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第19話 隼一の友人との食事
翌日隼一は上機嫌で夕希を迎えに来た。どうしたのか尋ねると、昨日お台場で撮った写真がSNSで大きな反響を呼んでいるのだという。アニメの等身大ロボット像の前で隼一がロボットを真似たポーズで立っているという構図で、普段気難しそうな彼のユーモラスな一面が話題となっていた。
夕希のお陰で新しい扉が開けたようだと隼一は喜んでいた。
――彼が食事以外のことで少しでも元気になれたのなら良かった。
その後も夕希は連休中ほとんど毎日隼一とレストランで食事をし、記事を書いて過ごしていた。そのうちのある夜、隼一の友人に紹介してもらうこととなった。
当日夕希たちはその友人宅からほど近い一軒家のフレンチレストランに集まった。温かみのある|漆喰《しっくい》壁のお店で、木製の階段を降りた先にある地下の個室に案内される。窓は無いが天井が比較的高いため窮屈さは感じない。夕希は秘密の隠れ家っぽい雰囲気が気に入った。
隼一とこれまで訪れたフランス料理店が伝統的なグランメゾンだとしたら、今日のお店は素材にこだわったモダンフレンチといったところだ。
隼一の友人は医学博士で、オメガ・アルファ関連の新薬開発を行う会社の代表取締役らしい。淡い髪色の好青年で、隼一と同じような背格好のアルファだった。だけどいかにも物腰柔らかそうで、隼一とは全然タイプが違う。彼は一緒にものすごく綺麗な黒髪のオメガ男性と、一歳になる赤ちゃんを連れてきていた。
「はじめまして、文月礼央 といいます。こちらは妻の美耶 と息子の朔 です」
「はじめまして、隼一さんのアシスタントをさせてもらっている早瀬夕希と申します」
最近夕希が隼一の知人に紹介されるときは、肩書をアシスタントということにしている。
「聞きましたよ、大変ですね。彼の鼻の代理をしてるとか」
礼央は自分の鼻を指差しながら言った。夕希は一瞬うろたえ、隼一に助けを求め視線を送る。
――隼一さんの鼻のこと言ってもいいのかな?
「ああ、大丈夫。礼央は俺の嗅覚のことは知っているから」
「それでなんの匂いもしないけど、そちらの早瀬くんの香りだけはわかる、と?」
「そうなんだよ。こういうことってよくあるのか?」
「正直珍しいんだけど、文献を調べてみたところ過去にも例があってね」
「そうなんですか?」
つい夕希が口を挟むと礼央がこちらに向かって答える。
「ええ。オメガの人もホルモンバランスによって定期的に体調に変化がありますよね」
「――そのようですね」
「実はアルファにも、オメガ程ではないけれどホルモンによって体調が変化することがあるんです。例えば交通事故や病気、それから極度のストレスが引き金となって嗅覚異常やその他の症状が現れると言われてます」
夕希はアルファにもそのような体調変化があるとは知らなかった。
「隼一レベルでほぼ完全に嗅覚が失われるのは珍しいんだ。だけど、それだけ身体に無理がかかっていたということなのかもしれない」
「無理?」と隼一が聞き返すと「それは自分でもわかってるんじゃないのか」と礼央が静かに答えた。
少し棘のある言い方からすると、彼らの間にだけわかる事情があるらしい。
「お説教なら後で聞くよ。今日は美しい奥さんと可愛いアシスタントが同席しているんだから、つまらない話はまたにして食事を楽しもう」
そして食前酒からコースがスタートした。白ワインを一口飲むと爽やかな柑橘系の香りがした。それを隣の隼一に伝える。
前菜は天然スズキのマリネに旬のアスパラ添え。ソースに混ざっているのは大葉とバジルで、全体的に色味も匂いも青く若干刺激的だ。口に入れるとスズキの優しい旨味が広がり、ソースと混ざり合う。鼻を抜けていく香りには大葉独特の清涼感があった。
夕希の説明に隼一が満足そうに頷く。
「温度や舌触りはわかるんだ。このスズキの引き締まった食感なんかはね。だけど、ハーブの匂いがわからなくて一体どれだけこの料理を楽しめると思う?」
それを聞いた礼央が気の毒そうに頷く。
「だけどこうやって夕希が説明してくれるから俺は過去の記憶を辿って……」
そこで彼はもう一切れマリネを口に入れた。
「この味を頭の中で再現して、ほんの少しは美味しいと感じられるというわけだ」
「そうか。早瀬くんのおかげで元気を取り戻したみたいで安心したよ。嗅覚を失ってすぐはほとんど外へ出ようともしなかったからね」
何気ない礼央の発言に夕希は驚いた。どうやら彼は外に出て、なんの匂いもしない中を歩くこと自体が苦痛になっていたようだ。
「最近はちゃんと食べてるんだろうな?」
「ああ、食べないと夕希に怒られるからね」
匂いがしなくなってから彼は食事自体が億劫になり、数日何も食べずにいることも珍しくなかったという。しかし最近は夕希が一緒にいる間は少なくとも毎日食事をしている。冷蔵庫にも以前よりは食材が入っていて、夕希が簡単なものを作ることもあった。
「早瀬くん、隼一の面倒をみるのは大変だと思うけどよろしく頼むよ」
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