悲しい顔すんなよ……」  真香に抱き締められたまま斎は静かに涙を流す。これで全てが終わるのだと、側に居ても決してその存在を肌で感じる事が出来なくなる。 「真香ー、居るか?」  最後の抱擁は詩緒の訪問ノックによって呆気なく幕を下ろす。入り口に強固なオートロックがある代わりにそれぞれの部屋の施錠は手動式だった。しかし誰に入られても困る訳でも無く、あくまで個人の意思と都合が優先されはするが殆どの場合共有通路側の施錠は掛けられない事が多い。  それでも詩緒が入室前にノックで確認をするのは、自分の部屋にも無遠慮に入られたく無かったからだった。 「榊、どーしたー?」  斎の背中をゆっくりと叩きながら真香は部屋の外に居る詩緒へと返事をする。やるべき整理の手伝いは終わり、行為拒否された斎はこれ以上真香の部屋に長居する事は出来ないと首を振って真香から身を起こす。真香の所感では斎自身はまだ自分の中で処理を付けられていないように見えており、このまま斎を部屋に戻してしまえば一人で考え込んでしまうかもしれないと胸騒ぎがした。 「……真香、俺もう大丈夫だから」 「だけどっ……」 「千景先輩が引越し祝いで蕎麦くれたからさー、皆で食おー?」 「……戻るわ」 「えっ、ちょっと待って斎っ……!?」  詩緒の言葉を聞いた斎は唐突にベッドから立ち上がり部屋の入り口へと向かった。躊躇う事無く外開きの扉を開ければ唐突に開かれた扉に詩緒が小さく驚きの声を上げる。 「わっ、あれ斎、真香の部屋に居たのか」 「荷解きとか並べたり手伝ってたんだよ〜」  詩緒の前では何でもないかのようにへらりと柔らかな笑みを浮かべる。ふと詩緒の顔へと視線を向ければ初めて見る金髪男性の姿が目に留まり斎は首を僅かに傾ける。 「榊、その人だあれ? ウチの新人じゃないよね?」 「ああコイツね、千景先輩の彼氏」  詩緒に紹介された玲於は自分たちと同じ位高身長な斎を見て第一印象で芸能人ではないかと感じた。モデルや俳優と紹介されても違和感の無い高身長と一般的にはイケメンに分類される整った容姿に思わず立ち尽くして見惚れる玲於だったが、間に挟まれた詩緒は斎と玲於の二人は見た目や面差しこそ違えど何処か雰囲気が似ていると感じていた。 「食おう、っつうか作れって事だろ……」  斎から遅れて真香もようやく部屋から顔を出す。真香も突然現れた金髪イケメンの玲於には驚いて目を見張ったが、部屋を出る前から詩緒による紹介は聞こえていたので斎ほど驚きは少なかった。 「玲於、こっちのでかいのが海老原斎で、こっちの小さい方が本田真香。どっちも俺の同僚だよ」 「……俺、そこまで身長小さいつもりねーんだけど。お前らがデカいだけだろ」  百八十センチを超える詩緒や斎が規格外なだけで、自分や綜真はごく一般的な成人男性の身長ではあると口を尖らせて抗議する真香を他所に、斎はするりと詩緒の前を擦り抜け無言で自分の部屋へと戻る。 「(アイツ)、なんかあったのか?」  普段の様子と明らかに違う斎の部屋の閉ざされた扉へ視線を向けつつ詩緒は尋ねる。斎の異変の原因が詩緒と綜真が付き合った事だと教えてしまえば、きっと詩緒は気に病んでしまうだろう。元々は自分が詩緒をこの世界に引き摺り込んだと責任を感じている真香は敢えて今回も自ら泥を被る事を選んだ。 「腹が減ってるだけだろ。榊が気にする事じゃねぇよ」  自分よりも背の高い詩緒に手を伸ばしてその頭を撫でる。詩緒にはこのまま綜真と幸せで居て欲しい。斎ももっと外へと目を向ければ持って生まれたあの容姿ならば幸せになれる相手を見付ける事も出来るだろう。 「千景さん下に居んの? 俺行ってくるわ」  斎を一人にする事は少し不安ではあったが、詩緒にこの件に関する揉め事を見せたくはない。噂の千景の彼氏を見る事が出来て満足をした真香は一人でダイニングへ向かう事にした。  詩緒の様子を伺うように少し離れた後ろに居る綜真に気付いた真香は、また何か詩緒を怒らせるような事をしたのかと思いつつも同時に、些細な事でも綜真に対してのみはその不機嫌を露骨に表現する詩緒の気質から綜真に憐憫の視線を向ける。 「あ、ねえ」  ぽんと玲於の肩に手を置くと、玲於は少し視線を下げて真香を見る。 「猫好き? 御嵩さんの部屋に小さい猫居るよ」  自分は苦手としているが、小動物を好む人は数多く居る。この人物がそうであれば良いと考えながら通路の一番奥にある綜真の部屋を指差す。 「猫!? 見たい! ねえ詩緒さんっ」  詩緒がこの人物の案内人を務めていることから、綜真の部屋に行きたいと言い出せば当然詩緒も着いて行く事になるだろう。取り決めで綜真は猫を部屋から出す事が出来ない。露骨な程ヤキモチ焼きの詩緒が綜真と誰かが二人きりで部屋に籠もる事を許容する訳が無かったのだ。  玲於の表情はぱあと明るくなり、強請るように詩緒の腕を引く。玲於が綜真の部屋に行きたがるのなら当然そこには自分も同席しなければならないと考えた詩緒は不服気に頬を膨らませつつも綜真へと視線を送る。 「……綜真ぁ」 「うおっ、あ、ああソルト見るんだな。良いぜ二人とも部屋来いよ」  どの程度の期間詩緒から避け続けられるのかと戦々恐々としてた綜真は思いの外早く詩緒に声を掛けられ声が上擦った。階段を下りて行く真香へと視線を送ればにやりと怪しく笑みを浮かべた。フォローをしたお礼として今度は何を要求されるのかと胃が痛む綜真だったが、真香のフォローが無ければこんなにも早く詩緒の機嫌が治る事は無かったと感謝をするしか無かった。 「千景さーん、お久しぶりですー」 「丁度良かった本田、鍋これどれ使ったらいいんだ?」  真香がダイニングの扉を開いた時、千景はキッチンに入って色々と思い悩んでいるようだった。他者の家という訳では無いがキッチンにはそこに住まう者たちのルールがある。無闇矢鱈に掻き回して良いものだろうかと考えた千景は、蕎麦を茹でる為の鍋にどれを使用して良いものか考えていた。 「その辺にあるやつなら何でも大丈夫ですよ。大体俺か斎か御嵩さんの家から持ってきたやつなんで。つか俺も手伝います」  客人である千景に調理まで任せる訳にはいかないと真香はシャツの腕を捲り、僅かに伸びた襟足を頭部の後ろで一括りに纏めた。 「玲於さんでしたっけ? 千景さんの彼氏。さっき上で会いましたよ」 「あぁ会ったのか。てゆか玲於(アイツ)の方が年下だし『さん』付けじゃなくて良いよ」  鍋に充分な水を溜め、コンロの上に置くと千景はつまみを回して火を付ける。 「じゃあ玲於くんか……幾つなんすか?」 「今二十歳だな」  置かれた蕎麦の袋を見て茹で時間を確認しながら真香がふと千景の手元に視線を向けると、左手薬指に輝くリングが見えた。 「千景さん今三十でしょ。犯罪じゃん……」 「んんっ……」  年齢の事を話題にすれば誰かに非難される事は目に見えていた。初めから年齢差の事を知っていたのは親戚連中くらいのものだろう。思い起こせば引き籠もり期間が長く無垢な玲於に、少しずつ性の知識を植え付けていったのは他でも無い千景自身だった。毅然とした態度を取れなかった自分が玲於の将来を歪めてしまったのでは無いかと考えない訳でも無かった。 「千景さん、手っ!」 「えっ、あ、ッつ……」  嫌な考えが頭の中をぐるぐると巡る。真香に声を掛けられた時、無意識に千景の左手は沸騰した湯で満たされた鍋の側面に触れていた。不思議とその瞬間に熱いという感覚は無く、呆然とする千景の左手を真香が即座に掴み蛇口を捻った流水へと晒した。 「……ごめん、俺余計な事言った?」  千景の意識が散漫になった原因が自分の一言にあるのだとしたら、と真香は責任を感じていた。触れていた面積は予想外に広く。左手小指と薬指の真下が横二センチ縦五センチに及び赤く染まり始めていた。 「んーん、本田が言った事は間違って無いよ。先に手を出したのは俺だからね」  左手薬指に輝くリングは千景がどれだけ玲於の事を想っているのかを物語っていた。真香は千景を傷付けようとしてその言葉を告げた訳では無い。寧ろ真香も詩緒同様に千景へは好意を抱いていた。  その切っ掛けとなったのが、千景の左手首に残る傷跡を真香が目撃した事だった。メンタルの強さが自分たち分室メンバーとは大違いだと考えていた真香だったが、そんな千景にも死にたくなる程苦しい時期があったと知った真香は一方的ではあったが千景を慕うようになった。千景も真香のそんな思いに応えるよう、真香が思い詰めた時相談に乗るようにしていた。千景に相談をする事で真香の衝動的な自殺未遂は減っていき、肉体関係で詩緒を縛り付ける必要が無くなった一因でもあった。 「千景さん俺さあ、斎とセフレ解消した」  分室に直接関係こそしていなくとも、それぞれのメンバーと交流のある千景は当然の事ながら三人の関係性も耳にしていた。相手が綜真だという事は知らなかったが、詩緒に恋人が出来たという話を耳にした時から三人のセフレ関係が崩れる事を千景は予見していた。セフレ関係にあると聞いた時点で詩緒だけはその中で異質な存在だと認識していたからだった。千景から見た詩緒にはどこか潔癖なところがあり、自ら進んでそのような行いをするとは考えられなかった。 「え、解消って……海老原は納得したのか?」 「渋ってた」  千景の左手を流水に残したまま真香は救急箱を取りにダイニングへと周る。真香と千景は斎の危うさを理解していた。だからこそ真香は慎重に事を進めなければならなかった。これ以上詩緒を巻き込む訳にはいかないと、一人で斎と話す事を望んだ真香だったが、果たしてこの選択が本当に斎の為になったのか不安は残った。詩緒と綜真の二人にバレないようにセフレ関係を継続する方法は本当に無かったのか、人が離れて行く事を極端に怖がる斎に対しての話し方はあれで間違いは無かったか。考え始めると廻る良くない思考がまた真香を衝動に走らせる。 「本田」  千景の言葉で正気に戻った真香はその両手に救急箱を持ったままただ一点を見つめていた。真香の様子を心配した千景は流水から手を引き、シンク用のタオルで濡れた手を包みながらダイニングへと周り、真香へと近寄ると右手で肩を抱き寄せる。 「誰も悪くないよ、本田」 「千景さぁん……」  ダイニングの奥に置かれた、食事目的ではなく寛ぐ為のソファに二人並んで腰を下ろし、真香は千景の左手に応急処置を施す。沸騰した湯で満たされた鍋ではあったがすぐに流水に晒した事が功を奏したのか、幸い水膨れにはならずこのまま熱が引いていけば痕も残らなくなるだろう。 「俺が海老原の様子見てくるから、本田は蕎麦の方頼んで良いか?」  千景がそう尋ねると真香は無言で頷く。ただ今の斎に千景を会わせて良いのかという漠然とした不安が真香の中にあった。  Ⅲ号室――斎の部屋  コンコンと扉を外から叩く軽い音がしても、斎は寝室のベッドに突っ伏したまま反応を示さなかった。室中から応答が無い事に困る千景だったが、間違いなく斎は部屋の中に居るはずだという確信を持って多少無遠慮ながらも部屋の中へ入る事にした。内側から施錠されていればそれも叶わなかったが、金属製のドアノブを掴み下へと曲げると扉はゆっくりと開く。  千景が転職をして今の職場に入った当時の上司は四條で、同僚には斎が居た。それから分室設立までは僅か四ヶ月であり、同僚として共に仕事をした期間は短いが、千景の中に斎は後輩であるという認識は今も残ったままだった。  まだ夕方だというのに陽は傾きかけ、電気の点けられていない室内は薄暗かった。 「――海老原? 居るんだろ」  扉を開けて玄関にまでは足を踏み入れるも、室内まで入り込んで捜索するつもりは無かった。玄関の辺りから千景の声が聞こえると斎の肩はぴくりと震え、緩慢な動作でゆるりと起き上がると声がする方へと向かう。  まるで幽霊の様に気配無く姿を現した斎の姿を見て千景は息を呑んだ。頭の中で警鐘が鳴る――これ以上この場所に居てはいけないと。 「……佐野、さん」 「ん」  千景が来ている事は先程の詩緒との会話で知っていたので今更驚く事では無かった。斎が予想外だった事は千景が自分の部屋に現れた事で、綜真の入院や入寮の準備が慌ただしくたった数週間ではあったがもう長い間顔を合わせていなかった気がした。 「本田から聞いた。……大丈夫か?」  一歩ずつ斎は玄関へと歩み寄る。千景はドアノブに手を掛けたまま半身は通路へと出したままだった。  大丈夫だと斎が答えたところで千景にはそれが虚勢である事が分かってしまう。扉を支える千景の左手に巻かれた白い包帯と、その薬指に光るシルバーリング。今まで一度も斎は千景が薬指にリングを嵌めている所を見た事が無かった。つい数週間前までは詩緒や斎が抜けている穴を埋める為に毎日でも顔を突き合わせて一緒に作業をしていたのに。  職場ではリングの存在を隠していたという事が斎の精神を揺さぶる。未婚の千景がリングを付けている事でからかわれる事よりも、千景が危惧していたのは斎の反応だった。  斎の右手が千景の左腕へと伸びる。薄暗闇から伸びる手に一瞬判断が遅れた千景だったが、斎の手により千景は部屋の中へと連れ込まれ、その扉は音を立てて閉まる。 「……二つ隣の部屋に、佐野さんの彼氏居るよ」  玄関扉に押し付け、両足の間に自らの片足を割り入れ千景の逃げ道を奪いながら斎は顔を近付ける。指先でサイドの髪を耳に掛けた流れで耳の形を指先でなぞると、千景は斎を避けるように顔を背ける。 「分かってんなら、こんな事してんなよ……」 「彼氏さんカッコいいね、イケメンだね。ああいう人がタイプだったんだ?」  逃れる千景の顎を掴み無理矢理にでも正面を向かせて問い掛けると千景の瞳が揺れる。状況は千景にとって最悪な程に悪い。元々依存傾向の強かった斎は詩緒に続き真香という存在を失い、縋る存在を見失ってしまった斎の精神バランスはいつ崩れてもおかしくはなかったのだ。  心臓を手掴みで握り込まれているような窒息感を無理に押し切り、千景は斎の顔を正面に見据える。 「あのな海老原、――ッ!?」  千景が話し出そうとした瞬間、斎の顔は唇の触れ合う寸前まで迫っていた。千景は咄嗟に斎の口元を右手で覆い押し返す。判断が一瞬でも遅れていたら唇が触れ合っていた事態に千景は恐れ慄く。 「まっ待て待て……落ち着いて話聞け、な?」  躾けのなっていない犬よりタチが悪い、やはりもう少し時間をおくべきだったかと千景はちらりと背後にあるドアノブへと視線を送る。その目を離した一瞬を千景は後悔した。  ぬるりと指と指の間を蠢く生暖かい舌の感触、口を覆われた斎はその指を抉じ開けるように舌を絡ませていく。指の股を細くした舌先で執拗に嬲ると千景の腕が痙攣するかの様に跳ねる。 「……アンタのイイところなら全部知ってる。何回抱いてきたと思ってんの?」 「――それ以上言うな」  千景の指摘する声が低くなる。斎は千景の手首を掴み袖口を舌で捲って行きながら皮膚の薄い手首に歯を食い込ませて噛み付く。 「俺、アンタの事好きだって何回も言ったよね? 好きな奴が居るって何度も断られてきたけどさ、だけど」 「言うな海老原ッ!」  千景の左手がドアノブを押し下げて外開きの扉が開く。二人は通路へと倒れ込み千景は肘を着いて上体を保ち、斎は千景へと覆い被さるように手を着いた。奇しくも千景の制する声は二つ部屋隣の綜真の部屋まで届き、綜真の部屋で子猫のソルトと戯れていた詩緒は何事かと一目散に玄関へと向かい部屋の扉を開ける。 「なに……」  視線の先にあるのは、通路に腰を落とす千景とその上に覆い被さる斎の姿。これがどういう状況であるのか詩緒には理解が出来なかった。ダイニングで真香と居るはずの千景が何故斎の部屋に居るのか、何故斎が千景を押し倒すような状況となっているのか、何故千景は斎と視線を合わせようとせず顔を背けているのか。 「抱かれてたじゃん俺に! 好きな相手と付き合うって言われる直前までさあ!!」 「それは……」  正面の斎から顔を背けていた千景の視線の先に一つだけ開かれた扉が見えた。まさかと思い視線を徐々に上げていく。通路の一番奥にあり、同じ左側に並ぶその部屋から心配そうに顔を覗かせていたのは詩緒、そして―― 「ちか兄……今の、どういう事……?」  詩緒の後ろで呆然としていた玲於の姿だった。  詩緒と真香に二人の関係が露呈しないよう、慎重に事を進めていたのは斎の方だった。事の始まりは分室が出来るより前、千景が中途入社した直後の飲み会だった。その頃の千景はまだ玲於との再会を成しておらず、前職よりもホワイト企業で働き易かった千景はうっかり自らの許容量を超える飲酒をし、後輩だった斎が千景を自宅まで連れ帰った事が切っ掛けだった。  言葉通り斎は再三千景に交際を申し込んでいたが、その度千景は「好きな相手が居るから」と断り続けていた。その相手こそが玲於であり、半分は詭弁であっただろうが千景はそれを斎の申し入れを断る理由としていた。それから約一年半後、千景の叔母であり玲於の母親涼音が亡くなり、玲於を引き取る事になった頃から千景は斎からの誘いを断るようになってきていた。  何かを壁に打ち付ける大きな音がして玲於は正気に戻る。そこで玲於が見たのは斎の胸倉を掴み扉横の壁に押し付けている詩緒の姿だった。 「斎テメエ、千景先輩に何してやがんだ殺すぞっ……」  詩緒にとって千景は尊敬する先輩であり、斎との間に何があったかは分からないが状況を見た限りでは明らかに加害者は斎であり、詩緒が斎を締め上げる事に躊躇いは無かった。 「殺してよ、榊……」  目の前にいる詩緒の姿すら見えていないかのように斎は涙を零す。その姿にぎょっとして目を丸くした詩緒の手が思わず緩む。 「誰からも愛されないならもういっそ死んじゃいたい……」 「なに、言ってんだよお前……」  今どういう行動を取る事が正解なのか、そもそも自分が出ていって良いものなのかも分からず困惑した玲於の肩に綜真がぽんと手を置く。 「玲於くん、千景の所行ってやって」 「あっ、ハイ……」  綜真に背中を押された玲於は駆け出し、転びそうになりながらもまだ斎の部屋の前で肘を着いて横たわっている千景の元へと向かう。 「ちか兄……」  玲於に声を掛けられた千景は今自分がどれほどまずい状況に置かれているのかを再認識していた。玲於の気持ちを受け止めようにも此処は分室の寮であり、自宅のようにはいかない。初めの頃よりはそういったTPOを弁えるようになった玲於が思い抱く気持ちを考えた千景の噛まれた手首が疼く。  千景が庇う右手首に何かがあると察した玲於は咄嗟にその右腕を掴み、千景が止める前に袖口を捲り上げそこに残る真新しい歯型を確認する。玲於が次に視線を向けたのは詩緒に掴み掛かられている斎で、状況から斎しか犯人は居ないと玲緒の身体がゆらりと動き斎へと向くと千景は咄嗟に玲於の腕を掴む。 「レオっ、駄目だ」  その言葉を相手が誰であっても暴力はいけないという意図通りに玲於が受け取れたかは千景には分からなかった。正常な思考が出来ない状態であったならば単純に斎を庇っていると受け取られ兼ねない事に千景は固唾を飲む。 「…………帰ろう、ちか兄」  千景の顔と斎を順に見た玲於が出した結論は、千景から話を聞く為に一刻も早く自宅に帰る事だった。いつでも自分たちを窘めてくれる従兄たちでは無く、千景が仕事で付き合っている相手の前で千景を問い詰める事など玲於はしたくなかった。玲於自身もバイト先の人たちの前で千景に問い詰められたくは無い。ほんの少しだけ相手の立場で物事を考えるようになった玲於が出した結論だった。  千景は反論せず玲於が手を引くままにその場から立ち上がる。 「悪い榊、本田にも言っといてくれ」  千景と玲於、二人のやり取りに気を取られ斎へと上げた拳の下げ方も分からなかった詩緒はぽかんと二人を見つめた。 「詩緒、お前も海老原から手ぇ離してやって。海老原は後で俺と話そうな」  いつの間にか詩緒の側までやってきた綜真は肩を叩いて詩緒の手を下ろさせる。初めて知った二人の真実や、斎へ感情のままに手を上げようとした事実で感情がぐちゃぐちゃになった詩緒を綜真は正面から抱き締める。ゆっくりと背中を叩けば詩緒も綜真の背中へと手を回して服を掴む。  立ち上がった千景は無言の玲於に手を引かれ階段へと歩いて行く。振り向きざま千景と綜真の視線が交錯する。  ――馬鹿だろ。  ――うるせぇ。  目線だけで言葉を交わし、そのまま千景は玲於に連れられるまま寮を後にした。

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