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第24話 普通の

 アルキバは城の使用人達の共同食堂で食事を取った。  たくさんの使用人達に囲まれて次々と声を掛けられて大変だった。「飯食う時間なくなっちまうから、ちょっと話しかけるのストップな」と言ってしまったくらい。  そしてリチェルの自室に戻ってきたのだが。  部屋にいたリチェルの姿を見てアルキバは狼狽える。どうやら風呂上がりらしく、扇動的なバスローブ姿だった。昨日のガウン姿を思い出してしまう。  いい匂いを撒き散らしながらリチェルが駆け寄って来る。 「よかった、戻って来てくれて!その、やはり、メイド達と一緒に個室に行ってしまうんじゃないかと……。あ、いや、それはそなたの自由だから私は別に止めない、が……」  三角の襟元の白い鎖骨から目をそらしながら、アルキバは冗談めかして言う。 「俺がメイドちゃん達と寝るのが心配か?嫉妬してくれてんのか?」  リチェルはうっと言葉に詰まり、真っ赤になってうつむいてしまう。  頼むから否定するなり軽口で返すなりしてくれ、と思った。我慢にも限界がある。  ふうと息をつき、扉近くにある手押し車の上に置かれたポットやカップを見る。使用人が置いて行ったものだろう。だが茶を入れた形跡がない。 「もしかしていつも自分で入れてんのか?」 「ああ、そのほうが気が楽で」 「ほんと変わった王子様だな。まあ座っとけ」 「えっ……」  戸惑うリチェルを丸テーブル前の椅子に座らせ、アルキバは茶を入れた。カモミールティーの匂いだ。 「どうぞ」  手際よく茶を入れて持って来たアルキバに、リチェルは吹き出した。 「なんだ、おかしいか?」 「だって、アルキバがお茶を入れているなんて。そうか、貴婦人達に本当に色々と仕込まれてるんだな」  悪気もなく見透かされてしまった。他の誰かに言われたら不機嫌になるところだが、リチェルに言われると毒気を抜かれてしまう。アルキバは苦笑交じりに自嘲する。 「悪かったな、所詮は人気剣闘士なんてパトロン女達の慰みもんさ」  リチェルに掘られていたウーノをどやしつけたが、考えて見れば自分だってパトロン女達に春をひさいでいたのだな、と今更ながら気づく。  自分の性処理のつもりだったが、よく考えればあれは売春だ。リチェルへの怒りに駆られていた自分が、ひどく滑稽に思えて来た。  自分は既に売春奴隷だったか。  あっ、とリチェルは顔を曇らせる。 「すまない、そういうつもりで言ったのでは!」 「いや、大丈夫だ。飲んでくれよ、せっかく入れたんだ」  リチェルはアルキバへの申し訳なさそうな表情を引きずったまま、目の前に置かれた茶を口にした。その口元がふわりと綻ぶ。 「美味しい!」  早春の蕾が一斉に開花するような笑顔。その笑顔はアルキバの内側に湧いてしまった複雑な想念を、一瞬で打ち砕いた。 (ああ全部もう、どうでもいい)  ただシンプルに、リチェルを欲しいと思った。  誰かを欲しいと思ったことなど、いままで一度もない。  アルキバは常に、人々に求められる側だった。熱狂され、熱望され、焦がれられる側だった。  人々の熱狂に気まぐれに応じるだけの冷めた英雄。  そんな己の内にこれほど激しい感情があったとは。  ロワはこの感情を「恋」と呼んでいた。自分とは無縁と思っていたその単語。   (なるほど、厄介なもんだな)  ふっと笑みをこぼしつつ、正直、非常に気になっていたことを切り出す。 「ホテル・グラノードで、もし媚薬が効いてたら、俺のこと掘ってたのか?」 「うっ、な、なんだいきなり」 「いや、あんま想像できねえなあと思って」  リチェルはカップに視線を落とした。 「そうだな、私にも想像できない」 「なんだよ自分で呼びつけておいて」 「呼ぶつもりはなかった。ヴィルターが勝手にバルヌーイにそういう話をしただけで。私は断られてほっとしていたんだ」  そうだったのか。  アルキバはなぜか、ムッとしてしまう。つい口を尖らせながら言う。 「でもその割には俺にワイン飲ませたじゃないか。俺に媚薬を盛ろうとしただろ?色っぽいガウン姿で俺のことガンガン突きたかったんじゃないのか?」  リチェルはカップをソーサーに置いた。 「そ、それは……。もう勘弁してくれ。アルキバをそんな……できるわけないではないか、そんな恐れ多いこと」 「恐れ多いってなんだよ」  とアルキバは笑う。自分こそ王子様なのに。 「ただ……」 「ただ?」 「あの時、そなたが来て……私は……」  リチェルの声がどんどん小さくなる。  まるで罪でも告白するかのように、リチェルはうつむいて縮こまっていく。 「な、なんだよ。あの時どうしたってんだ?気になるな教えてくれよ」  リチェルは片手で顔の下半分を隠し、震えながら囁いた。 「私は……。そなたの体に触れたいと……思ってしまった」  アルキバは眉をはね上げた。 「ふうん?媚薬を盛って、ただ俺に触りたかった、と?」  リチェルは恥じ入り、顔を隠してない方の手で自らの体を抱きしめた。  羞恥に目を潤ませながら。 「すまない」  消え入りそうな声で謝られた。 (おいおい)  アルキバは目をつぶり、額を抑えた。  気を沈めるために、ふーーーーーと長い息をついた。 (頼むよリチェル)  いきなり油を撒かれ、火をつけられたようなものだ。  アルキバの内側から、獰猛な性欲が当然のごとく頭をもたげる。 「触ってみるか、今?」  アルキバは上を脱ぎ半裸になった。上衣をぱらりと床に投げ出し、リチェルに近づきその椅子を引く。  あっけにとられているリチェルを椅子から抱き上げた。 「なっ、何を」  アルキバはリチェルを抱えてベッドの天蓋カーテンを開ける。ベッドの上にリチェルを下ろし、その対面に座った。 「どこ触りたい?」 「やめてくれ恥ずかしいっ!」 「恥ずかしい、か。怖いって言われなくて良かった」  アルキバがふっと笑ってつぶやくと、戸惑うようにリチェルが瞳を揺らす。 「触ってくれよ。リチェルに触られたいんだ」 「うっ」 「頼む」  まっすぐその目を見つめて言う。頬を染めたリチェルは、おそるおそる手を差し出し、アルキバの筋肉で盛り上がる広い肩に触れた。  その白い手はゆっくりと、なめらかで光沢を帯びる浅黒い肌をたどる。  たくましい腕を、分厚い胸を、割れた腹筋を。  リチェルは頬を染めながら嘆息する。 「なんて美しい肉体なんだ。そなたはやはり、戦神の化身なのだろう」  自分こそ天上人のような姿をしておいて。本当にこの王子様は自覚が無さ過ぎる。  アルキバはそっと手を伸ばし、リチェルのバスローブの前あわせの裾をめくった。  むき出しの白い男性器が半勃ちになっていて、アルキバは微笑する。率直に言って、うれしかった。  リチェルが慌てて前かがみになって股間を隠した。 「み、見るなっ」 「おっと下着をはいていなかったか、いい具合に元気だな。俺のこと掘ってみるか?」 「だからそんなこと、できるわけないではないかっ!」 「ちなみに俺はもっと元気いっぱいだ」  己の脚衣をずり下げ、猛る逸物を宙に晒す。  リチェルはあっ、と小さく声を上げると慌てて目をそらした。何を驚いているのか、「こう」なるに決まってるのに。本当に自覚がない。  単刀直入に聞いてみる。 「俺に掘られるのは嫌か?」  えっ、とリチェルは振り向く。 「罰……?」 「ばっ、罰じゃねえよ。そうじゃなくて、普通に」 「ふつう、とは……」  そこでリチェルは、何かに気づいたような顔をする。 「剣闘士は信奉者(ファン)の女性を抱いて性処理をすると聞くが、つまり……。私はそなたの信奉者(ファン)だから、私で処理したい、のか?」 「そ、それは普通じゃねえだろう。いやそういうのしかしてこなかったから、俺にとっては普通かもしれないが。そうじゃなくて」  性処理でも売春でもなく、ただ、愛の行為としての。  さすがに気恥ずかしくて、そんな言葉は言えなかったが。  リチェルは困ったように眼を伏せた。  アルキバはリチェルのそれにもう一度右手を伸ばした。今度はキュッと手の中に包む。 「あ、アル……っ」  リチェルは哀れなほどびくりと肩を揺らしたが、抵抗しない。  みるみる反り上がるそれの先端に指で刺激を加えてやる。いきなり扱かれ、リチェルは切なげに息をもらした 「んっ……」  アルキバは左手でリチェルの耳の後ろをかき上げた。顔を傾け、唇を重ねた。舌を強引に差し入れた。手の中でリチェル自身を扱きながら、口内を貪った。 「はぁっ、ふっ……」  唇を離し角度を変えてまた貪る。その繰り返しの合間の、リチェルの怯えた顔と苦しげな呼吸がアルキバを昂らせる。   口付けから解放すると、リチェルは官能と不安の入り混じったような表情で、震えながらアルキバを見ていた。  アルキバはごくりと唾を飲み込む。 (駄目だ、止められない)  怯えを冷酷に無視して、この美しい王子を押し倒し自分のものにしてしまいたい。  アルキバは苦悩する。  せっかく信用してもらえたのに、自分はまた獣欲に支配されてリチェルを傷つけてしまうのか。  リチェルが抵抗しないのは、今、アルキバに負い目があるからだろう。唯一の味方であるアルキバに。  この立場を利用して強引に進めれば、リチェルは「させて」はくれるかもしれない。  心の奥に苦痛を押し隠して。体だけ、提供してくれるかもしれない。  あの空っぽの瞳で天井を見つめながら。  想像し、恥じる。 (ああ、駄目だ)  俺は、俺を止めなければ―― ◇ ◇ ◇  リチェルは苦悩する。  リチェルのペニスを愛撫するアルキバの手は恐ろしく魅惑的だった。  でも、それだけで終わるわけはない。  目の前のアルキバが今、何を望んでいるのかは一目瞭然だ。 (私を抱いて、性処理をしたいんだ)  応えなければ、とリチェルは思う。  きっとそれが「普通」だろう。  そもそもリチェルはアルキバに、とてつもなく大きな借りがある。  誰からも見捨てられたリチェルの、唯一の味方になってくれた。  のみならずたった一日で、ほとんど全てを解決してくれた。  リチェルはアルキバに、一生かかっても返し切れないほどの借りを負っている。  この体がアルキバの役に立つなら、リチェルは喜んで差し出すべきなのだ。  なのに、頭では分かっているのに。  心が追いつかない。 (また叫ばずにいられるだろうか?錯乱せずにいられるだろうか?)  抱かれる喜びを知りたいと、切に望んでいるリチェルは、この世で最も、抱かれることが恐ろしい。  今から挿入されるのだと思った途端、兄達の顔が脳裏を掠め、あの恐ろしい地下室に、リチェルの心は突き落とされてしまう。  手でリチェルに快楽を与え続けるアルキバは、荒い息を吐きながら、空いている方の手で、己のペニスも扱き始めた。  苦しそうに張り詰めた、脈打つ血管をまとう、凶器のような存在感。そのあまりの大きさにおののく。 (それを、入れたいのか。入れたいのだろうな) 「わか……った」  リチェルは震えながら、覚悟を決めた。  頑張って、恐怖に耐えよう。  この体を、性処理に使ってもらう。うっかり叫ばないように、口は抑えていよう。手でも噛んでいようか。  しかし、アルキバはなぜか、悲しげな笑みを浮かべた。 「ごめんな、冗談だ」 「えっ……」 「ケツ嫌なんだよな、掘らねえよ。怖がらせて悪かった」  言いながら、リチェルに深い口付けをする。  舌を貪るその荒々しさは、懸命に自らの欲望をいなそうとしているかのようだった。  息が詰まるような激しいキスからリチェルを解放すると、アルキバは吐露するように言う。 「でも、リチェルと繋がりたい」 「つな……?」  その言葉の響きの甘さに、リチェルは戸惑う。  アルキバは二人のペニスから一旦手を離すと、脚衣をもどかしげに脱ぎ捨てた。  全裸になって脚を開いて座ると、リチェルの脚も開かせ、互いの股を密着させた。 「!?」  何をするのかと呆気に取られるリチェルの前でアルキバは、二本のペニスを重ね合わせ、同時に握り込んだ。 「っ!」  予想外の行動に、リチェルは息をつめる。  くっつけた途端、互いの雄はぐっと硬さを増した。  アルキバは、二本の杭をぴたりとくっつけ、こすり合わせて扱き始めた。  痺れるような快感が、リチェルの腰を突き上げる。 「あ……っ」  思わず漏らしたリチェルの甘い声に、アルキバはほっとしたような顔をした。 「ヤラねえから、このまんま一緒にいこうぜ」 「このまま……」 (挿入はしない、ということか?)  そう思ったら、どっと安堵した。  やはりリチェルは、怖かったのだ。  アルキバもまた、リチェルの恐怖が解けた様子に安堵したようだった。軽口めいた口調で尋ねる。 「これ、気持ちいか?」  リチェルは黙って、恥ずかしさを感じつつもコクリとうなずいた。  アルキバは嬉しそうに目を細めると、再びリチェルに唇を重ねた。  口内をアルキバの肉厚な舌にまさぐられ、ペニスはアルキバの猛々しい立派な雄に密着して揺さぶられている。 (なんて……感覚) (これが……「繋がる」……?)  憧れていたアルキバと、こんな密着している。  快感と幸福感、両方がわき上がる。  リチェルは初めての、夢のような体感に酔いしれた。  アルキバが、片手でリチェルのバスローブの紐をほどき体を剥いた。  リチェルは裸になり、白くなめらかな肌が晒される。  二人の屹立を擦り合わせながら、アルキバはもう片方の腕でリチェルの背中を引き寄せ、胸に唇を押し付けた。  敏感な粒を唇に挟まれる。 「あっ、んっっ」  思わず色を含んだ声を漏らす。  アルキバは愛おしげに胸を舐め上げる。  互いの猛りが先走りで濡れそぼる。互いの精がぬるぬると混ざり合う。  ぬめる二つの欲望を揺すりながら、アルキバはリチェルの唇を食み、頬を舐め、首筋に口付け、胸の粒を舌先で転がす。  届く範囲全ての肌を、アルキバの口に愛撫され、リチェルは未知の官能に身悶えした。  互いの性感帯がくちゅくちゅと音をたてて一つになり、快感がぞわぞわと下肢をくすぐる。  やがてリチェルの呼吸が荒くなった。 「ぁっ……はっ、はぁ……っ」  アルキバは手の動きを早めた。アルキバの腕の中でリチェルが快感に耐えて身をよじる。  快楽の電流が駆け抜ける。とてもこらえきれない。 「やっ、はっ、もう……っ」  甘いうめきと共に、リチェルの方が先に達した。  とぷとぷとあふれ出る白濁が、アルキバの手と性器を汚してしまう。 「ご、ごめんなさ」  いたたまれない心地で謝ろうとしたら、口で口を塞がれ、そのまま仰向けに倒された。  押し倒され、苦しげに呼吸するアルキバに見下ろされる。「やはりするのか」と緊張したが。 「大丈夫だ、入れないから。けど……あんたが欲しい」  アルキバは切なそうな表情でリチェルに覆い被さり、ぎゅっと体を抱きしめてきた。  胸も腹もぴったりと密着させる。  リチェルの顔に頬ずりをしながら全身の皮膚でリチェルを味わうように、体を絡ませる。 (私が……欲しい?アルキバが?)  ただ触れたいと願っていた、戦神のごとき美しい肉体と裸で抱き合っている。  憧れの人の肌のあまりの熱さに、リチェルの血潮は燃えるようだった。  アルキバは腰をうごめかす。  猛りを、リチェルの腹に押し付け、すりこみ、アルキバの腰は波を打つ。  押し付けられるものの強さにリチェルは圧倒される。そそり立つ灼熱が、リチェルの腹に狂おしくこすり込まれる。  やがてぶるりと腰を震わせ、アルキバは射精した。  リチェルのものですでに濡れてる互いの肌の間に、長い時間をかけて、アルキバの精が放たれる。  二人の精が肌の狭間でドロドロに混ざり合う。  全てを吐き切ってなお、アルキバはリチェルを離そうとしなかった。  リチェルの肉体をべったりと抱きこみ、唇をリチェルの髪に押し付け、名を呼ぶ。 「リチェル……」  リチェルは陶然としてその声を聞いている。  が、不意に夢から覚めたように。  アルキバは、リチェルを抱く腕を緩めた。上体を持ち上げ、リチェルから身を離す。  リチェルの心にすきま風が吹く。  物悲しく寂しく思った、その瞬間。  見下ろすアルキバから、掠れた言葉がこぼされた。 「嫌じゃ……なかったか?」  気遣わしげにリチェルを見つめる、不安そうな瞳。  リチェルの胸が、キュッと締め付けられた。  リチェルはふるふると首を横に振り、自らの腹の上で混ざり合った、二人分の白濁を手でなでた。その感触を確かめるように握りしめる。  白い肌を上気させ、吐息と共につぶやいた。  今一番伝えたい、正直な気持ちを。 「こんなに幸福を感じたのは、初めてだ……」  アルキバは驚いたように、一瞬、言葉に詰まる。そして破顔した。 「俺もだ……」  アルキバはリチェルの乱れた髪をなでた。その傍に体を横たえ、リチェルの体を引き寄せる。  再びぎゅっと抱きしめてくれた。  そしてしみじみと呟いた。 「リチェルを傷つけなくてよかった」  腕の中、リチェルははっとアルキバを見上げる。  アルキバはリチェルを見つめ、照れくさそうにこう付け加えた。 「いつか本当に抱かせてくれ。優しくするから。いかせてやるから。俺が全部……忘れさせてやるから」  リチェルは下唇を食み、うなずいた。涙をこらえ、うんうんと何度もうなずき続けた。 ◇ ◇ ◇  網膜に白い光が触れて、リチェルは目を覚ました。  体中が心地よい温もりに包まれている。  なんだろう、この温もりは、と思いながらこうべを巡らし、自分が褐色の肌の美丈夫に腕枕されていることに気づく。  慌てて身を起こした。  アルキバはまだ眠っている。その整った顔立ちと濃いまつ毛に見惚れて一瞬、リチェルの時が止まる。  ゆっくりと昨日の出来事を思い出した。  裸の肌を重ねたこと。  傷つけまいと気づかわれ、最後までされなかったこと。  あれから何度も愛撫されたが、その全てが優しかった。  まるで大切な宝物のように扱ってくれた。汚れた自分を、病んだ自分を、狂った自分を。  たった一日のうちに突然もたらされた幸福に恐怖すら覚えた。これは現実なんだろうか。自分は本当はまだあの地下室にいて、ただ夢を見ているだけだったら?  リチェルはそっと手を伸ばし、両手でアルキバの頬を挟み、見下ろした。  ただ触れただけで胸がどうしようもなく高鳴る。  と、アルキバの目が開いた。  なんの予備動作もなく、いきなりぱちりと。  びっくりして手を離すこともできず、リチェルはアルキバの顔を手のひらに包んだまま。  ぼんやりした様子のアルキバが、リチェルを見上げる。形のよい唇が開かれる。 「どう……した?」  リチェルは赤くなる。なんと答えればいいのだろう。 「ゆ、夢だったら、どうしようかと……」  妙なことを口走ってしまったと、恥ずかしくてますます赤面する。  アルキバは、幸福そうに目を細めた。 「ああ、今、俺もまったく同じことを思った」  そしてリチェルの腕をひき、自分の胸の上に抱きすくめた。  アルキバの逞しい胸に顔をうずめ、身体中、心臓から指先まで至福に包まれる。  リチェルの髪を撫でつけながらアルキバが囁いた。 「うん、本物だ。夢じゃないな」  リチェルはこいねがう。 「いなくならないでくれ……。どうか、ずっとそばに……」 「いるに決まってんだろ。いつまででもそばにる」 「よかっ……た……」  リチェルは目をつむり、アルキバの心音に耳を傾けた。その律動のまにまに、自分の全てが溶け去ってしまうような心地がした。 ◇ ◇ ◇

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