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後編
*
監視という任務はいつも、すっきりしない結末を迎える。
いや、そもそも現実のスパイに「すっきり」などありえない。映画のようなアクションも存在しない。世間には何をしているのか話せない、秘密の特殊な仕事でしかない。だから終わったあとは憂鬱になる。
十月三十一日、今日こそがハロウィンの本番だ。昨夜は人がつめかけた街路で事故もあり、ニュース欄は騒然としていた。JSXRのアピールもニュース欄にあったが、あまり目立ってはいなかった。ジラフの監視は次のチームにバトンタッチしたので、書類仕事を終えれば一週間の休暇が待っている。
遠夜は報告書を送信してデスクを離れ、ふりむいたとたんに戸口をくぐった大神と鉢合わせた。珍しいことだと思う。いつもなら大神は途中で席を外して息抜きなどしないし、遠夜より先に報告をあげるのが常だ。
「終わったのか?」
問いかけてきた相棒に遠夜はうなずく。
「俺はこれからだ」
大神は小さくため息をついてモニターに向かい、せわしなくキーボードを叩きはじめた。ジャケットの下の背筋は凛と伸びていて、まるで軍隊にいた人間のようだ。以前何気なくたずねると「実家が道場だからだろう」と大神は答えたものだった。
痩せてみえるが、脱げば驚くほど鍛えられている体だ。なぜ遠夜がそんなことを知っているのか? 答えは簡単、これまで二度、寝たことがあるからだ。そこまで行かない場合も含めれば三度。どの機会も、任務のあとの興奮や任務中の事故にすぎなかった。欲望を処理する必要のため――
馬鹿者。つまらないことを思い出すな。遠夜は黙って大神に背をむけ部屋を出た。それでも街路を歩いているうちに誰にぶつけることもできない忌々しさがつのり、職務上のバディに対して欲求を覚える自分を腹の底で呪う。
まったく、どうかしてる。大神と何があったにせよ、それは仕事の一部、コミュニケーションの一環のようなものだ。遠夜は大神以前に組んだ男たちとはぎくしゃくしがちだった。でもなぜか大神とはうまくいっている。それはどんな任務がおわったあとも、大神の態度が変わらないからだ。
他の連中はちがった。任務を重ねるごとに遠夜を見る目が変わり、遠夜の望まない方向へ距離をつめてこようとした。大神は貴重な人間なのだ。あいつにバディを解消したいなんていわせないために、せいぜい用心しなければ。
赤信号で立ち止まったとき、ポケットでスマホが震えた。表示された名前をみたとたん胸の中がざわつく。期待を裏切られたのか満たされたのか、自分でもわからなかったが、遠夜は電話をとった。
「クリス。何の用ですか」
『つれないあいさつだな、遠夜』
電波のむこうで男は余裕の口ぶりだった。
「あんたが忙しいことはよく知ってますから」
『JSXRに遭遇したそうじゃないか』
「耳が早いですね。それがなにか?」
『いや、現地にいたきみの感想を聞きたいと思っただけさ」
「俺はこれから休暇なんです」
『奇遇だな。私もそうだ』
いくら素っ気なく話しても無駄だと遠夜にはよくわかっている。クリストファー・E・スタインは遠夜の元教官で、〈スコレー〉では遠夜よりずっと上の役職にある大物だが、悪魔のように他人を魅惑する人間でもある。
『私は三日まで――にいる』
クリスは常宿にしているホテルの名を告げた。
『いっておくが、私がこんな風に連絡する相手はきみだけだ。遠夜』
まさに悪魔のささやきだ。遠夜は黙って通話を切り、スマホを片手に信号を渡った。男の声を聞いただけでまた欲情をかきたてられたなど、認めるつもりは毛頭なかった。
横断歩道を通りすぎてから別の番号をタップする。
『香西。どうした?』
「もう帰ったか?」
大神はまだ所内にいると思っていた。しかし電話の向こうからは雑音が聞こえる。音楽と人の話し声だ。
『いや、まだだが――』
「明日から休みだし、飲みにいくのはどうかと思ったんだ。さっきは忙しそうだったからな」
『ああ――』
妙に歯切れの悪い口調だと思ったとき、背後の声が大きくなって、サトシ、と呼びかける声がはっきり聞こえた。女の声だ。
遠夜は思わずスマホを耳から離し、そっと息を吐いて、また耳にあてた。
「誰かと一緒か」
『悪い、いまちょっと取り込み中で』
「こっちこそ悪かった。休暇を楽しんでくれ」
取り込み中か。大神は職務上のバディだ。おたがいのプロフィールは知っているが、個人的事情に詳しいわけではない。仕事上の必要で同じ部屋に寝起きしたり、必要なら性欲処理まですることがあっても、バディはけっして恋人ではない。
バディを維持するために必要なのは独占欲ではなく信頼だ。どんなときでも相手を我慢できるくらいの、いざというときに何もかもを預けられるくらいの、信頼。
まったく、何をがっかりしている? 昨夜にひきつづき、遠夜は自分を嗤いたくなる。用心しなければならないと思ったばかりだろう。いったい何を期待していた?
遠夜はふたたび歩きはじめる。繁華街へ向かう電車の中はおどろおどろしいメイクや奇抜な衣装の人間が目立つ。昨日ジラフと一緒にいた若者はいまどうしているのか。遠夜はガラスに映る自分の顔をみつめ、欲情がむきだしになっていないか、ふと恐れた。
*
呼び出されたからといって応じる義務はどこにもない。それでも結局、遠夜はここにいる。
十一月二日、休暇といっても出かけたい場所もなく、招く相手も招かれる相手もいない。たまには料理のひとつもしようかと思ったが、ろくな材料も調味料もないと気づいたとたん、買い出しに行くのも面倒になった。そんなときのダメ押しの一手はこれだ。
『どんな休暇を過ごしている?』
クリスはいつまでこの国にいるといったか。たしか三日、そうだった。スマホのロック画面にあらわれたメッセージを遠夜は睨み、ため息をついたあげく、クリーニングから回収してきたばかりのシャツに袖を通した。
アルテミス、と返信する。ボタンを留めているあいだにまた返信がある。2045。極端に切り詰められたやりとりは暗号でもなんでもない。遠夜は身支度をして部屋を出た。ずっと昔、まだ十代のころ、クリスが最初に遠夜を連れ出したスポーツバーは、彼の常宿の近くにある。
店内は奥に長く、間口から予想されるより内部は広い。壁には何台も大型モニターがかけられ、どの席からも放映される試合がよくみえる。今流れているのはNBAの録画だろうか。クリスはバスケとラグビーが好きで、サッカーと野球にはあまり興味がなかった。くだらないことを覚えている自分に遠夜は苦笑する。遠夜はどんなスポーツだろうと、すすんで見たいと思ったことはなかった。それでもクリスの影響で、ラグビーのルールには詳しくなった。
遠夜はカウンターで半パイントのビールを注文し、奥へ行く。クリスはノータイだった。みるからに仕立てのいいシャツの第一ボタンが外れ、喉仏がくっきりとみえる。短く刈った髪の下の精悍な顔立ち、筋肉質の肉体、すべてにおいて存在感のある男だ。座っているだけで場を支配する。
「遠夜」
遠夜は黙ってグラスをあげた。クリスの前には黒ビールがあった。一杯目にちがいない。その気になれば飲めるのだろうが、教官時代もそのあとも、この男はビールについては節制を守る。
遠夜が向かいに座ったとたんモニター画面が切り替わり、ニュース映像が流れはじめた。今年のハロウィンは物騒だった。路上で起きた乱闘に多数の人間がまきこまれた事件はまだワイドショーのネタになっている。クリスは遠夜の視線を追って、にやりと笑う。
「ものいいたげな目つきだ」
「べつに。若さとは馬鹿の同義語だと思っただけです」
「きみも十分若いじゃないか。JSXRのメンバーはどうだった?」
「彼らを気にする必要があるんですか?」
遠夜の知る範囲では〈スコレー〉はまだJSXRのような新しいムーブメントをそれほど重要視していない。遊園地で遠夜が目撃したのはせいぜい十数人で、ダンサーを押しのけて彼らがやったことはどちらかといえば下手なパフォーマンスアートだった。ネットワークや思想のバックボーンも薄弱だ。クリスが口に出したことが意外だった。
「気にしているわけじゃないさ。興味を持っているだけだ。彼らの思想は軽薄だが、若い世代にはファッションとして浸透するだろう。その一部はもっと政治的なアクションになり、さらにその一部は過激化するかもしれない。過去を参考にするのさ、ロマン主義や革命や……」
「あんたの話は俺には難しすぎる。要するに、連中の主張がジャストストップライフに変わらないか気にしてるってことですか?」
クリスは微笑み、煙草を咥えた。ライターがカチリと鳴った。よくできた、と褒められたかのようだ。心の底で、正しくクリスの「生徒」だった頃の記憶が疼いた。はじめてこの店に来た時はまさしくそうだったのだ。失敗と罪をつぐなうために、クリスにすがればいいと――それ以外に方法はないと思っていた。
実際、その通りだったはずだ。いまだに遠夜の夢には、すべての元凶であるアタッシェケースが登場する。友人を失う原因となり、クリスを知るきっかけになった、あのアタッシェケース。
どうしてあんなことをした?
アタッシェケースの中身をもとに、近づいてはならない人間に近づいたのは遠夜自身だ。もちろん|星《セイ》は止めた。いつも彼はそんな役割だった。遠夜より思慮深く、遠夜よりずっとまともな人間だったのに、失踪したのは遠夜ではなく星の方だった。そして星を探すためにクリスに近づいた結果、今の自分があるのだ。
「なぜそんな目で私を見る?」
ふいにクリスがたずねた。遠夜はハッとしてまばたきし、首をふった。
「なんでもありませんよ。思い出していただけです。俺の友達なら、あんたの話を難しいとは思わなかっただろうと」
「彼は欧州で暮らしている」
さらりとあたえられた答えに、息がとまりそうになった。
「欧州? 本当に――」
「今はちがう名前、ちがう人生だ」
「ああ……そうか……」
クリスの冷静な声に、ふくらみかけた風船から空気が抜けるように意気がしぼんだ。
「会いたいか?」
遠夜は首をふった。
「きっと俺は許されない」
クリスの爪がグラスに当たる。短く切られ、手入れされた爪だった。指は長く骨ばっているのに、どこか優雅さを感じさせた。遠夜のグラスはもう空だが、クリスのビールはまだ残っている。
「今日は死者の日だ。亡くなった友人を想う日」
「あんたいま、セイは生きていると」
「彼のことじゃない。私にもいろいろあるのさ」
「あんたにも友人がいたんですか」
「ひどいじゃないか、遠夜。私はきみを友人だと思っていたが?」
いったい、この男は何をいいだすのか。呆れるあまり、遠夜の口からは乾いた笑いが漏れてしまう。
「一般論ですよ。この仕事は……友人を作るのには向いていない」
「その通りだ」
「あなたが教えてくれたことです」
「それでもいつか、この日に私を想ってもらえるといいね」
クリスは残ったビールを飲み干した。薄い唇の隙間に舌がちらりとのぞき、喉仏が上下した。遠夜は目をそらした。無意識のうちにシャツの下で男の筋肉が自在に動くのを想像していた。
「私の部屋に来るか?」
「……あんたは……卑怯です」
「そういってくれるうちが花かもしれないな」
大型モニターでは別の試合がはじまっている。ポケットの中でスマホが震えたような気がしたが、遠夜は目の前の男をみていた。
*
煙草の匂いがボディシャンプーの香りに溶けていく。なかば曇った浴室の鏡に背中を押しつけられながら、遠夜はクリスの唇を味わう。男の太い首に手をまわし、口腔をくすぐり、愛撫する舌の動きにこたえながら、無意識に腰を男の腹に押しつけている。
クリスは唇を重ねたまま遠夜の腰を撫で、太腿をなぞるが、肝心の場所には触れようとしない。濡れた指が尻をつかみ、穴の周辺をくるくると撫でると、ぶるっと体が震えてしまう。絡みあっていた舌が離れて唇が自由になっても、遠夜の体はクリスの思うままだ。今度は浴室の壁に手をついて、尻を男に突き出している。長い指が尻の奥をまさぐるたびに、この先の期待で腹の底がきゅっとすぼまる。
快楽と同時に奇妙なうしろめたさがやってくる。去年の今頃も同じようにこの男に抱かれはしなかったか。自分の体をこんなにされて、おまえの矜持はいったいどこにいった。
「ああ、ああ――クリス……」
「バスルームで終わらせるつもりか?」男の声は軽いエコーを伴って響く。
「ほら、拭いてやろう」
ぶあついバスローブで一度は体を包んでも、浴室を出るとたちまちどこかへ消えてしまう。なめらかなシーツの上でクリスは遠夜にのしかかり、胸の尖りを舌で舐めしゃぶる。じりじりと焦がされるような愛撫に遠夜は腰をくねらせようとするが、上にいる男はそれを許さない。
「あいかわらず綺麗な体だ」
胸を吸われるたびに腰や爪先が反応する。男の舌が肌を這うたびに淫靡な水音が響く。いつのまにか濡れそぼった先端を軽く指でこすられて、達する寸前で止められる。
「どうしてこんなに感じやすい?」
「そんなの、知らな――」
「誰にも可愛がってもらえていないようじゃないか」
「あっ、あっ……」
「五月に会った時は」クリスの吐息が耳穴を熱く浸す。
「他の男が――私より優先する男がいるかと思ったが。相棒とはどうなった?」
大神。バディの顔と裸の胸がまぶたの裏を横切る。そのとたん胸の奥にずきりと走った痛みの正体を捉える暇もなく、股間をまさぐるクリスの指の動きに遠夜は悲鳴をあげそうになる。
「彼は……バディだ」
「だから?」
「あんたとは……ちがう」
「そうか」
ふっと笑うような息が当たった。クリスは遠夜の両膝を開かせ、尻の奥に指を入れる。遠夜の体はわかりやすく反応した。まっすぐに自分をみつめる男に何もかもをさらけ出そうと、腰が自然に持ち上がる。
「本当に熟れているな。こんなきみを放っておくとは、相棒も罪な男だ」
「ちがう、大神と俺は……」
「そうか? 私が前に話したときはそうも思えなかったが……」
ゆっくり押し入ってきたクリスの男根を遠夜の体はなんなく受け入れる。押し広げられた襞のあいだ、快楽の来る場所を擦られて、目の奥に白い光が飛んだ。
「あっ、んっ、はあっ」
「うしろめたいことがあると、きみは感じやすくなる」
「なに……あっ……そんなこと――」
「ずっと前からそうだよ。遠夜。でもきみはまだ私のものだ。うれしいよ、遠夜……誰がきみを抱いても……」
クリスは肉棒を遠夜の奥深くまで突き立て、揺さぶりはじめる。ずぶずぶと何度も奥を突かれるたびに、耐えがたい快感で頭の芯が白くなる。
「クリス、クリス――あっ、あっ、あああああ――」
追い上げられて白濁をとばしても、クリスはまだ遠夜を離さない。うつぶせに背中を抱かれ、無意識に突き出した尻を肉の楔に埋められる。つづけざまに与えられる快楽に気が遠くなりながら、シーツに喘ぎと唾液をあたえ、ついにぐったり横たわる。
「朝までいるといい」
クリスが髪を撫でていた。遠夜は目をあけ、かつての教官の目尻に細かな皺が寄るのに気づく。
「いえ……帰ります」
「帰れるのか?」
「あんたは悪魔みたいな人だから、俺は……」
自分が何をいいたいのかわからなくなって、遠夜は黙った。クリスはふっと唇を緩ませた。
「きみの相棒と仲良くやりたまえ。いつか時が来たら、昔の友人に会えることもあるかもしれない」
「会う必要はありません」
そっけなく告げて遠夜はベッドから下りる。この男の磁場から離れなくては、と思った。そうしなければいつまでも囚われてしまう。
シャワーを浴びて出ると、クリスはベッドの中で本を読んでいた。「おやすみ」と聞こえたが、遠夜は返事をしなかった。
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そろそろ日付が変わるころだ。情事で疲れた体はだるく、ホテルを出た遠夜はクリスの誘惑を断ったことを後悔しかけていた。クリスのいる窓をふりかえりたくなる自分の怠け心を呪って、のろのろと歩きはじめる。
何気なくスマホをみると着信が入っていた。遠夜は眉をひそめた。大神だ。休暇中に連絡をよこしたことなど、一度もないはずだ。
かけ直すべきか迷ったが、よくみると着信は一度ではなかった。時間をおいてもう一度かかっている。
歩きながら遠夜はコールボタンを押した。
『……香西』
「どうしたんだ?」
耳に押し当てたスマホが冷たく、堅く感じられた。大神の声は妙に歯切れが悪かった。
『コールバックすまん。誰に聞けばいいかわからなかった」
「何かあったのか?」
『……いま考えると、おまえに相談していいのかもわからない』
「いえよ」
思わず足が止まっていた。遠夜の声は思いがけず強い口調だったかもしれない。何となく居心地の悪い間のあとで、大神がぽつりといった。
『家族がJSXRに参加している』
遠夜は拍子抜けした。深刻な話とも思えなかったからだ。
「だから? 警察沙汰でもやらかしたのか?」
『いや。そうじゃないんだが……家族の話がどうも……いやな感じがしたんだ。あの組織の一部は〈スコレー〉の資料にある以上の――まずい方面に関係があるのかもしれない』
そう聞いたとたん、頭に浮かんだのは星 の顔だった。彼もそういったのだ。いやな感じがする、と。
こういった勘は重要だ。遠夜はスマホを握り直した。
「わかった、明日話そう。どこへ行けばいい?」
『すまない。あとでメッセージを送る』
スマホはすぐに沈黙した。大神と話しただけなのに、体の芯に力が戻ってきたような気がする。いましがたの疲労を忘れたように遠夜は早足で歩きはじめた。高層ビルの窓明かりが無数の目のように遠夜を照らしている。
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