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4空瑠璃の秘密
かつて『妖精』と呼ばれた人々が世界には大勢いたらしい。
生まれつき魔力が強く、治癒力が高いため不老不死ではないが人より年を取るのが非常に遅い。溢れる魔力が背中から零れ、それを羽ばたかせている様がまるで神話に出てくる妖精のようだと詠われていたそうだ。
イリゼの母は半分その血を引いている強い魔力を内に秘めた人だった。母のそのまた母は混血でない直系であったから更なる長寿で、聞いた話だと遥か昔この城下町を作る時に領主一族の祖先と盟約を交わしていた魔導士の一人だったのだそうだ。
古の時代、国の東方にあったという『昏き穴』と呼ばれた魔獣が沸く忌み地から悪しきものが沢山押し寄せてきた。彼女たちは街をぐるりと取り囲む小川や運河に沿って咲いた聖なる花、『空瑠璃』の気を使って守りの魔法の結界をかけ、街や人々を護ったのだそうだ。
その後祖母は世捨て人のように世間から隔絶された場所で生きることを選んだ。かつて国同士の争いが絶えなかった時代、時の為政者たちは魔道具を使い挙って、強い魔力を持つ者からその力を吸い上げ我が物にしていたのだという。魔力は生命力にも通じる。『妖精』たちは身の危険を感じ、歴史の表舞台から次々と姿を隠したのだ。
しかし自分と違い、市井の人々の間で生きていきたいと望んだ娘を守るために、祖母は『空瑠璃』が香り立ち花粉が舞う時期に人々に忘却の魔法をかけた。それはいつまでも年を取らない二人の記憶を消し去って新たな歴史を刻ませるという、この街の中でしか使うことの出来ぬ壮大な魔法だった。
父方は普通の人間だったが、イリゼもひとより年を取りにくく、ずっと若々しく美しい姿を保ったままだ。儚げなほっそりとした容姿でただでさえ人より幼げにすら見える。
今回に限らずこれまでも訝しむ人々が現れ始める前に、何度か街中の人々の記憶からこの店と自分の記憶を消し去ってきた。
自分だけが時の流れから取り残され、良いことも悪いことも全て人々の記憶に残らず忘れられてしまう。この世のどこにも身の置き場がなくなるような、言いようのない哀しい心地に生きている意味を見出せなくなることもあった。
だが必要最低限しか人と関わらずに生きていこうとも思いながらも、イリゼは生来人懐っこく、ついつい困っている人を助けてしまいたくなる性分だ。
助けを求めて店にやってきた人がいたらまたその人たちと仲良くなればいいだけ、それも楽しみだと前向きに考えようとしていた。
(……それって結局、一番愛する人を失ったことがなかったから)
幼い頃、川で溺れかけたダイをイリゼが助けたという記憶は、イリゼの母がこの街を去る時に一度魔法を使ったのでダイ自身は覚えていなかった。その後彼のことがなんとなく気になって幼いころよりイリゼは陰から彼を見守り続けてきた。
そんなダイとイリゼに再び接点ができたのは、彼がまだ十代の少年の頃で、進学のため都に旅立つ直前の数週間のことだった。
ダイが街はずれのイリゼの店を訪れたのはほんの偶然だったようだ。友人伝いにイリゼの店の薬が良く効くと紹介されたらしく、都までの長旅の間に使う魔法薬をいくつか買い求められた。その時薄荷の香りのする小瓶がいたく気に入ったと言われて、お礼にと強引に食事に誘われた。
今まで人との深い関わりを努めて自分に禁じてきたイリゼだったが、ダイを見守り続けてくるうちに、何と言葉にすればよいのか分からぬが彼に対して確かな愛情を抱いていた。まるで眺めても決して手に入らぬ夜空の星が、我がもとに彗星の如く飛び込んできてくれたような。そんな驚きと同時に胸が高鳴り、そして多幸感で胸が満たされた。だから彼の誘いを断ることができなかったのだ。そしてその日から毎日、彼はイリゼの元を訪れた。
それは母と離れて暮らすに至ってから孤独に耐えてきたイリゼにとって人生で初めて送った、とてもとても甘美な日々だった。
幼い頃助けた時はほぼ瞑られたままで、その後も遠くから姿を眺めるだけだった彼の瞳の色は吸い込まれそうに深い青だと初めて知り、幾ら見つめてもその美しさに飽きることはなかった。赤々と燃える炎のような髪は一度だけ会ったことのある祖母と同じ色合いで、神秘的な縁を強く感じた。
どういうわけかダイの方はもう、最初からイリゼに対して恋人のように接してきた。彼はもしかしたら家族と離れ都に経つ不安を紛らわせようと、限られた時間の中で味わう恋に浸ってみたかったのかもしれない。イリゼは彼の若さを少し寂しくも愛しくも思った。
初めての口付けをされた時、ダイが「一人前になってここに戻るまで、俺のこと絶対に待っていろよ?」などと身勝手な台詞と共に、将来を誓うことを熱っぽく懇願された。
何年も後にこの街に戻る彼の目に映る自分が、時の流れが緩慢で少年の姿のまま殆ど変わらぬであろうことを想像すると、愛する彼から向けられる眼差しがどう変化してしまうのか。もしも少しでも畏怖や嫌悪の相が見られたらイリゼの胸は張り裂けてしまうだろう。
それが恐ろしくて、イリゼはその求愛から背くことにした。そしてまだ少年の面影を宿した彼が都に立つ日の朝に泣く泣く忘却の魔法を発動させたのだ。
記憶を失くしたダイからの便りは当然なかったから、都で進学したのちは誉れ高き近衛騎士団に入隊したと風の便りに聞いていた。王都で活躍する彼の姿を一目見に行きたいと何度も思ったが、この街を離れたことのないイリゼにはその勇気も出なかった。
その彼が数年前この城下町に戻り、王都での仕事ぶりが評価され、領主直々の命でいきなり護衛兵団の副団長に就任した。
ダイは見違えるほど凛々しくも頼もしい美丈夫に成長を遂げていたため、あの目立つ赤毛でなければイリゼもすぐには彼だと分からなかったほどだった。
そしてまた。イリゼの運命を変え、愛を覚えたあの日のように。
ダイは再び他の団員に連れられてイリゼの店を訪れた。
「時の流れが違う相手と暮らすのは辛いものよ」
旅立つ前にそう言い残していった祖母。沢山の場所を旅してこの街にたどり着いたという、父の足跡を辿る旅にでた母。
長大な自分自身の人生を逞しく生きる祖母や母たちと違い、この街という箱庭の中、息をひそめて生きてきた臆病なイリゼは、特別なものを作ることで自分がどんなふうに変わるのか想像がつかずただ恐ろしさに震えた。
だが再びダイと巡り合えた幸福を手放しがたく、特別な人を作ることを自らに許したのだ。
恋人を得てから過ごした日々は今までの人生の中で一番幸福な時間だった。まるで自分が作るきらきらと眩い魔法薬やアミュレットの中に飛び込んで溺れているような心地。何をしていても楽しいし、何を考えていても思いは最後にダイへと至る。
初めての恋、初めて愛した相手にイリゼは夢中になった。
それでもずっとは共にいられない。ここ一年はそろそろまた魔法をかけなければならないタイミングであろうと頭では分かっていたが、愛するダイとどうしても離れがたい。イリゼの見た目も少年というよりは青年に近くなり、大分大人びてきたため何とか誤魔化し、ぐずぐずと先延ばしにしてしまっていた。
だが領主の一族の末端とはいえ由緒ある家系の彼に縁談が持ち上がったこと、そして今度都に行く用事がありそれはたぶん縁談がらみで、街を半月留守にすると聞いたこと。それが決心を促す契機となった。
相変わらずイリゼは年を取っているのか判じがたい程度の微々たる変化しかしていない。今でなくとも、いつかはまたあの魔法を使わなければならないだろう。しかし深い仲となった恋人と、翌日には赤の他人になるという急激な変化に自分はきっとついてはいかれないと思った。それならば気持ちの整理をつけられる期間を設けられる、今しかないとイリゼはまた泣く泣く必死で自分を魔法を使う方に追い込んだのだ。
彼が都に立つ日の朝。
前の晩から泊っていたイリゼの部屋から一度自宅に戻ってから都へ旅立つという彼の背中を涙を浮かべて見届けて、何か気配を察したのか途中で振り返った彼に『根性の別れみたいな顔をしている』と駆け寄ってこられてすっぽりと腕の中に抱きすくめられた。
(一度目の別れより、ずっと辛い)
淡い初恋を感じたまままるで夢から覚めるように別れた一度目より、より深く互いを求め愛し合った後の二度目の別れはなお辛かった。
その腕の温もり、苦しい程にかき抱かれた幸福感を忘れないで居ようと我が身を抱きしめながら、イリゼはまた自分の存在を、この街の人々の記憶の中から消し去った。
しかし失って初めて、何も手につかぬ、何を見ても心を動かされぬ自分自身と、想像を絶する喪失感とに気がついた。
人より長い人生があるせいか、そんなことを実感するまでも時間がかかってしまったらしい。
(でも、辛くても、俺はあいつとの記憶、残らず全て覚えておきたい……)
再会後初めてキスを交わした時、唇にまでどくどくと胸の鼓動が乗り移った様に頭の芯まで熱く痺れた。
ダイは緊張から身を強張らせたイリゼにすぐに気がついて、少年の頃とは違い余裕ありげな表情で微笑むと熱く息を吐き、涙を滲ませた眦に慰めるような口づけをくれた。
「こわがらないで。俺を全て受け入れてくれ。イリゼ、愛してる』
あの少年時代のきかん気の強そうな幼い頃の雰囲気は微塵も感じられない、穏やかで滑らかな低い声でしかし情熱的に愛を囁かれ、あまりの心地よさにイリゼはうっとりと彼に身を委ねた。
優しく強く抱きしめてくれるダイの自分とはまるで違う逞しく硬く屈強な腕に彼の確かな成長を心から喜びながら、イリゼを凍った時の狭間に置き去りにしていく彼にどこか刹那的な寂しさも感じた。
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