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終章 決断と予感

 その日四條が寮の屋上へと現れたのは退院した千景が顔を見せに来ると聞いていたからだった。事の顛末は凡その流れを綜真から聞いていたが、異動直後から巻き込まれた事件に四條も責任を感じていない訳では無かった。休日という事もあり普段着にジャケットを着込んだ形で現れた四條は仕事ではないからと髪のセットもせず前髪を下ろした姿のまま現れ、良く知るオフの姿を見た綜真は漸く安心したように腰を屈めたまま煙草を吹かしていた。 「それにしても佐野くんに大事無くて良かったわ」 「ご心配をお掛けしました」  四條が千景を分室に招きたかった理由は詩緒や真香に懐かれているという事以外にも、最近では綜真と既知であるという理由があったが、一番はその能力の高さと豪胆な性格にあった。詩緒が山城の恫喝で発作を起こして倒れた三年前、同僚の誰もが見てみぬ振りをしていた中ただ一人山城へ猛抗議をしたのが中途入社をして数ヶ月の千景だった。ただ抗議をするだけならば誰にでも出来るが、千景の指摘は詩緒の身を心から案じた為のものであり、聞けば千景の以前の職場が似たような環境だったという。だからこそこのままでは詩緒の才能を潰してしまう事や恫喝せずに仕事を回す環境を作る為の提言は四條も呆気に取られたもので、分室を作る事を決めた時その中に千景の存在がどうしても欲しかった。  三年間勧誘を続けてはいたが鰾膠も無く断られ続け、今回漸く千景が異動を受け入れたかと思えばその理由は巻き込まれた斎を救出する為の大義名分が欲しいからもので、その結果千景は取り返しの付かない大きな傷を負った。これでもう用は済んだからと見た目よりも危険な分室業務から千景が離れたがる可能性も危惧していた四條だったが、一度受け入れた異動を簡単に覆す訳も無く千景はこれからも分室の一員で居たいと先日通話で聞いたばかりだった。 「佐野くんにプレマネ任せたのは正解やったね」  千景ならば自分の代わりに分室の指揮を委ねられると安堵した四條は寒空に舞う紫煙に視線を送る。 「えぇ……」  勿論千景が四條との連絡係を務める事で本棟まで日に数度も往復をする必要が無くなった綜真にとっては有り難い話だったが、過去の遺恨がある千景とこのまま同僚として業務を続けて行く事は綜真にとって悩みの種だった。綜真があからさまに残念そうな声を上げると千景の冷たい視線が突き刺さる。千景にとっては今回の件で綜真に全裸などどんなに恥ずかしい姿を見られていようが今更それを恥ずかしがるような間柄では無かった。それよりももっと恥ずかしいお互いの過去を知っているからで、互いにそれを最愛の相手にバラされないように牽制し合うという事は精神を擦り減らす事でもあったが、唯一といっても良いそれを知る相手が身近に居るという事は手綱を握るという意味でも有効だった。  朽ち掛けた煙草の灰を灰皿の中へと落としつつ、千景は四條へと視軸を移す。 「四條さん、分室内の事なら俺の件も含めて全部握り潰せますけど、茅萱部長の件はどうするんですか?」  全てが分室内部の事であるとしてしまえば、千景の身に起こった事も綜真がした事も全て分室特権として会社への報告義務は無くなる。しかし茅萱となると話は別だった。茅萱の籍は分室ではなく営業部にあり、斡旋については真香と斎の了承も得ている事で表沙汰になる事は無いが、一連の騒動に一枚のみならず何枚も噛んでいる茅萱本人をこのまま営業部長としておく事は難しかった。 「そうやねえ」  茅萱は四條の先輩にあたり、部長というポジションにも就いている。事が事だけに何のお咎めも無しという訳にもいかなかったが、四條も茅萱に対しては何かを言えるような立場には居なかった。真香が茅萱に退職を要求していればスムーズに話は進んでいたが、親友の為を思った真香は茅萱を社内に残すという決断をした。  その時、ガチャリと扉が開かれ三人の視線が一点に注がれる。屋上は喫煙の為の灰皿しか無く、寮の中では真香以外の全員が喫煙者であったが、斎や特に詩緒は部屋で作業をしながら吸う事が多いので滅多な事では屋上に姿を現さない。勿論喫煙を目的とする事以外に屋上へ現れる事が無い訳でも無かった。 「ああ四條。良かった、話あんだけど」  扉を開け顔を覗かせたのは件の茅萱だった。斎が目を覚ましてからは寮から立ち去ってはいたが、この日は真香に謝罪をするという事もあり謝罪の後は暫く真香や斎と折り合いを付ける為の話し合いをしていたが、立会人の千景だけでは無く四條も来ていると聞いて屋上まで探しに現れていた。 「そういう訳で、今まで浮いてた営業担当の件だけど」  週明けの月曜、千景はこの日ほど朝のミーティングで気が重かった事は無い。それは第三営業部の茅萱が分室専属の営業担当となる事を告げる内容で、異動日の偽装はあったがこれで名実共に茅萱も分室の関係者となってしまった。  それは先日屋上で茅萱が四條に対して直談判した事で、茅萱は自ら部長という職を辞しいち社員として分室の担当者となる事を申し出た。奇しくも茅萱は以前分室の営業担当であった那由多の直属の上司であったという事もあり、那由多の責任を取っての降格人事という事に建前上はなっている。 「……で、当人は何処だよ」  事実上異動当日となるこの日に張本人となる茅萱の姿が無く千景は溜息を吐く。ミーティング時間通りにラウンジへと集まっているのは千景と筆頭に詩緒、真香、綜真の三人と画面の向こうの四條で、普段ならばミーティングが始まる直前までにはダイニングで綜真の淹れたコーヒーを飲んで時間を潰していたりもするものだが、そこにいる筈の姿すらも今朝は無く詩緒は一応ラウンジからダイニングを再度渡してから肩を竦める。 「斎も居ねぇな」 「部長は昨日海老原の部屋泊まってっただろ」 「触れたくねぇ……」  関係者の証であるセキュリティカードの用意が間に合っておらず、一両日中に茅萱へと手渡される手筈となっていたが、昨晩の時点ではそれがまだ間に合ってはおらず、斎の解錠で招き入れられた茅萱がそのまま帰宅した所を誰も見てはいなかった。今もまだエントランスには茅萱の靴があり寮の中に居る事は明白であったが、詩緒はそれ以上の想像を拒否した。  二名を除いたミーティングは以後滞りなく進み、四條の姿がモニターから消えると千景はタブレット端末で自らのスケジュールを確認しながら胸ポケットから取り出した煙草をローテーブルの上へ置く。 「ああ後四條さんからの伝言で、人数増えたから飲み会やるってよ」  つい先月も綜真が異動したばかりで歓迎飲み会を行ったばかりではあったが、入寮直後の騒動も一段落し千景と茅萱という新しいメンバーも増えた事で歓迎会をやるならば早い方が良いと四條は決めていた。通常の飲み会であるならばその参加は強制では無く拒否する権利も分室の所属メンバーには与えられていたが、四條の提案である飲み会への参加を拒否しようとする者は誰一人居なかった。 「いつやんの?」  部屋に戻ろうとカウチから腰を浮かせた綜真であったが、飲み会がいつ行われるかによって業務の調節が必要になると考え洋々と煙草を吸い始める千景へと視線を送る。 「今晩。仕事はマッハで終わらせろ。榊、手が足りなかったら俺に回して」 「あ、ハイ」  綜真が戻るなら自分もと立ち上がる詩緒は残りタスクの進捗具合とそれを飲み会までに終わらせる為のアプローチをシミュレートしながら声を掛けてきた千景にぴくりと肩を揺らす。元々詩緒と千景の職種は同じで、今でこそプレイングマネージャーという立場の千景ではあったが、その役職名から管理だけが仕事という訳では無く詩緒と肩を並べる同僚という事にもなっていた。 「結局今何人?」  二階の自室への階段を上りながら真香は綜真と並んで階段を上る詩緒を軽く振り返って問い掛ける。この数ヶ月で出入りが激しく、千景の様に入寮しない存在を併せて考えたところで少し前からは考えられない程人数が増えたと真香は軽快な足取りでスリッパの音を鳴らす。 「四條さん入れる?」 「四條さん入れても現分室在籍は六人、茅萱部長の籍は営業にあるよ」  そのままラウンジで仕事を始めると思いきや、詩緒たちの後ろから階段を上る千景が真香と詩緒の会話に答えを届ける。 「何でまた」  一時期ヘルプとしてアサインしていた自分の様に所属自体が分室に変わるものだと思っていた綜真は関係者でありながらも籍を営業部に残したままの茅萱の立場を不思議そうに首を傾ける。 「俺がアイツを寮に入れたくないからに決まってるだろ……」  二階へと辿り着き手前から真香、詩緒、綜真とそれぞれの部屋の前へと立ち扉にてを掛けた時、地の底から這い上がるような千景の声が聞こえた。 「四六時中ヤる声が響く寮にしたいなら構わないけど」 「でも現に今……」  詩緒と真香は同時に背後を振り返る。二人の部屋の丁度中間地点の背面に斎の部屋があるが、その扉は閉ざされたままだった。特に欠勤連絡も受けてはいないが姿を現さない斎の部屋を前に千景は腕を組んで中の住人の様子を確認する。声が響きやすいという訳も無いが静かな寮内では誰かの声一つでもはっきりと聞き取る事が出来る時もある。朝のミーティングが終わり詩緒や真香が戻ってきた事が聞こえない筈も無く、それでも姿を現さない中の住人に千景は薄い笑みを浮かべながらもキレかかっていた。耳を澄まさずとも扉の向こうから聞こえる微かな声の影響で涼し気な顔をした千景の蟀谷に青筋が徐々に浮き上がっていく。 「ちがっ、茅萱さんっ……もうミーティング終わってるっ、怒られるってぇ……!」  真香の許しも得た上で茅萱の泊まりは斎にとっては嬉しいものであったが、まだ好き勝手に出来る状態で無い事は重々理解しており特に真香を刺激しないよう振る舞いには気をつけるつもりは斎の中にあった。しかし思いが通じた相手と一晩共に過ごして何も無い訳が無く、詩緒と綜真は例外だとしても当然斎と茅萱の間にも夜の営みというものは存在していた。  問題はそれだけで済めば良かったが、三十を半ば過ぎてはいてもその若々しい見た目そのままに衰えを一切感じさせない茅萱の性欲は、ある意味本当に若い玲於よりも歯止めが利かず、また仮に歯止めが利く状況であったとしても玲於にとっての千景とは異なり、斎に茅萱が止められる訳も無かった。 「っせぇな、朝勃ちしたんだから仕方ねぇだろ。ちゃんと全部飲んどけ」 「茅萱さぁんっ……」  それが夜だけの事ならばまだしも、二人にとってはこれが初めて一晩を共にして朝を迎えた形となり、目の前で無防備に眠る可愛い姿を目の当たりにした茅萱のなけなしの理性は簡単に崩壊し今に至る。  扉の外から聞こえてきたミーティングが終わり戻ってきた真香たちの声に生きた心地のしない斎は何とか茅萱を諫める事が出来ないかと画策するが、完全に主導権を茅萱に握られている斎にそれが出来る筈も無く、ミーティングを黙って欠席した事は焼き土下座で許されるだろうかと考えながら鬼の形相を浮かべる千景の姿を想像した時、けたたましい轟音が室内に響き思わず茅萱も息を呑んで玄関へと視線を向ける。  その音は室内だけではなく二階全体に響き、思わず詩緒は心臓が止まりそうな程驚いたが、一方の綜真は触らぬ神に祟り無しと見なかった事にして室内へと引っ込む。 「ミーティング終わってんだよテメェら……朝から盛ってんじゃねぇ」  地を這うような千景の声が呪詛のように部屋の住人へ投げ掛けられ、そそくさと逃げた綜真の代わりに真香が詩緒の肩を掴みひそひそと千景に聞こえる程度の小声で話し掛ける。 「元ヤン?」 「元ヤンだよな……」  綜真と再会した頃からその片鱗は見え隠れしていたが目の前でそれを見るのは初めてで、真香が背中を擦る手で呼吸を落ち着かせる詩緒は中の二人の命は無いだろうと考えていた。もし茅萱が入寮していたならばきっとこの比では済まなかっただろうと考えた真香は昼食には何か千景の好きな物を作ろうと考えていた。 「御嵩さんは現役じゃないの?」 「え、流石に現役じゃ……ねえだろ」  言葉を濁した詩緒ではあったが、一緒に温泉にでも行く機会が無い限り決して露見する事の無い刺青の存在を知っている身としては一概に現役では無いとも言い切れなかった。  役職を下りたといっても発情期真っ盛りのような言動しかしない茅萱を強制的に斎の部屋から引き摺り出し、諌められなかった斎も同罪だととばっちりを食らった斎と並べて二階の廊下に正座をさせていた千景は、次に時間を守らなかったら爪を剥ぐとやけに生々しい警告を出し、その言葉を聞いた茅萱の顔色がみるみる内に青褪めていくのを斎は不思議そうに横目で眺めていた。  廊下に正座をさせるだけでも十分な見せしめにはなり、大きな理由が無ければ業務中は自室から出なくとも休憩や用足しには困らない為尚更誰も出てこない廊下に正座させるという行為は効果的だった。昨今正座の強制は身体に悪くもあり虐待やパワハラだと騒がれる案件でもあったが、ここが分室である限りパワハラはパワハラでは無くなる。  少し前までは部長という立場に居たのだから欲に流されて情けないと千景は自らの事を棚に上げ辟易した目で二人を見下ろしていた。その時千景が胸ポケットに入れていたスマートフォンが着信を知らせ、千景は二人を正座させたまま壁に寄り掛かって着信に応じる。 「りゅう兄何か用?」 『ああ今平気か?』 「うん」  それは予め通話をして良いかと尋ねるより早く発信をしてしまう竜之介からの着信で、千景は時折正座をさせて二人に視線を向けながら堂々と目の前で私用電話に応じる。 『お前に頼まれたレオのストーカーの件だけど』 「……どうだった?」  斎と茅萱の件が衝撃的過ぎて消え掛かりかけていた玲於に対するストーカーの事件について、玲於は千景が撃退したあの日からもう現れなくなったと言っていたが、千景はその犯人に心当たりがあった。それは対峙したからこそ疑惑が深まり、勘違いであって欲しいと願うからこそ玲於からストーカーの話を聞いた時点で竜之介に頼んで玲於のストーカーについて調べて貰っていた。  今竜之介の手元には依頼した調査事務所からの結果報告書があり、その結果は現在の家族でもある千景にも知らせるべき内容であると判断したからこそ、業務時間であろうが構わず千景に着信をしてきていた。  いつそれが玲於自身の耳に入るかは分からないが、千景の性格上恐らくすぐに玲於へ伝えようとはしないだろう。御影という嵐が去った二人の生活にこれ以上波風を立てない事が最善であると竜之介は認識しているからこそ千景にのみその事実を伝える事にした。 『お前の言ってた通り、やっぱり……レオの父親だったよ』 「やっぱりな……」  自分の事というものは案外分からないもので、玲於も少しばかりは相手の顔を見はしたがそれが自分に似ている等とは思いもしなかった。千景だからこそすぐにそれが玲於の血縁者であるという事が分かった。日本人とは掛け離れた彫りの深い整った顔立ちは玲於と全く同じで、一年前に亡くなった玲於の母親涼音と玲於自身にも暴行を加え続けていた父親その人であると、千景は対峙した瞬間に気付いていた。

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