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第32話 夕希の選択
隼一が目を見開いた。
「夕希? どうしたんだ?」
「苦しい、隼一さん助けて……」
――体が震えて止まらない。なにこれ……?
隼一が鼻をひくつかせ、眉をひそめた。
「この匂い、いつもとちがう。まさか発情フェロモンか?」
「わからな……こんなの初めてで……」
今まで発情期でもこんなふうに身体が震えて動けなくなったことなんて無いのに。
夕希は酔いと発情のせいでとにかく「彼と離れたくない」という強い思いに支配されていた。この人に嫌われたら自分はもうおしまいだという気さえしてくる。
「抑制剤は? 君の鞄の中か?」
夕希は自分の思考が強迫観念で埋め尽くされそうになりながらも、必死に頷いた。緊急時用の抑制剤はバッグに常備している。もはや自分がベータと偽っていることなど気にしている場合ではなかった。
なんとか残った理性を総動員してしがみついた手を離し、彼が夕希の部屋に行くのを見送った。
「はぁ……はぁ……っ、やばい、なにこれ……うぅ……」
――行かないで。抑制剤なんていらない。このまま抱いてよ――……。
本能丸出しの願望が頭の中に渦巻いて止められない。身体を両手で抱えるようにして床にうずくまっていたら、隼一が慌てた様子で戻ってきた。
彼の姿が再び視界に入り安堵した瞬間、さっきまで悪寒で震えていた身体が今度は急激に熱を持ち始めた。その熱で頭が沸騰し、彼の匂いを深く吸い込んだだけで身体の芯が甘く疼いた。
――今すぐこの雄 のものにされたい――違う、だめだ。早く薬を飲まないと。
「夕希、注射タイプの抑制剤は無いのか?」
「そんなの持ってない」
「なに!? こんなになってたら錠剤じゃ間に合わないぞ」
「だって、僕――」
これまで、発情期と言ってもあまり酷い症状が出なかった。なので緊急抑制剤なんて使ったことがない。錠剤よりも即効性のあるペンタイプの注射器が流通しているが、そんな物は必要になったことがない。
「まぁいい、とにかくこれを飲んで」
隼一に抱き起こされて、薬を飲む。すると彼が鼻と口元を覆ってちょっと苦しげな様子で言う。
「効き目が出るまでに十五分はかかる。悪いが、このまま一緒に居たら俺が耐えられない。薬が効くまでの間一人にして大丈夫か?」
「え……嘘、嫌だ。行かないで隼一さん」
隼一が困った顔をしているのを見ても、夕希は彼から手を離せなかった。置いて行かないで欲しい。
――彼に見捨てられたら、僕は……。
「しかし君はネックガードも付けてないし、俺はアルファだ。一緒に居たら危ないんだよ」
それを聞いて北山から送られてきたプレゼントが脳裏をよぎった。
このままもうあと一ヶ月もしたら夕希はあのアルファの物になる。初恋の人に裏切られてから、本気の恋なんて一度もしたことがない。結局どうあがいても自分の人生には選択肢なんて無かった。でも――ここにいる隼一なら?
彼はアルファだ。だけど、夕希の周りにいたどんなアルファとも違う。オメガを見下したりしない。独占欲からじゃなく、夕希が困っている時にさり気なく助けてくれる。強引で失礼な所もあるけど、裏表が無く優しい。何より夕希がベータでもオメガでもどうでもいいという態度で接してくれる。
――このまま、北山に身を捧げるのか? 初めて心を許せると思えたアルファが目の前にいるのに――?
「そんなの嫌だ……」
「夕希?」
夕希は彼の腕にしがみつき、目を見て訴えた。
「お願い、隼一さん。僕を抱いて下さい」
すると彼は息を呑んで夕希の手を振りほどこうとした。
「な、何言ってるんだ? 発情しているからって、俺は君にそんなことをするつもりは――」
夕希は必死で彼の首にしがみついた。このまま彼が抱きしめてくれるのを期待して。
――だっていつも優しくしてくれるよね。
「夕希……わかってくれ、十五分経ったら必ず戻るから」
彼は抱き返してはくれなかった。焦燥感で涙がこみ上げてくる。
――なんで? ふざけて僕の頬にキスしたじゃないか。さっきはいい匂いだって抱きしめてくれたじゃないか。お願いだから拒絶しないで――……。
夕希は震える声で懇願し続けた。
「嫌、嫌――。お願い。僕として? そしたら身体が落ち着くから。また記事の続きが書けるから……」
「馬鹿な、そんなことまでして書かなくていい!」
彼は夕希の身体を押しのけようとした。しかし夕希は更にきつくしがみつく。
「いやだ……! ちゃんと仕事できなかったら、僕を見捨てる気でしょう?」
「何言ってるんだ? とにかく、君のフェロモンで俺ももう限界なんだ。手を離して、夕希」
彼が必死で耐えているのがわかっていても、夕希は無言でしがみつくのをやめなかった。離したくない。
自分がアルファにすがりつくなんて絶対に一生無いと思っていた。だけど、このまま結婚して北山の言いなりになるくらいなら、その前に自分が選んだ相手に一度だけでいいから抱かれたかった。
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