しばらくすると、先日兄と話をしたお台場の建物群が見えてきた。あのときは向こうから東京湾をただ眺めることしかできないと思っていた。 ――こっちから見たらまるで別の世界に来たみたいに何もかも違って見える。陸(あっち)が夢で、この船の上だけが現実だったらいいのに……。 　隼一と一緒にいるのが楽しい。楽しすぎて、向こうへ帰りたくなくなる。 　最後にこんな気持にさせられるとは思っていなかった。夕希はアルファである隼一に利用されて、彼を恨んでアシスタントを辞めるつもりだった。もう、彼に対して何も感情を動かされることなんて無いと思っていたのに。 ――馬鹿だな。二十八歳になってもあの頃と全然変わらない。結局僕はまたアルファ相手に実らぬ恋をして勝手に傷ついて終わるんだ。 　隼一は、恨むには良い人過ぎた。冷静になった今ならわかる。彼は夕希を陥れようと思ってアシスタントの依頼をしたんじゃない。たしかに彼の嗅覚にとってオメガが必要不可欠だったんだろうけど、その代わり彼は出来る限り夕希に親切にしてくれた。夕希が勝手に好きになって、自分自身が選ばれたんじゃないと知って一人で怒っていただけなのだ。 　彼がもっと嫌な奴だったらよかったのに――と思いつつ隼一の顔を見る。 「夕希、ほら。この前ピクニックしたところあの辺りじゃないか？」 　彼が目を輝かせながら対岸を指差した。 「またお弁当作ってくれる？」 「え？」 「ほら、匂いがわかるようになったし。あのときの卵焼きまた食べたいな」 　夕希は作り笑顔がひきつりそうになるのを必死に堪えた。 「ええ。でも隼一さんも手伝ってくださいね」 「えー、でも俺本当に料理は苦手なんだよ」 「おにぎりくらい作れるでしょう？」 「あ、そうだ！　そういえばそろそろ腹減っただろう？」 「今話そらしましたよね？」 「いいからいいから。ほら、来て」 　手を引かれて後方デッキに移動する。こちらは前方より少し広くて、十人くらいは座れそうなソファと大きめのテーブルが設置されていた。そして、スーツを着た年配の男性が二人を出迎えた。 「鷲尾様。もう火をお入れしてよろしいでしょうか？」 「ああ、頼む」 　カウンターにはバーベキュー用のグリルが設置されていた。男性はそこへ肉や野菜を手際よく並べていく。 「もっと大きな船だったらキッチン付きでフレンチのコースも可能なんだけど、そういうのより気楽なこっちが良いかなと思って」 「僕、友達少ないのでバーベキューもしたことなかったです」 　オメガの友人はおとなしい子が多いし、バーベキューに誘ってくるような活動的な人間の集まりには、必ずと言っていいほどアルファがいる。もともとインドア派な夕希はそういった集まりへの参加を避けていた。 「気に入ってくれた？」 「はい。すごく」 「よかった。ナポリのマリーナに俺のクルーザーがあるから、君が休みに入ったならいつでも行けるよ」 「え？」 「ほら、今回はパスポートが無いから海外はダメって言ってただろう？」 「あ……」 　事前に誕生日の予定を聞かれた時、彼はおそらく海外旅行を視野に入れていた。だけど、夕希は既に新しい雑誌の仕事の方が始まっていた。だから、「パスポートが無い」と言って海外行きを断ったのだ。 「シュノーケリングもできるし、ここよりもっと楽しいよ」 「そ、そうですか」 「パスポート、手続きもうしてるんだよね？」 「え、あ、はい……」 　このままでは、ますます辞めることを言い難くなる。そろそろ切り出さないと。しかしそれを口にしたらこの楽しい時間が終ってしまうと思うと夕希はなかなか言い出せなかった。 　バーベキューを食べながらお酒を飲んでいるうちに、段々日が傾いて辺りが夕日に染まっていく。明るい中颯爽と進む船も良かったけど、水上から夕日が沈む様子を見るのはなんとも言えない贅沢な体験だった。 　その後すっかり日が沈んで暗くなった。夜景を眺めながら食後に甘口の貴腐(きふ)ワインを飲む。ライトアップされたレインボーブリッジやビル群の灯りが水面に反射している。夕希はまばゆい光が黒い波を彩るのをぼんやりと見つめていた。 「お待たせいたしました」 　先程の男性がバーベキューを片付け終えたかと思うと、ホールケーキを持って現れた。メロンでデコレーションされたケーキの上でスパークキャンドルがぱちぱちと弾けている。 「わ！　嘘……」 「おめでとう夕希」 「おめでとうございます。早瀬様」 「ありがとうございます……！」 　男性はケーキを置くとすぐに船内に戻って行った。 「隼一さんやめてくださいよ、こんなの恥ずかしいじゃないですか」 　夕希はこんなことをされたことがなかったので、嬉しさと驚きで声がうわずった。 「なんで？　嫌だった？」 「だって僕もう二十八歳の男ですよ」 「そういうものか？　悪かった、こういうの実は慣れてなくて」 　隼一はそう言いつつも楽しげに笑っていた。夕希もつられて笑みがこぼれる。 「でもこのケーキ、Nホテルのだよ」 「やっぱりそうですか！？」 　見覚えがあると思ったら、以前隼一と新作お披露目イベントに行ったとき味見をした、有名パティスリーのホールケーキだった。 「食べる？」 「食べます！」 　隼一が切り分けようとしてくれたけど、あまりにナイフを持つ手付きが怪しかったので夕希が代わりに切り分けた。それがまた可笑しくて二人は笑いながらケーキを食べた。