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第50話 北山の本性
それでひとまずほっとしていたが、その後北山の信じられないような電話を聞いてしまった。
ある日、彼と外で待ち合わせをしていたとき約束より早めに着くと、既に彼がもう来ていた。声をかけようとしたけど、電話中だったので少し待つことにした。
「だから、早瀬さんへの出資をやめてくれって何度も頼んでいるんじゃないか。じゃなければいつまで経っても夕希は子作りに応じてくれない」
――え? 何?
「ああ、わかってる。とにかくすぐにでもやってくれ。わかってる! 俺だってなるべく早く子どもが欲しいんだ。え? やってるよ。だけどいくら甘やかしても身体を許さないんだ。もったいぶりやがって」
――え? え? どういうこと?
驚いたことに、彼は夕希の父の会社への出資をやめるように打診していたのだ。しかもその理由は夕希が子作りに応じないからだと言っている。夕希を追い詰めて、言うことを聞かせようとしているのだ。
たしかに夕希は何かと口実を設けて彼に触れられることを拒んでいた。だけど、結婚式を挙げたら観念して身を委ねる気でいたのだ。それなのに夕希を抱くために父の会社への出資を妨げるだなんて、常軌を逸している。しかもそれをおそらく自分の父に対して話しているのだ。
――信じられない……気持ち悪い……。
夕希は口を押さえて吐き気を堪えた。
――僕、本当にこんな人と結婚しなければならないの……?
なんとか結婚後の未来を明るいものにしようと努力してきたのに、一瞬で目の前が真っ暗になった。しかし母や兄を愛しているし、できるならアルファと結婚してちゃんと子どもを産んで安心させてあげたい。でももし母や兄のことがなければ今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
その日、夕希は雑誌の仕事のことを北山に打ち明けた。カフェのテーブルを挟んだ向かい側でコーヒーを飲んでいた彼は、驚きを隠せないようだった。夕希が予め退職する約束だったからだ。
「会社は退職したんじゃなかったの?」
「はい。今までの会社は退職しました。ただ、結婚してからも何かしていたくて、在宅でできることを始めたんです」
彼はこの話を聞いて不愉快そうに顔を歪めた。
「夕希。どうして勝手なことをするんだ」
「え……」
「なぜ先に相談してくれなかった? 君は僕の妻になるんだよ」
「それは、わかっていますけど……」
「全然わかっていない。雑誌の仕事だって? どこのなんて雑誌だ」
彼は険しい顔でスマホを手に取ると、夕希の答えた雑誌を検索し始めた。夕希は隔月の仕事でそれほど忙しくないことや、取材を除けば基本的に在宅で仕事ができるということを必死に説明した。しかし、それでも彼の眉間のシワは深いままだった。
「ライフスタイルの提案? ふん、食のコラムねぇ。オメガの君が結婚後も仕事だなんて、そんなに上昇志向が強くて何になるんだ? 大体、これから妊娠・出産という人生の中で一番大事なイベントが待っているんだよ。今からそんなことを無理にやらなくても、子どもが大きくなってからでもいいじゃないか」
「友宏さん、でも僕――」
彼は夕希の言葉をわざとらしいため息で遮った。
「もう始めてしまってる以上、途中で投げ出すわけにもいかないだろう。まあいい。それじゃあ妊娠するまでは認めよう。だけど、妊娠したら辞めるんだ。いいね?」
「え? そんな……」
「君の身体を心配してのことなんだよ」
彼がテーブルの上で夕希の左手を握った。薬指につけられた指輪を彼が撫でる。先日連れて行かれたジュエリーショップで彼が選んだ婚約指輪だった。プラチナに小さなダイヤがあしらわれたシンプルなデザインで、夕希は結婚指輪だけで良いからいらないと言ったのに「挙式前から付けてほしいから」と強引に勧められた。以前から薄々感じてはいたけど、彼は相手を縛るようなアクセサリーを贈ることにすごくこだわりがある。とりすました顔をしているけど、その裏で独占欲がものすごく強い人なのだ。
「夕希、今夜は泊まっていける?」
「あ……ごめんなさい。仕事の締切が近いから、家に送って欲しいです」
「そうか、残念」
彼は夕希を自分の家 に置いておきたがる。男の人は誰もがそういうものなのだろうか。夕希は試しに女性と付き合ったこともあるが、そこまで相手を束縛しようと思ったことがないからよくわからなかった。
ただ最近学んだのは、何かお願いするように言えば彼が喜んである程度のことなら応じてくれるということだ。さっきみたいに「家に送って欲しい」とか、ねだるような口調で言えば大抵のことは切り抜けられた。
――こういうのが嫌でベータのフリしてきたのにな……。
オメガが甘えた声でアルファに媚びているのを聞くのがいつも嫌だなと思っていた。だけどこれは彼らなりの防衛法なのかもしれない。こうやって媚びることでアルファを動かして、自分の身を守る意味もあるのだとようやく理解できた。
夕希は自分の主義に反することをしてでも、なんとか彼の言いなりにならずにすむよう必死だった。
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