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①そうだ、婚約破棄しよう
「――は、僕だけのものだから、僕以外に笑いかけないで」
にこりと微笑みながらそんなことを言ってくる男が、どうしてかとても怖い。自分はこの男を知っていて、この男に捕まってはいけないのだと理解していた。どうしてだったかは思い出せないけれど。
恐怖に心臓が痛いくらいに音を立てる。怖い。自分はこの男のことを何も知らないのだけど、男の危険さだけは知っていた。
男がこちらに近づいてきて、慌てて後ずさる。何とかしないと。逃げないと。
男の手が腕を掴みかけて、反射的に目を閉じる。
――そこでやっと目が覚めた。
「ケイ、ケイ」
「……あれ、ユキさん」
じっとりと嫌な汗でシャツが体に張り付いている。悪夢を見たのだと理解する。幼いころから繰り返し見る夢だ。何かに追い詰められそうになる夢。でも起きた時にはほとんど覚えていない。
昔から、こうして悪夢を見ているといつもユキが起こしてくれる。だから眠るのも怖くないのだと告げると『せめて僕がいる時は悪夢を見ないのが一番なんですけどね』と困ったように笑っていた。
「また、怖い夢を見たんですね」
ユキはケイの汗で濡れた額をタオルで拭いてくれて、それから優しく髪を撫でてくれる。そうしている間に胸の苦しさが消えていく。
「ありがとう、ユキさん。でももう大丈夫だから」
いつまでもユキに甘えていられない。そっとユキの手を自分の頭から離し、ベッドから起き上がる。
「学校、行かないと」
「休んでもいいんですよ?」
「ユキさんは俺のこと甘やかしすぎ」
普通、悪夢を見たくらいで休むという選択肢は発生しない。だがユキときたらケイが悪夢を見る度に学校を休ませようとしてくる。
そもそも学校になんて行かなくてももうお嫁さんになることは決まっているのだから、勉強なんてしなくていいのにとか。そうやってケイのことを甘やかしてダメにしてどうする気なのだろう。
「どうせ明日から長期休暇だし、行きますよ。それにユキさんだって仕事でしょ」
「ケイ君の看病……」
「俺の看病するからって言って休むのはダメ。看病もいりません」
この人は優しすぎて人をダメにするところがあるから自分がちゃんと気を付けないと。ケイはそう決意して、それから学校の支度を始めた。
※※※
ユキは、ケイの婚約者だ。ケイが生まれる前から隣の家に住んでいる、五歳上の青年。優しくて穏やかで、ユキのことを嫌いな人間なんてこの世にいないんじゃないかと思う。少なくとも、ケイはユキのことがずっとずっと好きだった。ケイの物心つく前から結婚の約束は決まっていたみたいだけど、きっとそのことがなくてもケイはユキのことを好きになったと思う。
優しくて、綺麗で、大好きな人。
そんなユキを憧れている人間はケイ以外にも沢山いる。平凡なケイがどうやってユキに取り入ったのかと、良く思わない人間も多い。そんなことはケイも知りたいが、何となく婚約の理由は両親にもユキにも聞けずにいた。
たとえば幼いケイの我儘で、仕方なく婚約したということだったら?
本当はユキも嫌々婚約しているのだとしたら?
優しいユキのことだ、本当はケイのことを拒めずに困っているのかもしれない。それなのにあんなにケイを甘やかしてどうする気なのだろう。
今はユキが学校の近くに借りたマンションから登校しているが、あと数か月もすればケイも卒業する。卒業したら結婚することになっているから、時間はあまりない。すぐにでもユキの意志を確かめて、ユキを解放してやるべきだとは思っていた。だってユキのことを欲しい人間は沢山いる。
でも、それはケイもそうで。このまま何も聞かずに卒業して結婚して、ずっとユキと一緒にいたいとも思う。きっと許されないし、ケイ自身がそれを許すこともできないと思うのだけど。
「お前はユキ様と釣り合わない」
だから、学校帰りにいつものように呼び出されて、投げかけられた言葉がすとんとケイの中に落ちてきた。そうだ、ケイはユキに釣り合わない。自分自身も納得する言葉だ。自分はユキに相応しくない。
思わず「ありがとう」と返したら、相手は目を丸くした。
「だ、だから、ユキ様と早く別れて、ユキ様を解放すべきだっ」
「うん、わかってる」
「わかってるなら何で」
「俺、今日ちゃんとユキさんと話してみる。ありがとう」
相手はどうして感謝されているのかわからずに動揺していたが、ケイはとにかく彼の言葉が有難いと思った。そうだ、ちゃんと話して、ユキを自由にするべきだ。自分なんかがユキを独占していてはいけない。
ちゃんと婚約破棄してもらって、実家に帰ろう。就職できるようにもう少し勉強もしないと。大丈夫、ユキは優しいから、きっとケイの行く道を応援してくれる。
名も知らぬ男にもう一度礼を言って、それから走り出す。五分と経たずマンションに着く。
珍しくユキはもう帰っていた。
「おかえりなさい、早かったですね」
「ユキさん、ただいま。ユキさんも早いね」
「明日からケイ君がお休みだからご馳走を作ろうと思って」
キラキラした笑顔が眩しくて、思わず目を細める。決意が一瞬で崩れそうになる。だって仕方ない、ケイはユキのことが好きなのだ。もう少しだけこのやりとりを味わっていたい。
だが、そんなケイの我儘で今日までユキの時間をどれだけ奪ってきただろう。だから、今日こそはちゃんと。
「ケイ君の好きな唐揚げも作りますからね」
「やった! じゃなくて、ユキさんに話があって……」
「話?」
首を傾げるユキも綺麗で、やはり未練が顔を出す。いや、ダメだ、別れる。それで、でも、卒業して就職してからまたアタックするのはアリだろうか。別に今は振ってくれていいからそれくらいは許して欲しい。
「その、婚約破棄してほしくて」
「何で?」
「えっ」
「卒業したら結婚してくれるって言うから待ってたのに、どうして?」
「ユ、ユキさん」
きっと困ったように笑ってでもこれで子供のお守りから解放されると安心してくれると思ったのに、ユキはいつもの笑顔なんてどこかに忘れてきてしまったような無表情でぐいとケイの腕を掴む。ゾクゾクと背筋に震えが走って、胸がドキドキしてくる。
「今すぐお嫁さんにするしかないですね」
ユキの声がやけに冷たく響いた。
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