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鬼崎side:後天か好転か
その日は雪乃が風邪で休みをとったため、田米の運転で幹線道路を走っていた。大手商業ビルの社員との約束の帰り、社にとって良い話をもらい田米は機嫌よく鼻歌を歌っている。
内容は来月のあたまに企画されているイベントのことだった。当商業ビルで三十店舗ほどの飲食店をよんで三日間限定のフードフェスが開催される。ビル内の広い多目的エリアを使用するため天候の心配はなく、冬ならではの温かいメニューを中心に、クリスマスを見越したスイーツを取り揃える予定らしい。その場に我が『オフィス スモールハウス』も出店を希望されている。
「やっぱグルメ雑誌の影響って大きいよなぁ、鬼崎は渋ってたけど取材受けて良かったじゃん」
「んー、まぁね」
この商業ビルは老舗店を好んで多く扱う。口コミで人気を確立してきてはいるものの、まだまだ無名に近いうちの店に声がかかったのは、イベントの担当者が二ヶ月前に掲載された雑誌記事を目にしてくれたのがきっかけ。
「それで、出店させるのはどっちにするんだ?」
「coco・・・・・・うーん、悩むな、新店のほうが今回のイメージに合う気がする」
今話題に出したオープンしたての新店舗は似たかんじのカフェなのだが、より都会に近い場所に店を構えており、学生街の店とくらべ価格帯を上げて設定していた。
安価すぎると逆に敬遠される富裕エリアの街なので、そのぶん食材にこだわり、メニューも変えてある。
「目も舌が肥えているお客さまがほとんどだろうから、フードフェス用に特別メニューを作らせよう」
「スケジュールがかなりぎりぎりになるぞ」
「仕方ないさ、仕事に妥協はしたくない」
「そうか」
一瞬、ニヤッと笑う田米とミラー越しに目があった。
「なにがおかしい?」
「おかしいんじゃなくてワクワクしてんの、久しぶりに楽しくなってきたなぁって思ってさ」
「ああ、まあ、そうだったな。すまん」
俺と田米そして田米の姉の梨穂子さんは高校時代からの仲だ。甘いもの好きの俺と、たまたま姉がパティシエを目指しているという田米が偶然にも出逢い、将来は店を開こうと話していたことが現実になった。
いや、三人の力をあわせて現実にした。
現在までにいたる困難をたびたび田米の行動力に救われてきたのである。身体に鞭打つほどの多忙好きという若干の変態ぶりが玉に瑕だが、その変態なくらいのアクティブさがなければここまでこられなかった。
それに変態なのは、俺のほうがずっと・・・。そういえば蓮太郎の写真のことを雪乃は知っていたといったけれど、田米はどうなんだろうか。
バレていたら最悪だ。年下の大学生に首輪を渡していっしょに住んでいるなんて、おおやけに言えるわけがない。根掘り葉掘り訊かれたらどう答えればいい?
恋人か? 否、俺にとってはそんな簡単な関係じゃない。
俺は蓮太郎が何であるのかを説明できない。言葉にしてしまうのが怖いのかもしれない。
これは誰も知らない俺の『秘密』。蓮太郎へ抱く想いを純粋に捉えられないのは、ある過去の出来事が原因だった。
そんなことかと、いっそ笑いとばされてしまえば、抱える必要のない軽い出来事だったのだと思えるのだろうか。そうすれば蓮太郎を泣かせ、いつか壊してしまうかもしれないという憂いを捨てられるのだろうか。
けれど失笑をかってしまったら? 同情をかってしまったら? 俺は過去のそれと今の自分を、酷いものとして現実に認めなくてはいけなくなる。
「鬼崎、このあとどうする? オフィスに戻るか?」
考えごとに真剣になり、俺はすぐに返事ができなかった。
我にかえって顔を上げた瞬間、車の前を黒い影が横切った。
「田米、前!!」
「わかってるっ」
ブレーキが勢いよく踏まれ、ハンドルが強引に左に切られる。遠心力で身体は大きく傾き、前のめりになった肩にシートベルトが食い込んだ。
「あっぶな、野良猫?」
「たぶん」
窓から身を乗り出して見てみると、走り去っていく小さな動物の頭に三角の耳が確認できる。
「ぶつかってないよな・・・・・・」
「大丈夫だったと思う」
「よかった、あーあ、ヒヤヒヤした」
「俺も」
思いがけないアクシデントに見舞われ、手汗をかいていた。幸いに、後続車がいなかったからよかった。田米は注意深く車をもとの位置に動かし運転を再開させる。
「で、なんだっけ」
首を傾げる田米に俺も首を傾げた。
「えっと、なんだっけ?」
「思い出した。オフィスに戻るかって話だ。どうする?」
「戻るよ、頼む」
納得して頷く。俺は自分の頭から直前の記憶が溢れ落ちてしまっていたことに気づけなかった。
夕方、蓮太郎に仕事で遅くなるとメッセージを送った。ものの数秒で既読がつき、「了解、がんばってください」と返信が表示される。その日を境に多忙が連日続き、蓮太郎と顔を合わせる機会が極端に減ってしまった。
忙しさと共にプライベートの悩みを考える時間もなくなり、気絶するように短時間の睡眠を取る。良くも悪くも充実した日々、ハッとしたころには蓮太郎の啜り泣きを聞いてしまった夜からひと月が経っていた。
十二月の一日目。外はまだ薄ら暗い。朝のワイドショーのお天気お姉さんが「おはようございます、朝の五時になりました」と朗らかに時刻を告げてくれる。
昨晩帰宅したのが三時、ソファで二時間だけ寝落ちし、今さっき目覚めたところだ。眠気覚ましに濃いコーヒーを淹れながら冷蔵庫を開けると、ラップのかかった皿が置いてあった。
「・・・・・・蓮太郎」
自分で作ったものではないので、蓮太郎が用意してくれた夕飯だったのだろう。ぶつ切りのキャベツとウィンナーが入った焼きそば。どうしても仕方がないのだけれど、仕事で余裕がないために家事が疎かになっていた。そのせいか胃がシクシクと痛んでいる。たいして食欲のない胃に、苦いコーヒーといっしょに焼きそばを押し込み、シャワーを浴びて新しいスーツに着替えた。
起床から一時間ほどで支度をすませ、俺は家を出ようとした。すると二階で慌ただしくドアが開閉する音が聞こえ、蓮太郎が駆け足気味に玄関へ顔を出す。
「おはよ、鬼崎さんいってらっしゃい」
蓮太郎と久しぶりに面と向かって話をした。変わりなく尻尾を振るように微笑んでくれる蓮太郎が恋しくなる。
「蓮太郎の顔を見れてよかった」
自然とそんな言葉が口から出た。
「ん、俺も。最近忙しそうだもんね。無理しないでいいよ、家のことは気にしなくていいから。洗濯して欲しいものがあれば適当に置いといてね」
蓮太郎の気づかいが嬉しくて、張っていた気持ちがゆるむ。家を出るまでの五分間だけと決め、蓮太郎の肩に頭を預けた。
「鬼崎さん?」
「すこし、充電させて」
「・・・・・・うん、なんかへにょへにょの鬼崎さんって可愛いね。風邪ひいてたときも思ったけど、よしよしってしたくなっちゃうよ」
「俺はもう、いい大人なのに恥ずかしいな」
「そんなことない。甘えてくれて嬉しいよ。今日も忙しいんでしょ? あまり無理しないで頑張ってね」
疲れも眠気も吹き飛ぶ愛おしい蓮太郎からのエール。俺は態勢を直し、額と頬、唇に口付け、「いってきます」と家を出た。
しかし数メートル行ったところで忘れものに気がついた。スーツを着替える際に、愛用の万年筆を差し替えていなかった。
急いで家へ戻ると玄関に立ったまま、蓮太郎がスマホを触っていた。
「蓮太郎?」
俺の顔を見て、蓮太郎はひょいと背中にスマホを隠す。
「あれ、鬼崎さんどしたの?」
他に怪しい様子はない。気にしすぎだろうか。
「いつも使っている万年筆を忘れて」
「ジャケットの内ポケットに入れてるやつ?」
「ああ、そうだよ」
俺はにこにこしている蓮太郎の横を通り、二階へ上がる。クローゼットの外にかけておいた着用済みのスーツから目当ての万年筆を取り出し、今着ているジャケットの内ポケットにしまった。
「あとは忘れものない?」
部屋を覗きに来た蓮太郎に訊ねられて頷き、時刻を確認する。
「遅れそうだ、いってくるよ」
「こんなに早い時間なのに?」
「やることが山積みなんだ」
「そっか、いってらっしゃい」
「ありがとう」
蓮太郎の髪をくしゃりと撫で、今度こそ俺は会社に向かった。
◇ ◇ ◇
商業ビルのなかはひどい人混みだった。フードフェスに訪れた客の話し声で館内アナウンスはかき消され、まったく進まない人の列で大渋滞だ。
「そこのところ大盛況、さすが老舗」
「うちもそれなりにいい感じですよ、見てください。多めに用意したはずの材料が底をつきそうです」
俺が他店の視察から戻ると、田米と雪乃が会話を交わしていた。
「あ、鬼崎社長おかえりなさい! どうでした?」
「やっぱり、どこも気合いを入れて臨んでる。テレビ局のカメラマンもいたよ。あとでここにも回ってくるかもしれない」
そう言ったとたん、店を任せていたメンバーから、わぁっと歓声がわく。田米が一歩進みでて、俺の肩に手をのせた。
「鬼崎の提案どおり、touron とElm の両方をもってきて正解だったな」
「そうだな。田米も皆んなもご苦労さま」
『Elm』は『touron』と悩んでいたもう一方のカフェの名前。メニューを混在させたことで、それぞれの長所が活かされ幅広い客層に受けていた。
身を粉にした頑張りにきちんと満足のいく結果がついてくると、少々キツくてもやっていてよかったと思える。ほろ酔いのような浮かれた気分のまま周辺を見回し、俺の首の動きはぴたりと止まった。
瞠目し、目を見開く。呼吸音が速く激しくなり、鼓膜を通して脳を震わせた。
「・・・・・・どうしてこの場所に二人がいっしょにいるんだ?」
俺の目に映ったのは自身の母親の姿と、なぜか笑顔で隣にいる蓮太郎の姿。遠い雑踏のなかにいるために、得られる情報はそれくらいだ。そのせいで余計に謎が深まる。
蓮太郎がこの場所にいることがまず第一の疑問。そして最も合わせたくない組み合わせに眩暈がする。地獄のような光景を目にして足が石膏で覆われたみたいに固まった。
「社長、どうしました?」
雪乃に話しかけられ、声を絞りだす。
「なん・・・でもない」
「そうですか? 急に顔色が悪くなっていますが。連日の疲れが出たのでしょうか」
「いや、平気だ」
「では先ほど話されていたテレビ取材のカメラがちょうど回ってきているのですが、対応できますでしょうか」
「わかった、今行く」
てきぱきと段取りを説明する雪乃の後につき、俺は足を動かした。ちらりと振り返ると、偶然目撃した二人はいなくなっていた。
その日の夜、俺は深夜に帰宅した。二日目と三日目は現場のスタッフと田米に任せて、明日はオフィスに出勤する予定だった。
実際は雪乃に休むよう口うるさく言われ、しかし大事な時期に頑張っている社員を置いて怠けてもいられない。あいだをとって朝はゆっくりと寝坊をさせてもらい、昼前ごろに重役出勤をすることにした。残った雑務処理でもして、時間があればこっそり会場を覗きにいこうと思っている。
蓮太郎はとうに眠っており、そっと部屋のドアを開け寝息を聞いた。一定のリズムを刻む呼吸音。商業ビルでの信じられない場面が瞼の裏で繰り返される。
明日の朝、蓮太郎にすべて話そう。どのような経路で知り合ったのかは不明だが、蓮太郎はすでに「あの事」を知っているのかもしれない。それでも自分の口で説明して・・・・・・どうしたいんだろうか・・・・・・、たぶん、そうだ、きっと弁解をしたいのだ。
母親伝いで聞かされたのだとしたら、俺は間違いなく卑劣な男として認識されているはずだから。
ベッドに入ると、いつも寝かせてさえくれないのに、その日は理不尽に夢を見た。懐かしい光景だ。この家の庭。まだ新しい、入れ替えたばかり芝生の上を俺の小さなスニーカーが駆けていく。
前方で飛び跳ねている大型犬のサンディが、リードを握った俺を見て嬉しそうに「わんわん!」と吠えた。———サンディ、サンディ、散歩だ! 俺はそう言った。あの日もいつものように、俺はサンディの首輪にリードを引っ掛けた。
「・・・・・・は、あ、はあ」
なんでもないはずの楽しい時間。小学生だった俺の唯一。
それなのになんで、俺はこんなに冷や汗でびっしょりになりながら、あの日の俺を見つめているんだろう。どうせなら楽しかった時を見せて欲しい。目尻から流れて耳朶を濡らした涙。俺は瞼を開けて、ぼんやりと滲んだ瞳に天井を映した。
毛布に包まった身体が震えている。対照的に背中がひんやりとする。あれを見る前に目を覚ましたのは、とっさの防衛本能が働いたおかげかもしれない。
・・・・・・あのあと、散歩に出た俺たちは家の前で母親の来訪にばったり遭遇した。母親の顔が目視できるまで近づいたとたん、興奮したサンディが走り出して。
落ち着いて思い出せるのはそこまでだ。
起きるには早すぎる時間帯だったが、次に目を閉じるのが怖くて、寝巻きの上にカーディガンを羽織ってリビングに降りた。
蓮太郎とルームシェアをはじめるずっと昔、俺はこの家に叔母の家族と暮らしていた。家族といっても、母親の姉と、配偶者である夫のふたりだけ。そこによそ者の俺が混ざった。
どういった理由で夫婦ふたりの暮らしをしていたのかは聞けなかったけれど、子どもが嫌いというわけではなかったようだ。俺を認知もせず勝手に蒸発した実の父親。いつまでも大人になれず若いころの放蕩ぐせが治らない実の母親。両親ともに恵まれなかった俺に、家族と名のついた愛情を与えてくれた。
捨て犬だったサンディを拾って飼いたいと言ったときにも、頭ごなしに否定はせず、懸命にお願いをする俺の話を真っ直ぐに聞いてくれた人たちだった。
ホンモノの家族ではなくても、幸せな3人家族のカタチを描けていたと思う。たびたび顔を出す母親の存在がなければ、本当に完璧だった。
母親という生き物はずるい。血のつながりはずるい。どんなに憎かろうがこの人の腹から生まれたという事実は消せなくて、腹のなかで過ごした温もりと心臓の音が子どもの心の芯の部分を満たしてしまうのだ。
ときにそれは支えとなり、育ち方が違えば凶器のように心を蝕む。俺の場合は紛れもなく後者で、俺の心に潜んでいたそれは頑丈な蜘蛛の巣みたいな形をしており、嫌だともがく俺の心をがんじがらめに捕らえていた。
結局のところ、俺にとって母親は絶対的な存在だった。どんなに冷たくされていても、母親の生きる世界に入れてもらえなくても、存在していることだけで母親は俺の幸せの一部に成り得てしまう。
少なくとも俺にとっての宝物を意味もなく奪われたと知ったあの日までは、母親に反発することなどできずにいた。
俺はリビングのソファで朝日が昇るのを待ち、朝食の支度をはじめた。柄にもなくソワソワし、危うく包丁取り落としそうになったあげく、卵を割るのを失敗した。ガチャンと大きな音をたててボールを落とし拾い上げた瞬間と時を同じくして蓮太郎がリビングに現れた。
「鬼崎さん・・・・・・? 珍しくひどい有り様だね。どうしちゃったの?」
蓮太郎の態度はいたって普通だ。心配そうに俺を覗き込んでくる。
「大丈夫? 指から血でてるよ」
「ほんとだね」
手を滑らせた際に包丁で切ってしまったのか、左手の人差し指に血が滲んでいた。痛みも感じないくらいに動揺していたのがわかり、猛烈に恥ずかしくなった。
「なんでもないよ」
いつもならもっとスラスラと言える嘘が、今日は明らかに無理をしているように響く。まずいかなと思ったけれど、蓮太郎の視線は一直線に指先を見つめていた。蓮太郎は俺の指を舐めるのが好きだ。わざと口元に近づけてやると、俺の指先をさりげなくつまみ上げ、口にパクリと含んでしまう。
傷口を舐められると、ぴりっと痛む。じわりと滲んでいるだろう血をむしゃぶる様子は、さながら犬というより吸血鬼か。
「もういいよ、ありがとう」
舐めさせてあげた立場で礼を言うのもおかしいが、このへんで止めないといつまでもしゃぶっている。
「まら、もうちょっろ、らへ」
「だめだよ」
「んうう・・・・・・」
「こら」
いつのまにか、空気はいつもの路線に戻っていた。主導権はこちらにあり、諫められた蓮太郎がしょぼんと眉を下げる。
しかしよかったと思うような、誤魔化されている気分でもあった。胸の鼓動にあわせて駆け上がっていく緊張感をおさえ、冷静につとめる。
蓮太郎。きみは俺の何を知った?
じつは何も知らないから変わらない態度なのか?
知ったうえでその態度をしているのか?
知っていて蓮太郎は受け入れてくれたということなのか?
そのとき、蓮太郎がふいにポケットのスマホに触れた。
「ごめんなさい、ちょっと」
申し訳なさそうに断りを入れ、キッチンを出た場所でスマホをチェックする。
電話でもないのにわざわざ離れる必要はあったのだろうか。
山ほどに積もった疑問のせいで頭が痛くなる。蓮太郎、スマホの画面のむこうにいるのはいったい誰なんだ?
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