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世界の理想とフレンチトースト
「フレンチトーストの正解がわからないんだ」
と田中が言った。
私は朝飯を食べる手を止めた。
昨日は飲み会終わりからの宅飲みで、なし崩しに彼のアパートに転がりこんでいた。
男二人で寝るには小さい布団だ。カーテン越しの朝日から逃れようとする私の横で、田中がもそもそと布団から出ていく。
そうして作ってきたのが、この物体である。
紙皿にさんぜんと輝くフレンチトースト。
「正解って?」
私は相づちのように聞いた。
田中がフライパン片手に答える。
「卵液をどのくらい染み込ませるのか。完全に火を通すのか、とろける半生にするのか。いつも『これじゃない』って感じだよ」
「え、嫌いなの?」
「好きだよ。だからこう、75点しか出せてない気がするんだよなあ」
田中は自分のフレンチトーストを皿に乗せた。
髪は伸びっぱなし、ネジの緩んだ眼鏡、起き抜けのせいで不精ひげもそのままである。
そんな男が甘ったるいフレンチトーストを作っている姿は、ずいぶん可愛らしく見えた。
「……うまいよ、これ」
「ありがとな」
私は取り繕ったようなことしか言えなかった。田中も場を繋ぐように笑った。
皿の上のフレンチトーストは綺麗な金色をしていた。薄茶色の焦げ目がレースのように広がっている。私には99点の出来に見えた。
それを言えばよかったのか。
そう気づいたのは自分のアパートに帰ってからだった。
お互い今日は休みのはずだが、田中は大学に用があるらしい。
もう少しすれば就活だなんだと慌ただしくなって、こんな雑な生活も貴重になるのだろう。
いつか面接官の前で話さなくてはならない。
私は何ができるのか。何をしたいのか。何をすべきなのか。
「……うぅ」
情けない声が出た。食欲は薄いが、血糖値の下がった頭はろくに動かない。
「なんか軽いもんないかな」
冷蔵庫を開けた。卵と牛乳とパンがある。
わたしはスマホで検索した。
『5分でできる! フレンチトースト!』の文字が画面上に輝く。
5分で食えるんだ、やらない手はない。
レシピ片手に作ったそれは見た目は悪くなかった。が、かじると妙に中が固い。
断面を見ると、黄色いパンの中心に白い部分が残っていた。なるほど。『卵液をどのくらい染み込ませるか』とはこういうことか。
少し調べるとSNSでバズったというレシピが出てきた。パンを四つに切って、卵液ごと30秒レンジでチンすればいいらしい。
「おお! 染みてる染みてる」
断面は完全に黄色になっていた。私はワクワクして二枚目のパンを焼いた。
うまい。
うまい、が、少々焼きすぎたかもしれない。
中まで完全に火が通りすぎて舌触りが悪い。味のついた食パンを食べているようなーーーーいや、そういう料理なんだけどだ。
確かに『これじゃない』だ。
普通にうまいんだけど、もっとうまくやれたんじゃないか。という気がして仕方ない。
私の理想とはなんだろう。
中まで卵液しみしみで、生すぎず焼きすぎず、ほどよい焦げ目がついたフレンチトースト。
だが、本当にそんなものがあるのだろうか。
カステラや人形焼きなど、今まで食った経験を組み合わせて、ありもしない幻想を追っているだけではないか。
求めるものがなんなのかはっきりとはわからないのに、今あるものへの漠然とした不満がある。
いつか理想に近いものを手に入れかけても、私は『これじゃない』と放り出すのかもしれない。今『最高のフレンチトースト』という名のバズレシピに文句をつけているように。
「……田中の理想も聞いとけばよかったな」
夕食は米を炊いた。うまかった。
「田中、これ知ってるか」
「んん?」
時間は流れて次の日の学食で、私は一冊の料理本を見せた。
ネットで見たレシピの作者が出した本だ。
『フレンチトースト』のおまけとして、『ハムチーズフレンチトースト』の作り方が乗っている。
「……こんなのあるのか」
「俺も初めて見た。今日ヒマか?」
「ああ」
連れだって私のアパートへ向かった。
材料は途中のスーパーで調達する。
二人分作るとしても、パックのハムととけるチーズは余るだろう。明日の朝食にでも使おう。
「払うよ」
「いいよ、残りは食っちまうから」
「そうかい」
田中は笑って炭酸のペットボトルを二本、自分のカゴに入れた。
徒歩10分にもならない距離をさくさくと歩き、アパートにつく。
「冷蔵庫借りるぞ」
「おう」
手を洗って料理本に目を通した。
サンドイッチの要領で切れ目を入れて具を挟むらしい。そのあとは卵液につけて、塩コショウで焼く。
「ハムエッグトーストみたいだな」
田中が呟いた。片手にあるフライパンの中で、黄金色のパンに99点の焼き目がついていく。
「包丁どこだ?」
「そこ」
てっきり二枚焼くのかと思いきや、田中は試作一号を半分に切った。
片方をとり、皿を回してもう片方を私のほうへ向ける。
「いただきます」
「あ、うん、いただきます!」
さくっ、と軽い歯応えがあった。
表面の固さは一瞬で、溶けたチーズとハムの塩気が卵液の染みたパンと混ざりあう。
「あ、うまいなこれ」
「朝食ったら気分上がるわ」
「ジュース飲むか?」
「もらう」
冷えた炭酸が口の中の油をさらっていく。
私と田中はしばしもくもくとフレンチトーストを食べた。
そしてふと、視線を上げる。
「……田中、100点か?」
「いや~~……他部門優勝だなこりゃ」
「俺もそう思う」
私と田中はテーブルに突っ伏して笑った。
フレンチトーストっつったら甘いやつだよ、俺もそう思う、でもこれは優勝、そうそう優勝、他部門だけど。
一通り笑った田中が目元をぬぐう。
「いや、でもさ、お前がフレンチトーストの話を持ってくるとは思わなかったよ」
「この前のほんとうまかったからさ。自分でも作ってみたけど、ちょっと検索しただけでも、ほら」
私はスマホを見せた。
『至高のフレンチトースト』『一番おいしいフレンチトースト』『我が家のおすすめフレンチトースト』……
「みんな色々やってんなぁ」
田中が感心したように画面を覗きこむ。
「二枚目どうする? メレンゲでも染み込ませてみるか」
「どうなんの?」
「分からん、今思い付いた。ふわふわになるんじゃないかと思ってる」
「ふわふわかー」
それが田中の理想なのか。私は少し噛み応えがあるほうがうまいような気がしている。
しかし、その単語が田中の口から出てくる様は、やはり妙に可愛らしく見えた。
「味付けは甘いやつな」
「おう、甘いやつだ」
私と田中は理想の一部を共有している。
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