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7誘惑

大きな木をそのまま使った長椅子は背もたれまでレリーフが施された立派なものだ。虫食いが起らないような処理が施されているらしくて何年使っても飴色の光沢が美しい。そこに手製のふかふかとしたクッションが並べてあるから座り心地は悪くない。 「そちらで待っていてください」  ダイは頷くとイリゼから自分の上着を受け取って長椅子に置き隣に腰を掛けた。  イリゼは魔道具の支度部屋に続く台所の方に引っ込んで、壁に背を押し付けると、どきどきと鼓動がうるさい胸に拳を押し付けて何とか気持ちを落ち着けようとした。 (どうしよう。ダイを家にいれちゃった。何を話すっていうんだよ。俺のこと覚えていないあいつと……。何を話すんだ。今日は昨日よりは暖かな夜ですね、とでも? 今度は友達にでもなりたいのか? まさかまた恋人になりたい? 無理だろだってあいつ、もう、『心に決めた人』がいる……)  そんな風に考えてから慌てすぎて眠る前にあれほど気になっていた、ダイの指輪の位置を確かめるのを忘れていたことを思い出し、自分のまぬけさに嫌気がさした。 (あいつは俺を覚えていない。じゃあまた『はじめから』始めればいいのか?)  浅ましい考えがふと頭に浮かび、しかし慌ててそれを否定する。そのままうろうろと落ち着きなく支度部屋まで明かりをつけて逃げ込んで、作業台の上に手をつきイリゼは大きく深呼吸をした。 (どうしたらいい? こんな時どうしたらいいのか分からない。でも、ダイを返したくない)  長い前髪を耳にかけながら少しだけ顔を上げると、酒場に行く前に作ったばかりの色とりどりに並ぶ小瓶の奥に、常日頃は風景と化している濃い薔薇色の瓶が目に付いた。  これはイリゼが作ったものではない。昔からこの店にある、母かそれともなくば祖母が作った強力な魔法薬。金色の冠を頂く装飾の美しい瓶に詰め込まれた、中に陽炎のように揺れる強い魔力の禍々しいまでの妖艶な紅色に眩惑され、イリゼは思わずほっそりとした手で奥からそれを摘まみ上げ引き寄せた。 「……媚薬」 『奪え、あれは元々、お前のものだろう?』  イリゼの中、もう一人の悪い子の自分が耳元で囁く。  イリゼ自身舐めたことすらないから味は分からないが、きっと赤い葡萄酒にでも混ぜてしまえば、なんの不審にも思われないだろう。 (何を馬鹿な……。ダイに媚薬を盛るなんて! 自分から手放したくせに、イリゼ、お前はなんて……あさましいんだ)  一瞬でも浮かんでしまった考えに、自分はここまで無様に墜ちたかとイリゼは力なく笑い、大きな美しい瞳を見開いたまま、大粒の涙をぼろぼろと流した。それを乱暴に掌で拭うと、ひやりと指輪が冷たい。  自分のようなものにこの指輪は相応しくないと、イリゼはそれを今度こそ抜き去ろうとしたが、やはりどうしても、出来ない。 (諦めることなんてできない……。俺たちはまだ生きていて、傍にいられるのに。先のことなんて考えずに、今を大切にすればよかったんだ)  人々に彩りを分け与えながら自分自身は灰色の世界に閉じこもっていたイリゼに、惜しみない愛の言葉を注いで、七色では足りぬ鮮やかな世界を見せてくれた人。 (どうしてダイを手放そうなんて思ってしまったんだろう。どうしてダイの記憶を消してしまおうなんて思ってしまったんだろう。俺にとって初めての、たった一つの恋だったのに。大切にしなきゃいけなかったのに)  さめざめと泣いているうちに、遠くからダイの呼び声が耳に入った。 「イリゼさん、具合が悪いのか?」 「だ、大丈夫です」  二度と間近で聞くことはないと思っていた、愛しい男の気づかわし気な声を聴いた時、イリゼの中で何かの箍が外れてしまった。  迷いなく薔薇色の瓶を片手に掴んだまま台所まで戻ると、月明かりに照らされた薄暗い食卓の上に高価な玻璃製の盃を二つ置いた。続いていつかダイと共に味わおうととっておいた小ぶりの葡萄酒の瓶を妖美な輝きを零す瓶の周りに集めておく。  葡萄酒を迷いなく盃に注いだ後、その勢いで惚れ薬とも受け取れる媚薬の黄金の薔薇の花の装飾を施された蓋を引き抜いた。 「むせそうに、甘い……。くらくらする」  それはまさに沢山の薔薇をぎゅっと閉じ込めたような濃厚な香りと、どこかまだ見ぬ南の香辛料を思わせる蠱惑的なそれが混じる。動物が求愛に使うという分泌物のような腹にずんとくる香りをも感じ、吸い込んだだけでも眩暈がしてきて、イリゼは震える手でダイに差し出す方の盃に妖しく煌く薬を注いでいった。  加減が分からず、葡萄酒も仄かに魔力の光を宿してしまったので、また支度部屋に取って返すと、イリゼは自分の方にはあの初恋色の相手から輝いて見えるようになる子供じみた甘く愛らしい魔法薬を注いで淡い光を宿らせた。 「はは……。みっともないな、泣けてくる」  忘却の魔法を発動させてから僅か二週間。  今まで生きてきた中で初めてこれほど誰かを恋しいと感じたことはなかった。恋人同士だったころよりもずっとずっとダイに向けて狂おしい気持ちに支配され続け、イリゼはどこかで自分自身に愛の呪縛の魔法でもかけてしまい、もうダイのことしか見えなくなってしまったのではないかと我を疑うほどだった。 (誰かのものを奪ってでも欲しいなんて、俺の中にこんな怖いモノがあったなんて知らなかった)  人のために尽くす、人の喜ぶ顔が見たい。ふわふわといつでも優しく周りから愛されるイリゼはそこにはいなかった。  幼さが抜け落ちた美貌に淫靡な影を落とし、壮絶な微笑みを浮かべる一人の男がそこにはいた。  愛する男を再び誘惑するために、イリゼは背中から零れた光の粒子をわが身に振りかける。身体が癒され、夜気にぺたりとしていた髪も外の塵芥がついた肌も輝きを取り戻す。初恋の小瓶の残りも飲み干して、ダイが鮮やかな若草色が美しいと見つめてくれた瞳を炯炯と輝かせた。  杯を手にダイの元に戻ると、色とりどりの硝子をはめ込んだ小さな卓上に中身を間違えないように杯を置いて自らも彼の隣に大胆にも座る。  しかし久しぶりにダイを目の当たりにすると、座っていても見上げてしまう彼の身体の頑強そうな厚み、その大きな存在感に圧倒されているイリゼがいた。頭の中であれやらこれやらして彼を誘惑し、どうにかして自分の元に戻したいなどという邪な考えを実際にふるう勇気が出ない。  イリゼは尻をよじって少しだけダイから身を離すと、彼は傍らに座ったイリゼを今は深い藍色の見える瞳で見おろしてきた。 「酔いは醒めたのか?」 「大分」 「……いつもあんな風な飲み方をしているのか?」 「え?」  あまりに普通に話しかけられ、イリゼは出鼻をくじかれたような気持になってまじまじとダイの顔を見上げた。 「酔って、男に家まで送らせるような飲み方だ」 「ち、違います。外でも家でだって、お酒を飲んだのは久しぶりです」  その割に盃になみなみと注がれた葡萄酒を用意したことを目線でダイが指摘してくるから、ちょっと気まずくなってイリゼは唇を小さくきゅっとつぼめた。 「本当か? うちの若い奴らは皆、美しい君に興味深々のようだった。特にあの、何といったか。あいつとは親しいのか?」  多分店に来た青年のことをさしているのだろう。なんでこんなことを聞いてくるのか真意を図れず、イリゼは大きな目を見張ると首をふるふると振った。 「新しく店を開店させてからよく来てくださる方の弟さんで、たまたま今日店に来ていたので魔法薬を紹介したんです。あの、あ……」 (いいこと思いついた! 今ならダイにあの薬を渡してあげられる!)  結局小悪魔的な誘惑をするのが板についていないイリゼは、急に我に返って、いつも通りの柔らかな顔つきに戻ってご機嫌ににっこりと微笑んだ。 「薄荷色の小瓶でこの時期の鼻風邪に良く効くんです。あの、もしよかったら試しに貰ってやってくれませんか。お礼に差し上げます」  笑顔で立ち上がったイリゼの手首をはしっとダイのそれが掴み、怖いぐらいに真剣な眼差しと驚いて身動きを止めたイリゼの視線が絡み合う。 「……薬を、とりに」  行かせてください。そう言う前にダイの左手が高貴な人の手を取るような仕草で手の甲を自分の方に向けさせる。 「……この指輪は」 (しまった……)  手を引っ込めようとしたがまたもや握りこまれて外すことができない。しかもダイの右の薬指にも指輪がはまっているのが見えて、瞬間頬まで赤みが差しかっとなったイリゼは思わず自分で思うよりきつい声を上げてしまった。 「これは、恋人からもらったものです」 「相手がいるのに、こんなふうに誘惑して、男を家まで連れ込んだのか?」  てっきり家宝の指輪であることを指摘されると思ったのだが、暗がりでは指輪の色や形まではよく見えなかったのだろう。もっと的外れなことを言われてイリゼは売り言葉に買い言葉、赤い唇をゆがめて言い放つ。 「貴方こそ! 心に決めた人がいるのでしょう? 指輪が……」  そこまで言ってイリゼは自分の愚かさに泣けてきた。はらはらと涙を零すイリゼの美しい横顔に、ダイは顔には出さずにたじろぎ、泣きぬれる彼を引き寄せ傍らに座らせる。さめざめと泣き続けるイリゼの髪を、ダイの大きいけれど器用そうな掌が、昔と同じような優しい手つきで何度も何度も撫ぜてくれた。 「お、俺は、いつもはこんなっ、しない……」 「わかった。変なことを言って悪かった」 「もう少し、傍に、いたかっ、グスッ……。居たかった、だけ」 「傍に? 俺の傍にか?」  こくこくこくと頷く。もうどう変に思われてもいいと悟る。 「さびしい……から」  自分で自分の気持ちの制御がつかずに泣きじゃくるイリゼに、ダイはなにも言わず腕の中に抱きしめ、ひとしきり泣くだけ泣かせてやっていた。  離れる前と変わっていないダイの腕の中は暖かく、ずっとこうしていたいと思うほどの安寧をイリゼにもたらす。 (ダイ……。やっぱり優しいな。きっとわけわからなくなってる酔っ払いを放っておけないんだ)  ダイに優しく背中を撫ぜてもらっているうちに、段々と気持ちが落ち着いてきた。  ようやく泣き止んだイリゼは涙と共に色々な複雑な感情が洗い流され、朝目覚めた後のようにどことなくすっきりとした気持ちになった。薄っすら赤くなった鼻を色気なく、ずびびっと擦って涙の残る瞳でダイの腕からもぞもぞと顔を覗かせると、子ウサギのように愛くるしく柔らかく微笑んだ。 「ごめんなさい。ちょっと、俺、今普通じゃないんだ。大事なものを失くしてて、気が変になってた。……ねえ、副団長さん。たまに、こうして俺と話しに来てくれる? 俺。友達少ないから。寂しいんだ」 「とも、だち?」 (……ダイと完全に縁が切れるぐらいなら、いっそ友達でもいい。傍にいられるなら)  心が落ち着いたらそんな風にも思えた。イリゼは夏草に載った露のきらめきの様な儚げな笑顔を見せる。ダイは青い瞳の中にゆらりと感情の灯を揺らし、手探りする様に杯を引き寄せて口元に運ぶ。 「ああ、それ、飲むな!」  ぱしっとその手を今度はイリゼが上から掴んだが、慌てふためく彼の様子にダイが警戒を強めるびりびりとした空気を感じる。こう見えてもこの領地を守る兵団の要職についている男だ。イリゼはそこに込められた別の意味合いに気がついて顔色を変えた。 「ち、違う。毒ではないから」 「じゃあ何がはいっているんだ?」 「ひうっ」  逆の手で顎を掴み上げられ、ダイの顔つきがまた怖ろし気に変わっていく。 「……」 「言いたくないのか? じゃあ試すか」  ダイはイリゼの手がかかったままの盃に口をつけると、そのまま顎を固定していたイリゼの唇に自分のそれを押し付ける。 「えっ……。あ、ンンっ!」  そのまま口移しにあの媚薬の入った葡萄酒が、あまりのことに口を閉じられずにいたイリゼの喉元に熱い液体がなんの抵抗もなく落ちていく。足元で盃が割れ粉々に砕ける音がした。  そのまま長椅子の上に押し倒され、イリゼは激しく唇を貪られる。口内を余すところなく厚みのある舌でまさぐられた官能的な口づけは、イリゼに息つく暇さえ与えない嗜虐的なものだった。  こんな狂おしい接吻は、今だかつて受けたことがなく、恋人の頃でもこれほどの獰猛さを見せたことはないダイの意外な一面を垣間見せられイリゼは震えあがった。わざとボタンをしどけなく一二個はずしていた洗いざらしのシャツの中を硬い手にまさぐられて、身体をびくつかせて喉の奥で唸った。  次第に身体中が熱を帯びたように熱くなり、硬い指の腹が胸の飾りに至るとその刺激だけでイリゼは身体をびくつかせ、下履きの中で一度達してしまった。 「ゲホゲホっ」  むせかえって身体を起こそうとしたが、ダイはそれを許さない。肩を掴んでさらに押し倒すと、シャツの前を全て開いて荒い呼吸を繰り返して蠢かせる。柔く白い腹とすでにぴんっと立ち上がるふっくらとした赤い乳首を見おろして酷薄な笑みを浮かべた。そのまま下履きに両手をかけて、いとも簡単にイリゼを剥くと、残滓の糸を引かせながらもまたゆるゆると立ち上がるイリゼ自身を見て唇の端を吊り上げた。そのまま片手で少しだけ痛みが出るような硬さで擦り上げただけでイリゼはまた悲鳴を上げて欲望をダイの掌の中に放った。 「もう達したのか? 早いな?」 「い、いうな」  ぴんっと赤く色づく切っ先を指ではじかれ、イリゼはまた腰を跳ね上げて達する。媚薬の効果は絶大で、あまりの快感に気をやりそうになるが、ダイへの恋慕の情すらさらに掻き立てられて、触って欲しくてたまらない。  苦しいのにダイの腕に真っ赤な顔を切なげに擦り寄らせるイリゼの顔つきは淫らなのに美しく、ダイはその目元に口づけを落としてからせせら嗤う。 「なるほど、こんな風に乱れる薬を俺に飲ませようとしてたってわけか? じゃあ何をされても文句はないよな?」 「やあっ」  細い身体の両脇を抱えるようにしながら、親指の腹で両方の胸飾りの先を捏ね、弾き、熱い吐息を振りかけながら舌先でそれを舐め上げると、白い喉を反らして面白いようにイリゼは連続で達っする。身を震わせ全身を桃色に染め上げるのが、零れた灯りの下に照らされた今まで丹念にダイに愛され続けた身体はあまりにも艶っぽい。 「若い男を連れ込んで、次々にお前に夢中にさせようとしたのか? とんでもないやつだな」  ダイはそう囁くと、まるで言外の嫉妬でも含んでいるかのようにイリゼの胸の先に歯を当て柔く挟んでから下でぐりっと舐めまわした。 「いたいぃ」 「よさそうなくせに、この、淫乱。ほら、またべちゃべちゃだ」  駄々をこねるように髪を振り乱すイリゼの額に押し付ける唇は優しいのに、責め立てる言葉はいやらしく意地悪だ。 「やあ、こわいっ」 「俺を怖くしてるのはお前自身だ。そうだろ? 」 「こわいの、いや。やさしくして」 「優しくして欲しいのか?」 「やさしい。ダイが、いい」  乱れ切り、蜘蛛の脚のように長いそれをダイの腰に巻きつかせ、喘ぎながら身体を貪られるイリゼは、声だけは無垢な子供のように舌ったらずで愛らしい。  ダイは自らもシャツを脱ぎ去り張りつめた前を隠しもせずにベルトを緩めると、吐息を熱く乱しながら窓辺から内まで射してくる傾いてきた月光に照らされたイリゼの白い可憐な美貌を見おろしてからぎゅっと苦し気に眉をしかめた。 「じゃあいうんだ」 「……?」 「俺だけだって言え。俺を捨てようとして悪かったって、愛しているのはダイだけだって、お前のこの、唇から」 「……え」  再び受けた口づけは、力を抜いた柔らかな唇で下唇を食まれ、敏感な耳たぶを愛撫しながらの優しく甘いそれだった。薄く滑らかな皮膚をもつ首筋に痕がつくほど吸い上げ噛みつかれ、彼のものだという証をまざまざと残される。  この口付けの仕方には覚えがあって、イリゼは火照る身体を持て余してダイの首に手を巻きつけながらもうっとりと妖艶に微笑む。 「ダイ……おれのダイなの?」 「お前以外、誰かのものになったことなど一度たりともない」  頭の中ではどうして記憶を失っているはずのダイが以前のダイのような言動をするのか理解ができなかったが、長い指をすでに蕩け始めた秘所に差し入れられたとき、あまりの快感に意識が飛びかけもうどうでもよくなってしまった。

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