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第一話 最低のクリスマス・イヴ

 これが飲まずにいられるか。  和真は泣きながらジョッキを煽った。何杯目かもわからないビールが、苦味を伴って全身に行き渡ると、カッと身体が熱くなり、一瞬悲しみも遠のく。しかし、周りの音や雰囲気ですぐまた正気に戻り、さらにビールを頼んだ。  クリスマス・イヴ。  誰もが浮つくその夜、和真は久方ぶりにできた恋人とデートの約束をしていた。もちろんプレゼントも用意して。  ところが、化粧箱に入った高い腕時計を受け取るなり、恋人は言い放ったのだ。 「別れよ」  一瞬にして元恋人となった男に、和真は動揺する。 「な、なんで急に! だって俺たちにうまくいってたじゃん! あと別れるならそれ返してよ!」  質問と共に要求すると、元恋人はじとりとこちらを見つめる。 「浮気、してたでしょ」 「え゛っ」 「知ってるんだよ。ボクと会ってない日は他の男と寝てたんでしょ!」 「そ、それは」  そうだけど。和真は肯定を飲み込んだが、何の意味もなかった。 「これは慰謝料にもらう! なにが恋人だよ! このセックス狂い! 誰でもいいなら乱行パーティにでも行ってなよ!」  散々な言葉を投げかけて、元恋人は去って行き。複数の意味でひとりになった和真は、馴染みのバーへと駆け込んだ。  そして仲のいいマスターが見守る中、オイオイ泣いてビールを煽ったのだった。  そうして何時間が経ったろう。気がつくと、和真はアパートのひんやりした廊下に伏せっていた。  酔い潰れていれば客の誰かに持ち帰られ、それこそ乱行でもできるかと思っていたが。まさか無事に帰宅しているとは。きっとマスターがタクシーでも呼んでくれたのだろう。乗った覚えも降りた覚えもないのだが、そこはしっかり和真の自室の前だった。  クリスマス・イヴの夜。冷え切った空気は凍えるようで、酒に熱った頭も急速に醒める。もぞもぞと床から離れようとしたけれど、体のほうはまだ酔い潰れているのか上手く動かない。なんとか壁に背もたれて、ズボンのポケットを漁ったが……。 「……あれ……? 無い……」  ポケットにしまっていたはずのスマホや財布、家の鍵が無い。何度確認しても、そこには無かった。  どこかで落としたのか。酔いで何も覚えていない。タクシーにはどうやって料金を払ったんだろう。そんなことより、このままでは家にも帰れないじゃないか。 「なんだよ……ほんと、最低のクリスマスじゃん……」  ボソリ、と呟けばまた涙が溢れてきた。  本当に、いったい自分は何をしているのだろう。夜もふけた寒空の下、家の前の廊下でひとり泣いている。全てが情けなくて、ますます悲しくて。ブツブツと文句を言うことで気を紛らわせるしかなかった。  凍える体が震えてきた頃。 「あのう……大丈夫ですか?」  唐突に声がかけられる。ふえ、と和真が顔を上げると、隣の部屋の玄関が開き、そこから暖かい光が漏れている。逆光で見えにくいが、男性がこちらを見ているようだ。 「たぶんお隣さん、ですよね? 何かお困りですか……?」  優しい声音で問われて、和真は「だいじょぶ、大丈夫です」と愛想笑いを浮かべたけれど、とてもそうは見えなかったようだ。 「外、寒いでしょう。風邪を引いてしまいますよ」  心配そうに言われて、和真は苦笑した。 「はは、実は部屋の鍵、無くしちゃったみたいで……」 「ああ、それは大変ですね。この時間だと大家さんや鍵屋さんも対応してくれなさそうですし……。お知り合いの家などは近くにありますか?」 「いや、それがまったく……だから今夜はここで寝るしかないかなって……ははは、最悪のクリスマスになりそう……いや、もうなってた……へへ、へへへ……」  泣きながら笑っている和真を見て、どう思ったのだろう。男は少しの間をおいて、口を開いた。 「……もしよかったら今夜はうちで過ごしませんか?」 「……へっ」  その言葉に目を丸くすると、相手の顔がようやっと像を結んだ。柔和そうな男だ。優しい眼をしていて、いかにも大人しそうでもある。左眼の下に泣きぼくろがあって、髪は暗い茶髪で、長く伸ばしたものを後ろで結んでいるようだった。  急に知らない人間から「部屋に入れ」と言われれば、普通は警戒する。普通は。しかし和真は酔っていたし、とても目の前の男が悪い人間のようにも思えなかったから。 「……いいんすか?」  そう、聞き返した。  はっと気付くと、和真はトイレの壁にもたれかかっていた。  そういえば、お隣さんの肩を借りながら部屋に入った途端、気持ち悪くなったような。床に色々出してしまうのはなんとか耐えて、トイレを借りていたような。  思い出すと、また気持ち悪くなるような気がした。口の中が酷い味で呻いていると、隣人がコップを持ってやってくる。 「大丈夫ですか? これ、よかったら口を濯いでください。飲むと胃がビックリするかもしれませんから……」 「うう、すんません、すんません……」  コップの中には水が入っていて、和真は忠告通り口を濯いでトイレを流した。次第に気持ち悪さは消えていって、少し落ち着いたようだ。恐る恐るトイレから這い出そうとすると、また男が肩を貸してくれる。 「横になりましょう、その方がきっと楽ですよ」 「でも、また戻しちゃったら……お部屋汚したら申し訳ないし……」 「心配しないでください、大丈夫。気にしませんから」  なんと優しい言葉だろう。和真は涙が出そうだった。今日は本当に散々な日だったから、温かさが胸に沁みる。  男の部屋は和真のものと同じ間取りのワンルームだけれど、木の家具が多く柔らかい印象だ。いくつかぬいぐるみも置いてあって、優しい雰囲気に包まれていた。しかしそれらをじっくり見る余裕は無く、男に連れられてベッドに横たえられる。  ベッドに寝るということは、この人の寝床なんじゃないか? 頭を疑問が横切って、慌てて「悪いです」と言ったものの、もう起き上がれない。柔らかい布団はトン単位の重さが有るんじゃないかと思うほど、身体を包み込んで離さない。ろくに身動きもできないが、それでも申し訳ない気持ちはある。 「貴方の寝るところが、なくなっちゃう……」 「大丈夫、私は床に布団を敷いて寝ますから、心配いりませんよ。ゆっくり休んでください。困ったことがあったらすぐに言ってくださいね」  男は本当に優しく囁いて、枕元に水の入ったコップや洗面器、タオルやティッシュなどを用意してくれる。人にこれほど優しくされるのはいつぶりだろう。和真は泣きそうになった。いや、泣いた。 「うっうっ……お隣さん……ありがとうございます……」 「露峰です。露峰薫といいます」 「露峰さん……。俺、七鳥です。七鳥和真……」 「七鳥さん? 珍しい苗字ですね。明日になったら、どなたかお知り合いに連絡ができそうですか?」 「わかりません……どうしよ……うー……」  まだ酔いで頭が回らない。それでも自分が絶望的な状況におかれていること、今日のつらい出来事、今優しくされている事実などがぐちゃぐちゃになって、和真はまた泣き始める。 「大丈夫ですか? まだ気持ち悪いです……?」  ゆっくりと布団越しに背中を撫でられて、ますます涙が止まらなくなった。 「や、も、今日、最悪の日で……」 「嫌なことがあったんですか?」 「そです、あの、今日、クリスマス・イヴじゃ、ないすか。さっき、恋人に振られちゃって……」 「ええっ、今夜にですか? それは……」  さぞかしお辛かったでしょう……。そう聞こえて、和真は「つらいスぅう……」と泣きながら呻いた。  よりによってこんな日に、本当だったらプレゼントを渡して、高いお店でディナーを楽しんで、煌びやかなホテルでセックスを楽しんでいた筈なのに。何もかも無かった。クリスマスイヴに独り身なんて辛すぎる。だから、わざわざ恋人も作ったのに……。  悲しい。寂しすぎる。こんなハズじゃなかったんだ。  胸の中が苦しくて、また涙が零れ落ちる。 「……七鳥さん」  薫が優しく声をかけるのが聞こえた。ぐすぐすと泣いている和真の背中を、布団越しにぽんぽんと叩いてあやしてくれる。まるで、子どもへそうするように。 「お辛いでしょう。そういう時は、我慢せずにうんと泣いちゃってくださいね」 「ふええ……でも、でも露峰さんに迷惑かけちゃうし、」 「いいんです。それにね、悲しいときは思いっきり悲しんだ方が、早く立ち直れたりもしますから……。今夜は浸りましょう。大丈夫、あなたはひとりじゃありませんよ。私がそばにいますからね」 「……ううぅ、うぇええ……っ!」  薫の言葉が優しくて、和真は身も世もなく泣きじゃくった。そうだ、恋人にはフラれたし、セックスもできなかったけれど、独り寝のクリスマス・イヴだけは避けられたのだ。  和真は薫に甘えて、いつまでも泣いていた……ように思うが。それから後のことは、憶えていない。

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