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第35話 嗅覚の復活
二人は日本酒の飲み比べを再開した。手元にあった酒を一口飲んだ隼一が首を傾げて言う。
「あれ……このお酒……」
「どうかしました?」
さっき間違えて注いでしまった八番の酒の匂いを嗅ぎながら、隼一が夕希に言う。
「これって、かなりスパイシーな香りがしている?」
「え? ええ、たしかにそんな香りですね」
「そうなのか……」
「あれ? 隼一さん、もしかしてこの匂いがわかるんですか?」
――僕以外の匂いを感じられるってことは、特殊な香りのお酒なのかな? それとも……。
夕希は七番の酒もグラスに注いで彼に差し出した。
「隼一さん、こっちはどうです?」
すると彼がグラスに鼻を近づけ、しばらく無言で視線をさまよわせる。
「|芳醇《ほうじゅん》で、少し乳臭さがある?」
夕希もそのグラスを受け取って匂いを確認した。すると、彼の言うとおりの香りが鼻をついた。
「はい、そうです。ということは、もしかして」
「ああ。嗅覚が戻ってる……」
隼一は呆然としていた。
その後部屋にある色々なもので試してみたけど、本当に匂いがわかるようになったみたいだ。さっきバスルームにいた時は夕希のフェロモンが強くて気付かなかったようだが、シャンプーの匂いやボディソープの匂いもするという。
「すごい。信じられない……! まさか、こんなにすぐに効果があるとは」
「効果?」
「君のおかげだよ! 夕希、ありがとう」
彼が喜色満面といった顔で夕希の肩を叩いた。
――僕のおかげって、どういうこと?
興奮で頬を上気させながら隼一が酒をあおる。
「うまい。香りと一緒に味覚も完全に戻ってる。本当に治ったんだ!」
そう叫んだ隼一が夕希の手を引っ張り、身体を抱き寄せいきなりキスしてきた。
「んんっ!?」
無遠慮に舌が入り込み、すぐに離れていく。隼一が味を確かめるように自身の唇を舐めた。
「ああ、最高だ。君のたまらなくいい香りと酒の匂いが混じって今まで食べたどんな食事より美味い」
唇を離した彼にうっとりした顔でそんなことを言われる。しかし夕希はそれどころではなかった。
「な、何するんですか!」
「ありがとう、本当にありがとう」
しかし、夕希の抗議も虚しく彼に思い切り抱きしめられてしまう。夕希はその勢いに気圧されて、それ以上文句を言えなくなった。
「礼央 が言ってたことは本当だったんだ!」
「礼央さん、ですか?」
「ああ。鋤鼻器官 からのフェロモン受容により、抑圧されていた感覚が解放されると言ってたんだ。まさにそれだよ!」
「はぁ……?」
――じょびきかんから、じゅよう……何?
隼一は夕希を解放するとグラスに酒を注ぎ足し、一つを差し出した。
「お祝いだよ、さあ乾杯だ!」
「か、乾杯……」
嗅覚が戻った隼一は次から次へと酒を口にし、まるで水を得た魚のようにその味と香りを言葉にしていった。夕希は慌ててそれをメモする。
食べることが一番の楽しみだった彼が嗅覚を失い、半年近くにわたって苦しんできた。そして今ようやく嗅覚と味覚が復活したのだ。これ以上にないくらいの嬉びなのだろう。
「ふくよかな味わいで口当たりも柔らかいんだけど、後味はすっきりしているな。香りは控えめだ」
「ふくよかで……口当たりは柔らか、と」
夕希は聞いた言葉を一字一句漏らさぬように書き留める。
「じゃあ次」
「あ、今ので最後です」
彼は驚いて夕希の方を見た。
「え? もう?」
「はい。一気にテイスティングされたんで、もう終っちゃいました」
テーブルの上には大量のグラスと、瓶が並んでいた。
「ああ、そうか。つい嬉しくて飛ばしすぎたかな」
「お水どうぞ」
さすがの彼も酔いが回ったようで、頬を少しだけ赤くしていた。嬉しそうに目を細めて酒の瓶を眺め、水を飲んでいる。彼と出会ってから、こんなに楽しげな様子を見るのは初めてだった。
「良かったですね、香りが戻ってきて」
「ああ。やっぱりこうじゃなきゃな」
夕希は隼一が飲んでいる間ずっと気になっていたことを切り出す。
「あの――今回記事の本文は、隼一さんが書かれますよね?」
「え? ああ……そうか。そうだな、今回は俺が書こう」
「わかりました」
――やっぱりそうだよね。
彼の嗅覚が戻ったならば、夕希がこの先ゴーストライターをする必要は無い。タイミング的にも良かったのかもしれない。オメガだということを明かして彼と寝てしまった以上、毎週ここに泊まり込むなどということはできない。
さっきキスされてはっきり自覚したけれど、夕希は薬で発情を抑えている今も彼に惹かれている。このまま彼の近くに留まれば、結婚を前に離れがたくなるのは目に見えていた。しかも、彼が元々はオメガと距離を置いていたのは笹原から聞いている。現にさっき夕希の香りと酒の匂いが混じって、と口にしていた。
彼には想像以上に良くしてもらったし、邪魔になりたくなかった。これからは彼に頼らず自力でなんとかしていくしかない。
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