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ひと夏のーー?

 夕方になると、あれほどうるさかったセミがうんともすんとも言わなくなる。耳は涼しくなるのだが、気温はちっとも下がらない。壁や床がたっぷりとお日様となかよしをして、ほしくもないのに「おすそ分け」だと室内に放出する。 「あっちぃ」  城崎達夫は汗で湿ったTシャツの胸元を、引っ張ったり閉じたりして空気を入れた。安普請のボロアパートには、エアコンなんて上等なものは設置されていない。家賃は安く、けれど風呂とトイレはついているので不便はないが、真夏の夜は辛くなる。 「はー、暑ぃ暑ぃ」  ぼやきながら冷蔵庫を開けて、缶ビール……といきたいところだが、値段が高いので缶チューハイで我慢している。プルタブを開けてグビグビあおると、キュッと喉が心地よく締まった。 「っはぁ、たまんねぇ」  にやりと笑ったしぐさはまさしく中年のおっさんだった。しかし本人はまだ「おにいさん」でいけると思っている。芸能人の35歳を見てみろよ。まだまだ若いじゃないか。というか、昔の35といまの35はずいぶん違う。10年分は若いはずだと、達夫の持論は軽快だ。  仕事は建築屋である。といっても大工ではない。大工たちから注文のあった木材やなんかを、現場に届ける仕事をしている。角材なんかを肩に担いで運ぶのは日常茶飯事。なので筋骨隆々だ。  これだけたくましく男らしい自分がモテないのは、モテるだろうと女が遠慮をしているからだと思っている。なんともしあわせな男であった。  豆腐を皿に開けて、その上にキムチを乗せる。それをつまみに缶チューハイを3本やるのが、達夫の夜の日課だった。つまみは時々、違うものになる。近所のスーパーの総菜で、気に入ったものが安くなっていればそれを買う。今日はめぼしいものがなかったので、豆腐とキムチを買ってきた。  飯はあれば食べるが、仕事が終わってから自炊をするのはめんどくさい。というか、家事全般がめんどくさい。だからだいたい、買って食う。朝ごはんも出勤前に、途中の牛丼屋ですます。  調理器具はいちおうあるが、どれもすっかりホコリをかぶってしまっていた。 「はー……あっちぃ」  汗で湿ったTシャツが、肌に張りついている。盛り上がったたくましい胸襟がうっすら透けて、乳首の影も見えている。色の濃いTシャツにすればいいのだが、透けても達夫は気にしない。見られて困るものでもないし、むしろ見て興奮した女に誘いをかけられないかと夢想している。  2本目のプルタブを開けた達夫は、ふっと誰かの視線を感じて手を止めた。ぐるりと部屋を見回すが、物のすくない部屋の中に異常は見つけられなかった。気のせいかと缶チューハイをあおって豆腐をつつく。 (やっぱりなんか、感じるな)  視線というか、気配というか。 「おい、誰だ」  ためしに声をかけてみる。返事なんて期待はしていない。しかしまさかの返事があった。 「あの、はい、すみません」  なんとも気弱な、か細い声が申し訳程度のベランダから流れてきた。怪訝な顔で立ち上がり、達夫は外をのぞいた。が、誰もいない。 「あの」  今度は耳元で声がした。 「おわあっ」  飛びのくと、そこにはいかにも傷心そうな、根暗の見本みたいに目が隠れるほど前髪の長い――けれどサイドはすっきりと短かった――青年が立っていた。 「なんだよ、おどかすんじゃねぇよ」 「はあ、すみません」  青年は申し訳なさそうに首を前に突き出した。どうやら頭を下げたらしい。まったくもって覇気の……というか、生気を感じられないヤツだと達夫は唇をゆがめた。こういうジメジメした人間を見ると、カラッと乾かしてやりたくなる。 「で、なんだ。おまえ、どっから入ってきた」  見たところ大学生か社会人になったばかりだろうと、見当をつけた達夫は説教する気まんまんで、座れと顎をしゃくって青年に命じた。青年は素直に正座する。達夫はその前にあぐらをかいた。 「どこからと言われましても、そこからとしか」  青年が指さしたのはベランダである。 「はあ?」  片頬をゆがめた達夫は青年をジロジロながめた。ここは二階である。どうやってベランダから入ったというのか。 「あ。もしかして、あれか。そこのでっけぇ木を登って、入ったってのか」  窓の外には毎朝セミが大合唱する大木があった。それをよじ登れば、飛び移れないこともない。 「はあ、まあ、そんなかんじです」 「そんなもこんなもねぇだろう。だいたいなんだ、おめぇはよ。青っ白い幽霊みたいな顔しやがって」 「やっぱり、わかりますか」 「あ?」 「幽霊って」 「…………は?」  低い声で聞き返すと、青年は何故か照れくさそうに頬を掻いた。 「いま、なんつった?」 「ですから、幽霊だとわかりますか、と」  ん? と達夫は首をかしげて缶チューハイをグビリとやって、ごしごしと目を擦ると青年を凝視した。  言われてみると、青年の体はうっすらと透けている。 「疲れてんのかな」  だからふた缶くらいで酔ったのだ。やれやれと首を振って、若いと思っていたが中年だったかとガッカリしていると、青年の手が達夫の腕を掴んだ。 「うおっ、つめてぇ」 「すみません」  青年がすぐさま手を引っこめる。達夫は信じられない面持ちで、自分の腕と青年とを見比べた。 「おめぇ、もっかい俺に触ってみろ」 「いいんですか」 「おう」  ほらっと達夫が腕を出すと、青年はおずおずと手を握った。ひんやりと冷気が達夫の肌に伝わる。 「ほーん。幽霊ってのは冷たいつうが、本当らしいな」 「信じてくれるんですか」 「信じるもなにも、目の前にいて触られてんだから、いると思うよりしかたあるめぇ」  フンッと鼻を鳴らした達夫に、ありがとうございますと青年は深く頭を下げた。 「で」 「はい?」 「俺んとこに化けて出て、どうするつもりだ」 「どう……とは」 「なんか未練があるとか、してほしいことがあるとか、そういうので出てくるのが相場じゃねぇのか」  青年がキョトンとする。 「なんだよ」 「ずいぶんと、話のはやい方だなと驚いているんです」 「おう、まあな。ダラダラと余計な話をすんのは苦手なんだよ。用事はさっさと終わらせてぇ」  ほら言えとうながすと、幽霊青年はモジモジした。 「はっきりしねぇヤツは嫌いだ。追ん出すぞ」 「ああっ、えっと……あのですね。僕はその、大正時生まれの人間でして」 「で?」 「兵役に取られて、人殺しをするのが嫌で、そこの木で首をくくったんです」 「はぁ。そいつぁ度胸がいったろう」  見た目より根性があるんだなと、達夫は青年を見直した。 「それほどでも。戦争だからと言って、だれかを殺すよりはずっとマシですから」 「見上げた根性だ。そんで? その大正生まれの大先輩が昭和生まれの俺になんの用件だ。――ああ、あれか。戦争っつたら昭和のはじめのころのヤツか。するってぇと、兄弟とか惚れた相手とか、そのへんがまだ生きてる感じだな? で、心残りを伝えてほしいとかそういうアレだろう」  自信満々で予測した達夫に、青年はあっさりと首を振った。 「なんでぇ。違うのか」 「ええ。心残りがあるのはたしかですが」  意味深な目を向けられて、達夫は気軽に「そりゃ、なんだ」と問うた。 「その……好みの相手と夜の遊びをしたかったんです」 「はぁ? エロいことをしてぇって……兄さん、アレか。童貞か」  みるみるうちに青年が真っ赤になって、幽霊も赤くなるのかと達夫は感心した。 「そんで、兄さんの好みの女を見つけてほしいってこったな。この、魅力たっぷりな俺なら簡単に引っかけられるだろうと思って」  グッと胸を前に出した達夫に、いえいえと青年は両手を振った。 「好みというのは、あなたなんです」  手のひらで上品に指さされ、達夫は目をパチクリさせた。 「そいつぁ、あれか。その、そっちの趣味か」 「はい、そうです」 「ふうん」  缶チューハイの残りをあおって、達夫は考える。江戸時代には普通だったらしいし、そう簡単に習慣や風俗というものは消え去らないだろうから、幽霊青年が生きている時代にも普通のこととして残っていてもおかしくないな。 「で。俺が好みだから、心残りを解消してもらえねぇかと出てきたわけか」 「毎夜、大きく窓を開けて無防備に眠っている姿を見ていると、たまらなくなりまして」 「ふうん。――幽霊ってのは、強気なヤツと犬と、エロいことが苦手って聞いたことがあるが、例外もあるんだなぁ」  深くは考えず、達夫は青年を無遠慮に観察した。戦争で兵役に取られ、誰かを殺すくらいなら自分の命を絶つと決めた男が、童貞を悔やんで成仏できないままとは。 「ずいぶんと切ねぇっつうか、やるせねぇモンだなぁ」  しみじみとつぶやいた達夫は、さきほどのひんやりとした心地よさを思い出して、よしっと膝を打った。 「そんなら俺が、ひと肌脱いでやろうじゃねぇか」 「いいんですか?」 「いいも悪いも、したいから出たんだろう。男相手ははじめてだが、やれねぇこたぁねぇだろう。いいぜ、相手してやる」 「ありがとうございます」  飛び上がらんばかりによろこぶ姿に、達夫の自尊心がくすぐられた。いいってことよと笑いつつ、青年に手を伸ばす。 「ええっと、どうすりゃいいんだ」 「それは、僕にまかせてください」 「うん?」 「あなたはただ、寝転がっていてくれればいいですから」 「おう、そうか?」  勝手に動いてくれるのならば、ありがたい。こちらは勃つものさえ勃たせればいいのだから。そう思って、達夫はなんの疑問もこだわりも持たずに大の字になった。 「それでは、失礼して」  いそいそと覆いかぶさってきた青年の前髪が揺れて、顔立ちがはっきりと見える。すっきりとした目鼻立ちに、男前じゃないかとキスを受けながら感想を浮かべる。ひやりとしたキスはやわらかく、心地いい。暑さが軽減されて、いい気持ちだと達夫は目を閉じた。  するりと舌が口の中に入り込み、頬裏や上あごをくすぐられる。 「ふっ、ん……ぅ」  氷の塊からくゆる冷気を飲んでいるようだ。涼を求めて達夫は舌を動かした。 「んっ、ぅ」  ムシムシとした空気に熱された体が、いい具合に冷やされる。胸の上に落ちた指に胸筋を揉みしだかれて、奇妙な心地になった。筋肉の谷につたう汗が冷やされ、ほてった体がなぐさめられる。  それなのに、骨の奥から劣情がにじみ出てきた。 「ふっ、ん……んぅ」  童貞だと言っていたのに、キスは異様にうまかった。口の中の性感が巧みに引き出されて、股間に血液が集まっていく。息が上がり、呼吸が荒くなって胸が大きく上下すると、乳首をひょいとつままれた。 「ぅんっ」  クリクリといじられると、そこが甘痒くなった。男も乳首は感じるものと知ってはいたし、過去につき合っていた女にそこをいじられたこともある。しかしこんなに簡単に、快楽を引き出されはしなかった。 「っ、兄さん……ほんとに童貞なのかよ」 「童貞ですよ、正真正銘。でも、寸前までは何度も」 「だからか……っ、ん」 「色っぽい顔ですね」 「は、そうか」 「すごく、そそられます」 「そいつぁ、よかった……っ、は」  唇が離れて乳首を含まれる。夏の熱気を追い払う愛撫に、性欲の熱を引き出された体は奇妙な感覚に過敏になっているようで、達夫は湧き上がる嬌声を喉奥で潰しながら育っていく己を感じた。 「ふっ、く……ん、ぅ……は、ふぅ」 「ふふふ」  たのしげな含み笑いに気恥ずかしくなる。青年は遊女かと思うほどなめらかな動きで指を動かし、達夫の性感帯を探り当てては淫欲を引き出していく。 「ぁ、はぁ……んっ、ぁ」  とうとう口を開いて嬌声をこぼした達夫の股間は、ギチギチとズボンの中で苦しいと訴えるほどに育っていた。 「苦しそうですね。すぐ、出してあげますから」 「おう……っ、ああ」  解放された陰茎は、ブルンと飛び出て存在を誇るように、隆々とそびえ立つ。青年はためらうことなく、うれしそうにそれをほおばった。 「うっ、はぁ……す、げぇ」  冷たいのに熱いとは、なんとも不思議な体験だ。ひんやりとした口内で、たっぷりとねぶられ転がされる陰茎が、よろこび脈打ち先走りをあふれさす。それを吸い上げられながら口で擦られ、たまらなくなった達夫は遠慮なく射精した。 「くっ、はぁあ」 「んっ、ふう」  ジュウッときつく吸い上げられて、達夫は腰を突き出した。筒内にある残滓までをもキレイに吸い取られ、淫靡な陶酔に目を閉じた達夫の脚が開かれる。 「うえっ?」  青年がまたがるものと思い込んでいた達夫は、おどろいて肘で上体を起こした。 「なんで、俺が股を開かれてんだ」 「僕があなたを抱くからですよ」 「は?」 「言ったじゃないですか。童貞のままなのが心残りだと」  サアッと達夫の血の気が引いた。 「ちょ、待て……待ってくれ」 「待てませんよ。そっちだけがいい気持ちになって、こっちが置いてけぼりだなんて殺生なことは言いませんよね」 「いや、なんつうか……ほら、ケツに入るわけねぇしよ」 「安心してください。こちらは霊体ですから、物理的なものはありません。感覚だけがあるんです」 「いや、それでもよぉ」 「ここまできて、つべこべ言うのは男らしくないですよ」 「そうだけどよぉ……っ、て、おい、ちょ……が、ぁううっ」  ニコニコとうれしそうな青年の肩に脚をかつがれ、グイッと体を押しつけられた達夫は獣のようなうめきを上げた。 「はぁ……入りました」 「うっ、うう……く、ぅあ」 「痛いですか?」 「い、痛くはねぇが……く、苦し……ぅ」 「圧迫はありますからね。でも、大丈夫ですよ。霊体のつながりですから、すぐに快感を引き出します」 「そんっ……簡単に……っ、うう」  気楽な説明が信じられないほど、達夫は内側が開かれる感覚にあえいでいた。しかし青年の言葉は本当だと、すぐに思い知らされる。 「ぁはっ、は……あっ、あ、ああ? あ、はぅ、うんっ、あ、な、んだ……これ」  青年が体を揺らすたびに、苦しさが薄れて表現しがたい恍惚が押し寄せてきた。ヒクヒクと尻の口が痙攣し、内壁が収縮している。それはまるで青年の存在をよろこび歓迎しているようで、達夫は己の体が信じられなかった。 「言ったでしょう? すぐに、気持ちよくなりますよと」 「聞いたが、っ……これぁ」 「もう苦しくないですよね。では、思い切りさせていただきますよ」 「うえっ、ちょっと待……っは、ぁあ」  喜々として、青年は激しく達夫を責め立てた。たしかに物理的な圧迫はないが、得体の知れない刺激が尻の先から頭の先へと突き抜けていく。 「はんっ、はんぁ、あ、ま……っ、ぁ、おかし……こんっ、ぁふ、く、うう」  ガツガツと打ちつけられる達夫の陰茎が元気を取り戻し、青年の動きに合わせて揺れながら先走りをまき散らした。 「感じているんですね……ああ、うれしい……僕に抱かれて、気持ちがいいんでしょう」 「や、ちが……んぁあっ、は、ぁああうっ」 「うそはいけませんよ? 自分の体の正直な部分がどうなっているか、わかっているんでしょう。認めたら、もっと気持ちよくなれますから、受け入れてください」 「そんっ、あ……あぁっ」 「さあ、きもちがいいと言ってください」  艶然とほほえまれ、耳朶にあやしくささやかれた達夫の意識が、淫らな悪寒にゾワリと揺れた。 「んぁっ、き、もちい」 「もっと、はっきり」 「はぁ……きもちぃ」 「僕に抱かれて、きもちがいい……と」  どうにでもなれと、淫靡にぼやける意識の奥で達夫は吐き捨てた。 「兄ちゃんに抱かれて……っ、き、きもちいいっ」  言い切った瞬間、恐ろしいほどの悦楽が達夫を呑み込んだ。 「ふはああっ、あっ、すげ……ああっ、んぁ、兄ちゃ……っ、は、ぁあ」 「達夫さん……すごく、ぁあ、いいです……もっと、僕にすがりついて啼いてください」 「ふぁあっ、あ、兄ちゃ……兄ちゃん……んぁ、いいっ、ぁ、もう、イクッ、でる、ぅう」 「いいですよ、いっしょにイキましょう……天国へ」  グウンと深くえぐるように貫かれ、達夫の目の奥で花火が弾けた。 「っ、くはぁああああ――ッ!」 「んっ、くぅう」  弾ける青年を感じながら、達夫はこれまで経験したことのないほどの開放感を味わっていた。ビクンビクンと快楽に全身を痙攣させる達夫の顔は、満ち足りた笑顔になっている。そこに、やさしくも冷たいキスが落とされた。 「は……ぁ、ありがとうございます。達夫さんのおかげで、僕は」  そこで声は途切れてしまった。それを追いかける余裕もなく、自分自身がとろけてなくなるほどの快楽に包まれた達夫は、そのまま意識を失って大海原にたゆたうクラゲのように、ゆらゆらと幸福な悦楽の夢をさまよった。 ◇◆◇ 「ん、う」  朝日にまぶたを染められて、目を覚ました達夫はムクリと起き上がった。ボリボリと頭を掻いて、部屋を見回す。食べ残しの豆腐とキムチの残骸がちゃぶ台に乗っていた。体をパタパタ両手で叩き、最後に尻を撫でてみる。 「うーん?」  これといって異常はない。 「夢……だったのか」  そりゃそうだろうなと自分にツッコミを入れて、達夫は立ち上がった。ベランダから外を見れば、大木がどっしりと根を張り枝を伸ばしている。セミが鳴くよりはやく起きたのは久しぶりだ。 「変な夢だったなぁ」  ボリボリと腹を掻いて、とりあえずシャワーを浴びようと風呂場に行った達夫は、鏡に映った首筋を見て固まった。 「こいつぁ」  首元にうっ血がある。蚊に刺されたかと触ってみても、腫れていない。あきらかなキスマークに、達夫は片頬をひきつらせた。 「夢じゃ……なかったのかよ」  渇いた笑い声をあげ、達夫は青年を思い出した。キレイな顔をしていたなと噛みしめて、シャワーのコックをひねった。ぬるま湯を浴びながら、冷たくて気持ちよかったなと思い出した達夫は、幽霊とはいえ男に抱かれたにしては嫌悪感がなかったなと、自分の気持ちに首をかしげた。 「ヤリ逃げされたってぇのによ」  つぶやいて、責任を取ると言われても困るなと考え直す。 「まあ、ひと夏の恋っつうか、夏のひと夜の思い出っつうか、そんなところと思っておくか」  こだわりもなく片付けて、髪を洗って体を磨き、ヒゲをあたってさっぱりとする。 「さて、と」  身支度を整えた達夫は、出勤時間にはかなりはやいとわかりつつ家を出た。すこし離れたコンビニに行き、店内を物色する。さすがに花は売ってないなと缶チューハイを購入し、アパートに戻ると裏に回って、大木の根元に立った。 「心残りが俺で解消されて、よかったなぁ。兄ちゃんよぉ」  声をかけ、プルタブを開けて缶チューハイを半分、根元に注いだ。乾杯のしぐさをして、残りの半分を飲み干す。 「じゃあな、兄ちゃん。あの世でヨロシクやってろよ。俺とは違ったタイプだが、男前なんだから相手はすぐに見つかるだろうさ」  ひらりと片手を上げて背を向けた達夫の肩に、ひらりと木の葉が触れて落ちた。 -fin-

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