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ふたつのマグカップ

 お手と目の前に差し出された手のひら。こうすれば喜んでくれるとわかっているから、俺は素直にそこに右手をのせる。続けて次の命令を予測し、言われる前に左の手を少し浮かした。 「ふふ、蓮太郎(れんたろう)は賢いね。はい、おかわり」  嬉しいを表現する尻尾は無い、言葉も出せない、だから返事の代わりに左手をのせてじっと見つめた。すると、優しい手が頭を撫でてくれる。  見つめた先にいる男の人の顔。  子どもじみた真似事でも、男は口元に笑みを浮かべて満足したように立ち上がった。 「じゃあ、いってくるね」  ———いってらっしゃい。俺は微笑みを返し、男が部屋を出て行くのをその場で見送る。玄関で靴を履く音、ドアが開けて閉められる音が聞こえて、窓から男が駅の方向へ歩いて行ったのを見届けると、慣れた手つきで首輪を外した。  この家に居る間は俺はペットだ。たぶん犬。もちろん自分で望んだことじゃない。ここの主で、ルームメイトで、俺のご主人様である鬼崎亮平(きざき りょうへい)という男がここに住む代わりに提示した条件だ。  毎日変化のない平和な日々だけど、一風変わった俺のペット生活。そうして俺は主人の出勤後、手早く支度を済ませて自分も家を出た。玄関前に停めた自転車に跨り、思い切りペダルを漕ぐ。今日は天気が良い、追い風が自転車の背を押して、ぐんぐんスピードが上がった。  途中に通り過ぎる桜の木はこの前散ってしまったばかり、道路に残された花びらが風で舞い上がって、一枚がマウンテンパーカーの肩にふわりと乗っかった。それを指で摘んで、ふぅと息を吹きかける。くるくると再び舞い上がった花びらは、今度はどこにも捕まらずに青い空に飛んでいった。  遠く小さくなった花びらに目をすがめていると、近くの小学校のチャイムが鳴る。俺は「やばっ」と口にして、慌ててペダルに足をかけた。この先の信号は一つだけ、遠くに見えたそれは青信号だ。  土手沿いの道を進み、そのまま大学の正門を駆け抜けて駐輪場まで止まらずに走った。定位置に自転車を止め、投げ捨てるように飛び降りると、今度は講義室まで猛ダッシュする。 「お、は、よ」 「よーっす、林田。今日は間に合ったな」  林田と俺を苗字で呼ぶのは友人の楠木大地(くすのき だいち)。息切れを起こしながら講義室へ駆け込むと、楠木はニヤリと笑った。その横に崩れるように腰掛け、俺は大きく息を吸った。 「死ぬ・・・」  全力疾走したせいで脇腹が痛くて、上手く息が吸えない。大袈裟に苦しんで見せる俺に、楠木は呆れたような面白いような変な顔をして肩をすくめた。 「毎日そんなんでちゃんと受けれんのかよ、今日も寝ちゃうんじゃねぇの?」 「平気、ってか居眠りしたことないだろ」 「そうだっけ? いつも眠そうだからさ」 「そうだよっ! このやろっ!」  俺は楠木を睨む。眠そうでも寝てはいない。  大学の講義は難しくて眠くなるけど、つまらなくはない。これでも真面目に法律の勉強に勤しんでいた。だが眠くなる理由は他にあって、俺は大学の高額な授業料と生活費を捻出するために、アルバイトを掛け持ちしているから。 「悪い悪い、そういや、お前最近どうなの? 鬼崎さんと」 「え・・・・・・変わらずだよ」 「ふーん、ほんと変な人だよなあ」  自分から聞いてきたくせに、楠木は他人事と言った様子で呑気に頬杖をついた。  こいつは俺の現在のクレイジー極まりない境遇を全て知っている。ペットとして家に住まわせて貰ってるなんて絶対に引かれると思っていたけれど、予想外に聞いたとたん、大笑いをして俺のことを受け入れてくれた。まぁ興味が無いだけかもしれないが、それでもコイツに話して良かったと思った。  その後、講義を終え、俺と楠木は昼どきになる前に食堂へ向かった。学生の大半が殺到する食堂は場所取り合戦が苛烈している。しかし今日は早めに来られたからか、いつもの場所に上手く滑り込めた。 「今日はいい時間が空いてくれてラッキーだよな」  脈絡なく喋り出した友人にむかって俺は顔を上げる。 「なに?」 「え、あー、そっかまだ見てないのか。通知来てるぞ」  そう言い、楠木はスマホを揺らした。俺はようやく合点がいく。 「まじ? 朝がぎりぎりすぎて、一度もスマホ開いてなかった・・・・・・」  楠木が言っているのは大学の時間割り管理アプリだ。講義の休講、場所変更をはじめ、生徒一人一人への連絡もこれで発信される。  たしか今日は午後の講義を二つ入れていたはずだが、さっそくアプリを開いてみると、通知が来ていた。通知をタップして時間割り表の画面を開くと、最後のコマの背景色が休講を示すものに変わっていた。どうやら自分の取っているものだけでなく、その時間全ての講義が休みとなっていた。 「ほんとだ」  俺がこぼした感想に返事はない。楠木は彼女に会うために意気揚々とスマートフォンにメッセージを打ち込んでいる最中だった。学食のカレーの上にため息が落ちる。アルバイトまでに時間が空いてしまい、俺は頭を悩ませた。  こんなに便利なツールがあるのに、休講連絡がくるのはだいたい当日。ひどいときは前の時間の講義中に通知が入る。せめて前の日に教えてくれたら、アルバイトのシフトを調整してもえるのにな。  俺は画面と睨めっこをしている楠木を一人残して、早々にカレーを掻き込み席を立った。  午後イチに取っている科目は楠木とは別、まじめに講義を受けて、それから大学構内を適当にふらついた。たまっていたレポートでもやろうかと思ったが、考えることは皆同じ。適度に涼しく静かな大学図書館は隠れた人気エリア。  だが快適なのは人が少ないからで、満員越えだと話は変わる。まったく集中できずに五分で外に出てしまった。  仕方なく俺は帰路に着き、のろのろと自転車を押して歩いていた。そうしていると、新しい発見があった。いつもは猛スピードで通り過ぎていた大学近くが、思っていたよりも栄えていたんだと気がついた。  都市から離れた郊外に作られたキャンパス。自然溢れる景色の中に、若者向けのカフェや雑貨屋が軒を連ね、休講を喜ぶ学生たちが楽しそうに道を行き交う。  今日は大繁盛だろうなぁと、盛況ぶりを眺めながら、俺は女子たちの行列の一番後ろに楠木を見つけた。  頬の緩んだ友人の顔がおかしくて、俺は暇つぶしに写真を撮り、ふざけた加工を施して楠木に送ってやった。面白い反応が見たくてしばらく遠目に見つめていたけれど、彼女の横で惚けている友人はスマホの通知音に気がつく様子はない。 「はあ、そうですかそうですか。つまんな、あーあ、帰ろ」  ぽつりと一人でに呟く。自転車を寂しく押しながら、俺も彼女でも居ればな・・・と空を仰いだ。最後に誰かと付き合ったのなんて、高校生の頃のいつだっただろう。彼女、彼女、と考えていると、ふいに脳裏にポンと浮かんだ鬼崎さんの顔。いやいやと頭を振る。あの人は男、俺も男だ。  あり得ないと思いながら、鬼崎さんについて考えてみる。  楠木にも言われたけれど、俺のご主人様は変わった人だ。ご主人様とペットという普通じゃない関係なのに、関係から連想されるようなアブノーマルなプレイを要求されたことがない。  言葉どおり、性的な事を求められた事は無いし、鬼崎さんからは頭を撫でる以外に触れられたことさえ無い。あまりにも何も言ってこないから、むしろこっちが困惑してしまうのだ。  当然に喋るなとも犬の真似をしろとも命令はされていなくて、朝のあれは俺からやり始めたこと。俺が犬でいると嬉しそうにするくせに、犬でいることを強要はしない。・・・・・・ほんとうに何がしたいのか、よくわからない。  赤信号で立ち止まり、俺はぼんやりと前を見つめた。すると交差点のちょうど向かいのショーウィンドウに、仲良く二つ、寄り添うように置かれたマグカップが目に入った。店があるのは知っていたけれど、気になって目についたのは今日がはじめてだった。  雑貨屋だろうか。きっと女性の客しかいないようなファンシーな雰囲気の店に、このときは自然と足が向いた・・・・・・。 「どうぞ、またお待ちしております」  ———買ってしまった。  慣れないことをしたからか、胸がやたらとドキドキしている。  けれどなんだろう、つまらなかった気持ちがほんの少し晴れていた。  俺は二つのマグカップが入った紙袋を大切に腕から下げて、土手沿いの道を軽快に走る。なんと言って渡そうか。いきなり渡すとびっくりするかな? ワクワクしながら思いを巡らせ、身の回りの世話をしてもらっているお礼として渡そうと決めた。  喜んでくれたらいいな、単純にそれだけを期待して、俺は家路を急ぐ。  家に着き、迷ったすえに紙袋はテーブルに置いた。俺は時計を確認する。結局、アルバイトの時間のぎりぎりになってしまった。水道の蛇口をひねり、コップ一杯の水を一気に飲み干すと、また慌ただしく外へ飛び出した。  夜中二十四時を回る頃、俺はようやくアルバイト先の居酒屋を出た。酔っ払った客が盛大に飲み散らかしてくれたせいで、閉店後の片付けに時間がかかってしまった。  鬼崎さんは帰宅して寝ている時間だ、紙袋には気が付いただろうか。何のメッセージも残してこなかったから、手付かずのまま置いてあるような気がするけれど。  玄関前の定位置に自転車を停め、窓の方に目をやると、まだ明かりが付いていた。  ———起きてるのかな? 俺はドアの前に立って深呼吸をした。今でも、この瞬間は少し緊張をする・・・・・・。  ドアを開けると、一番最初にシューズボックスの棚に置いてある首輪を身に付ける。この動作を合図に、俺の中のスイッチがペットモードに切り替わるのだ。玄関横の姿見に映った異様な自分の姿にも、もう慣れた。  リビングからはテレビの音が漏れて聞こえてくる。そこまで駆け足で向かい中を覗くと、ソファの背もたれから鬼崎さんだと思われる髪の毛と足がはみ出ていた。寝っ転がってテレビを見ているのかもしれない。勢いよく傍まで駆け寄り、「ワン!」と吠える。  あれ? と心の中で思った。どうやらご主人様は深く寝入ってるようで、俺渾身(こんしん)の鳴き真似には反応しない。  ローテーブルには空のビール缶が二本乗っており、なるほどと納得する。鬼崎さんは酔っ払うとすぐに寝てしまう。だから普段は滅多に酒を飲まない、と言うことは何かあったのか・・・・・・。 「あ・・・・・・」  キッチンカウンターに紙袋がある。その隣りにマグカップの箱が見えた。  手に取ってよく見てみると、開封された形跡がある。一度開けてまた戻したってこと? それで酒? ヤケ酒するほど、マグカップが嫌だったの?  期待外れの結末に、なんとも言えない気持ちでマグカップを見つめた。ただ喜んで欲しかっただけなのに、自分が馬鹿みたいだ。鬼崎さんにとって、所詮人間の俺のやる事は嬉しくとも何とも無いのだ。  そう思った途端にひどく心が寒く感じた。ウィンドウに並んでいた姿は仲睦まじかったけれど、俺に買われたことで使って貰えなくなってしまった惨めなマグカップ。彼女のいる楠木にあげようとも考えたが虚しい。俺はマグカップを乱暴に掴んでゴミ箱に投げ入れた。「がこんっ」︎と鈍い音を立てて、それは視界から消える。 「・・・・・・蓮太郎?」  テレビの光に照らされたソファの上で、鬼崎さんが上半身を起こしていた。眩しそうに数回瞬きをした後に、キッチンカウンターの上を見て、また数回目を瞬かせた。あの紙袋を探しているんだろうか。  鬼崎さんが近づいてきたので、咄嗟にうつむいた。たぶん今の俺はめちゃくちゃに不貞腐れた顔をしている。しかし「蓮太郎」ともう一度名前を呼ばれて、おずおずと鬼崎さんを見上げた。  本当にこの男が何をしたいのか、全く分からない。マグカップは嫌なくせに、どうして優しく名前を呼ぶの?  手が伸びてきて、頭を撫でられる前に後退りした。俺の動作に、鬼崎さんは眉を顰めた。 「蓮太郎、そこにあったマグカップを知らないか?」  俺は口を引き結んだままでゴミ箱を指差した。鬼崎さんはゆっくりとゴミ箱に歩み寄り、紙袋ごと中身を持ち上げる。汚れているかもしれないのに、躊躇することなく箱は取り出された。  俺は箱が開けられるのを黙って見つめる。要らないものなんじゃないのか。割れてしまっているかもしれないし、少し決まりが悪い。  幸いに取り出されたマグカップに壊れたところは見られなかった。そして鬼崎さんは非常に安堵しているように見えた。  ・・・・・・胸に疑問が溜まる。どうしてゴミ箱から拾い上げたのかを聞きたくて、ジェスチャーで伝えてみるも、目の前のご主人様は困った顔をしているだけだ。 「言葉で話していいんだよ」  優しくそう言われて、口を開いた。 「要らなかったんじゃ無いのか?」 「どうして」  俺の言葉に鬼崎さんは驚いた声を上げた。 「・・・ヤケ酒してたじゃん」 「え、ああ、そうか・・・・・・」  鬼崎さんは一人でに頷くと、額を覆って笑いはじめた。静かな部屋に鬼崎さんの笑い声だけが反響し、俺は馬鹿にされてるのかと思いムッとしたが反論せずに下を向いた。 「ごめんね、違うんだよ」  やがて落ち着いた鬼崎さんは言った。 「このビールは頂き物でね、君を待っているうちに飲み過ぎてしまっただけなんだ」 「えっ」  ただの早とちりだと気付き、かあっと頬が熱くなる。それでも引くに引けなくて「一度開けて戻してた」と苦し紛れの言い訳をした。 「それは、もし自分宛のものじゃ無かったら申し訳ないと思って」  優しい声で言いながら、頭にそっと手が置かれる。 「・・・・・・俺が帰るの待っててくれたの?」 「そうだよ」 「マグカップ嬉しい?」 「嬉しいよ」 「おそろいだよ?」 「うん、それも嬉しいよ」  欲しかった答えが返ってきて、たまらなくなって口をつぐんだ。本当に鬼崎さんの事が全く分からない、男に首輪をつけさせて、甘やかして、いったい何がしたいんだろう。  頭を撫でられる心地よい感覚に身を任せ、「くぅん」と子犬みたいに鳴いてみた後に、上目遣いでご主人様を見上げる。さりげなく身を擦り寄せると、視線が絡んで鬼崎さんが優しく微笑んだ。  ごくりと唾を飲むこむ。悪くない雰囲気だった。今日は遂に・・・あるだろうかと、俺は覚悟を決めて目をつぶる。  けれど鬼崎さんは「よしよし」と髪の毛を掻き回すだけで、それ以上は触れてこなかった。  ———今日も違うのか。  拍子抜けの、悶々とした気持ちだけが残されてしまう。  俺はゲイじゃないし、同性と肉体関係を持ちたいわけじゃないが、この首輪を受け取った時点で「そうなる」決意はしてきたんだ。  そのために色々調べて準備もして、それなのに、こんな放置プレイをされるなんて、そんなに俺に魅力が無いのだろうか。何もされなくて良かったと安心するよりも、意地でも手を出させてやりたい気持ちが強くなる。 「わん!」  俺はローテーブルを片付けているご主人様の傍にお座りのポーズでしゃがみ込んだ。優しい顔で首を傾げるので、思い切ってその頬をペロリと舐めあげた。鬼崎さんは目を丸くして身を引く。それでも負けじと舐め続け、気付けば俺は後ろに倒れた鬼崎さんの上に跨っていた・・・・・・。

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