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竹林の道は静かで、心が洗われるような気がする。
表門では今ごろ客を見送っていることだろう。彼が見送りに出なくとも今日の客は機嫌を損ねなかった。だから彼はひとりで庭に出ていた。
寝巻に草履という格好だが、ここに外の者は入れないし、どうせこのあと体を洗うのだ。今夜は出かける予定があり、その前に気分を切り替えたかった。
「なぜ私のものにならない?」と今日の客はいった。
「私が君のために用意しているものを知ったら、驚くぞ」
同じような申し出がこれまでに何度もあったことを彼は告げない。もっとも、客もそれは承知である。これは駆け引きのひとつであり、客は自分を有利にするため、彼を、正確には彼の家を喜ばせるための便宜を約束する。
もっとも客は、この家に生まれたオメガが最終的にどうなるのかをよく知っている。いつか砦は崩れ、彼は陥落する。相手は帰ったばかりの客かもしれないし、このあと会う相手かもしれない。
いや、今日が陥落の日となる可能性はとても高かった。それを彼が知ったのは、さっきの客がくる直前のことだ。今夜、公爵家を訪問すると弟に告げられたのである。
「今日? だが午後は政府の――」
驚いて聞き返した彼に、弟は冷たい口調で告げた。
「兄さん、そろそろいいのではありませんか」
言葉づかいこそ丁寧だったが、彼は理解した。この家の何もかもを所有するアルファの弟は決めたのだ。
屋敷の庭は広く、竹林の道は高い塀のすぐそばまで続いている。彼がここを歩くのはこれが最後かもしれなかった。
彼を攻め落とすために、この一年、さまざまな客があの手この手を使ってきた。競争相手を出し抜くのは客にとって楽しいゲームだ。いつか彼は客のひとりに賞品としてうなじを差し出す。この家に生まれたオメガは全員、そう定められている。
もっとも彼の場合はすこしだけ、これまで生まれたオメガと事情が違う。
長子として生まれた彼がオメガだと診断されたのは、二十歳をとうに過ぎたあとのことだった。ごくまれに、オメガの形質が発現しないまま成人を迎える者がいる。彼のオメガ性は、父の急死後、家督を継いだあとにあらわれた。
その瞬間から彼は家を率いる者ではなく、家の財産目録に載る存在となった。
彼が長子であることなど、何の関係もなくなった。法律上はまだ、彼はこの家の長ということになっているが、実質的な権限は弟が自動的に引き継いだ。なぜならオメガは財産であり、もっとも有利な条件を示したアルファに買われるものだから。
地位のある男たちの多くはアルファだが、ひたいにしるしがあるわけではない。発情したオメガに出会えばアルファも発情する。オメガと交合すれば子をなせる。
弟は何年もまえにアルファの特徴をあらわにしていた。一方彼はただのベータだった――ただ先に生まれたというだけで彼は男爵家を継いだのだ。
それは間違いではないはずだったが、オメガ性があらわれると、何もかもが仕切り直しになった。
彼は勤務先だった大学の研究所を辞めた。同僚には男爵家の当主としての任に忙しく、また体調を崩しがちだからと伝えた。
完全に嘘というわけではない。当主としてではないにせよ、家が与えた任務に彼が忙しいのはたしかだ。最初の発情を迎えたあと、彼の元には何人もの客が訪れるようになった。一族が見込んだアルファである。政府の高官や、もっと位が高く裕福な華族や、富豪の男たち。うなじを噛むに足るオメガを探し、手懐けようとする男たち。
客と会う時、彼の首には枷が嵌められている。それはアルファに無理やり嚙まれないための防具だが、枷をつけたオメガはアルファにとって、噛む以外の何をしてもいい相手でもある。とはいえ、彼の元を訪れるような客はけっして無体なことはしない。オメガは大切な財産なのだから。
そのせいかどのアルファも、彼も楽しんでいると思っている。たしかに今の彼はそれを否定できない。少なくとも快楽はある。
客と会うためにしつらえられた奥座敷で、服を剥ぎとられて腹を撫でられるだけで、彼の秘部は濡れはじめるのだ。打ちこまれた楔を締めつけ、高い声で喘いで、何度も果ててしまう。
最初のうちは慣れなかった。発情を迎えるまで彼には欲求がほとんどなく、男を受け入れる悦びなど知らなかった。客たちははじめて経験する快楽におののく彼を、優越に満ちた目でみつめた。生まれた時からオメガだとわかっていた連中より、君の方がいい。何度も、何人にも、そういわれたものだ。
この家はこれまで何人も、一族のオメガを取引のために差し出してきた。彼は一族にとって予想外の資産だった。しかし家督を継いだあとだったため、一族は多少の策を弄しなければならなかった。
彼に最初の発情が訪れる前、一族は手順を定めた。家督を継いだ男子が妻帯しないと、あらぬ疑いをかけられることになる。一族は彼に形式上の妻を与えた。慎重に選ばれ、秘密を守ることを彼ではなく一族に誓った妻を。世間は彼がオメガだと知らないし、知らせる必要はない。彼の未来のために選ばれた客も、秘密を堅く守る者だけだ。
彼が買われたあとの手順も決められている。彼は法にのっとった理由で、たとえば病を得て任に耐えなくなったという理由で、家督を放棄するだろう。やがて彼の名は紳士録から消え、秘密の系図に書き写される。形式上の妻は婚姻を解消し、他の血族、彼の場合は弟に迎えられるだろう。
アルファの弟がとっくの昔に妻と関係していることを彼は知っていた。
すべてはほんの一年のあいだに起きたことだ。以前の彼には親友もいて、熱心に取り組むべき仕事があった。しかし自分がオメガ性だとわかってから彼はうかつに外出もできなくなった。親友に会ったのは結婚すると告げたときが最後だ。
「なんだって、結婚?」
「ああ。そういうことになった」
「だから最近なしのつぶてだったのか? まさかおまえに先を越されるとは思わなかったよ。女人など知らぬという顔をして、俺を騙していたな。なんてやつだ」
親友は冗談めいた口調でいい、白い歯をみせて笑った。だがその目はまっすぐ彼をみつめていて、炎のように揺れるものがその奥にひらめいた。ふと、彼は体の奥に思いがけない熱と、太腿をつたう雫を感じた。
そのとき、もう二度と会えないとわかった。親友がアルファだと彼はこれまで知らずにいたのだ。
竹林を歩いていると心が洗われると思ったばかりなのに。
彼は立ち止まり、一本の竹に片手をおしつける。あいつとここを何度も歩き、笑いあって、たくさん話をした。もう遠い昔のことのようだ。
親友の顔を思い出したとたん、彼は腰の奥が疼くのをおぼえる。
客はもう帰ったのに、体はまだ熱かった。オメガ性に目覚めてそれほど経っていないせいか、彼の発情のほてりはなかなかおさまらない。
彼がオメガだとわかってから、身の回りにいる者は注意深く選別され、子供であってもアルファの兆候を示す者は辞めさせられた。気に入っていた庭師の親子がいなくなったのもそのためだ。たしかにその意味はわかる。
今の彼も無意識に自分を抱く手を求めてしまっている。裸に剥かれ、雫で濡れそぼった肉に猛る欲望を突き立てられたいと、あさましい思いにかられている。
このあと会う公爵にも彼はすすんで服を脱ぎ、自らをあけわたすのだろう。うなじだけは守られているが、それも時間の問題だ。
「君に会いたい。あのとき君に……何もかも話せばよかった。そうしたら……」
そしてどうなったというのだろう?
日が暮れようとしていた。乱れた奥座敷はもう片付けられているだろう。戻って支度をしなければならない。公爵には前も抱かれたことがある。彼を言葉で虐めながら、泣き叫ぶまで執拗に責めたてる。あの男のつがいになったらそれも当たり前になってしまうのか。
公爵よりは今日の客の方がまだましだった。いっそ今日、うなじを差し出せばよかったかもしれない。しかし首の枷を外す鍵は弟が持っているし、どこに鍵をさしこめばいいのか、つけている本人にはわからない仕組みになっている。
弟は公爵に鍵を渡したにちがいない。まもなく誰かが彼を探しに来るはずだ。だから彼はこんなところにいるのだった。体のほてりをごまかすためでも、友を思い出すためでもなく、すこしでも時間を稼ぐために。
しかしそれも、甘い考えだったらしい。
「旦那様、旦那様ですか」
彼を呼ぶ声がする。屋敷の方向ではなく、彼の足が向いている方向だ。彼は顔をあげた。道のつきあたりに最近雇われた庭師が立っている。
「なんだ?」
「あの、旦那様に御用だという方が」
庭師の声にはかすかに田舎の訛りがある。
「ここにか?」
「え、は、はい」
いったいどういうことだ。使用人でも家族でもない者が、ここに来られるはずがない。
彼は怪訝な目で庭師の朴訥な顔をみつめ、一歩踏み出した。
竹のあいだに信じられないものが見えた。
「どうして君が、ここに?」
きっと夢をみているのだ。おそらく彼はまだあの奥座敷の、情欲に汚れた布団で眠っているにちがいない。なぜならそこにはいるはずのない人間がいるからだ。
「都合のいい夢だ」思わず彼は考えをそのまま口にした。
「君のことを考えていたら、君がきた。まるで……」
「まるで、なんだ?」
相手は怒ったような口ぶりだった。
「おい、俺をなんだと思っている」
「いや、まるで……僕を助けにきたようだからだ。そんなこと、あるはずがないのに」
そういったとたん、彼は右頬が濡れるのを感じた。
右手をあげ、涙をぬぐいながら、どうして片目だけなのか不思議に思う。ひょっとすると夢の中でひとは片目ずつ泣くのかもしれない。片目ずつ泣いた方が、涸れるまでの時間が長いから。
「おい、泣くな」
相手が一歩前に出た。
彼は頬を撫でる親友の手を感じた。すると今度は左目からも涙が流れ出し、ああ、もったいない、と彼は思った。
「勘弁してくれ。せめて僕に片目ずつ泣かせてくれ」
「おかしなことをいうなよ」
「どうして? この涙が涸れたら君はいなくなるだろう。僕は目を覚まし、公爵のところへ行かなければならない」
「そんなことをさせるか。おい、立ったまま寝ぼけているのか?」
ふいにぐっと抱き寄せられて、彼は唖然とする。
「まさかと思うが、これは……現実なのか」
彼は親友の胸に顔を押しつけられていた。いつのまにか涙が乾いている。洋装の親友の胸板は分厚く、暖く、耳に鼓動が聞こえてくる。
昔、何のはずみだったか、こんな風にこの竹林で抱きしめられたことがあった。彼がなにかにつまずいて、転びそうになったとか、そんな理由で。
あの時とおなじ匂いがする。だが今の彼の体はもっと鋭敏にこの熱に反応していた。
「現実もいいところだ。俺はおまえを迎えに来たんだ」
「でも、どうやって――」
「おまえをさらう計画を練った。協力者も募ってな」
「だけど――」
「だけども何もない。行くぞ」
え? 途惑って顔をあげた彼に庭師が風呂敷包みを差し出した。
「うしろを向いてますから着替えてください。早く、誰か来る前に」
彼はぽかんとして包みを受けとった。
「あ? まさか――」
「ぐずぐずしていると俺が脱がすぞ」
親友が彼と庭師のあいだに立ちふさがる。
「裏門で車が待ってる」
「あ、ああ」
彼は急いで風呂敷包みをあけた。入っていたのは親友が着ているものに似た洋装だ。なつかしさにまた涙が出そうになった。オメガだとわかってから、彼はずっと和装しか許されなかった。大学に通っていたころ着ていたものはすべて取り上げられてしまっていた。
彼は帯を解いたが、寝巻の襟が緩んだ瞬間、親友の眉がひそめられたのを見逃さなかった。
「頼む」かろうじて小さな声が出た。
「見ないでくれ。僕は……」
「断る」親友は容赦なくいった。
「この先、おまえを見るのは俺だけだ」
親友は彼がシャツのボタンを留めるのを手伝った。彼は庭師が差し出した靴を履くと、親友に手を引かれて、ひきずられるように歩いた。すぐに誰かに見咎められるにちがいなかった。いたるところに使用人の目があるのだ。
しかし誰も声をあげなかった。彼は自分が透明になったような気がした。裏門から外に出ると車と車夫が待っていた。乗りこむと親友は彼の手にそっと何かを握らせた。
「おまえが持っていろ。あとで外してやる」
車が揺れた。肩に親友の体温を感じながら、彼は握りしめていた手を開く。
手のひらには小さな銀の鍵があった。
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ええ、そう、前の旦那さんは大人しい方でしたよ。まだ若くて、華族さまなのに俺みたいな車夫にも丁寧でね。最後にみたとき? あの日は来客があったんです。時々やってくる政府の高官のひとりで、今はほら、華族さまってもいろいろ大変でしょ? 政府の偉い人と定期的にかかわってないとまずいみたいで。偉い客がくると使用人も総出で出迎え見送りしなきゃいけないし、けっこう屋敷の中がごたつくんですよ。で、夜に旦那は公爵家にいく予定だったんです。
車夫は二人いるんですが、俺がその役人をむこうの屋敷まで送りました。旦那を訪ねる客はみんな偉そうで立派な服装だけど、だいたい感じが悪くてね、あ、俺がこんなこといったなんて、話しちゃ困りますよ? 客を送って俺は裏門から戻ったんだけど、旦那は入れ違いにもうひとりの車夫の送りで公爵家に行くはずだったんです。ところが旦那が出て来ないって表門で騒いでる。で、家じゅう探し回ったのに、みつからなかったんです。
本当に不思議な話ですよ。最後に旦那をみたのは新しい庭師で、屋敷の裏手の竹林を散歩していた、というんですがね。その先には出口なんてありません。俺たち使用人が使う裏門だって、厨房の下働きとか、四六時中誰かいて、誰にも見られずに出て行くなんてできないんですよ。屋敷の塀を超えて? 華族さんの屋敷を舐めてもらってはこまりますよ。泥棒とか新聞記者とか、おかしな連中がよく来るから、塀なんて簡単に超えられないようになってるんです。だからほんとに神隠しにあったって、もう大騒ぎでしたよ。なんていっても旦那さん実はお――いや、まあそんなで、今の旦那がもうかんかんでね。なにしろあの日はついに公爵様のところへよめい――その、行くことになってましたからね、いったいどこへ行ったってすごい剣幕で、ほんと華族さんっていったい何なんですかね、あ、これも告げ口しないでくださいよ?
前の旦那さん、良かったんだけどねえ……なんか色気があって、奥さんより綺麗だったし、丁寧でね。使用人には今の旦那よりぜんぜん慕われていましたよ。車に乗せたときはドキドキしたりして。ほんと、どうなったんですかねえ。俺、あの人は幸せになってほしかったんですけどね。今はどうしていることか……なにせ神隠しですからね。あ、こんなにもらえるんですか? こりゃすんません。え? 前の旦那の行方? だから神隠しだっていってるでしょ! 俺はなーんにも知らないんですから、ほんとですよ。怖いですよねえ、神隠しって。
*
(おわり)
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