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第1話
「来ないでって!」
俺を押し退けて、さっと距離を取られた。成人して数年は経っているにも関わらず、男は子どもみたいに不安そうな目で俺を睨んでいる。
俺が一歩進めば、それ以上に後ろへ後ろへ後ずさりする。そこまで広くない部屋だ。すぐに壁際まで来て、それ以上後ろに動けなくなって俯いている。側から見れば、俺がこの男を追い詰めている。けれど、実際追い詰められているのは俺の方だ。
この作家の担当になって1ヶ月、まともに話をできたことがない。目も合わせない。俺が何も言ってもいつも怠そうに、そうですか、と小さな声で呟くだけで、あとは好き勝手なものを描いている。そろそろやばいと、本腰を入れて話を始めた途端この怯えた態度。
運動不足と不規則な生活とその他諸々、人と向き合っているだけで大きなストレスを感じてしまう目の前の男は、あまりにも小さい、情けない姿で突っ立ったまま何も言わない。
「何か言いたいことあるんでしょ。言ってくださいよ、俺に」
沈黙が苦手なこの男は、口から出まかせで話を続ける癖があるらしい。それなのに、俺にはいつまでたっても話しかけてこない。
どうしよう、と焦った表情を作るだけで口を開くことさえしない。すずめの声が遠くから聞こえた。
「先生、」
呼びかけただけで、まるで殴られたように怯えている。大丈夫ですよ、と震えている手を掴もうとしたら、力強く俺を拒絶して部屋を飛び出していった。
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誰とでも仲良くなれる。それだけは自信があった。自惚れじゃなく、実績があった。
こんなにも拒絶されるなんて、数ヶ月前の自分に言ったら絶対信じてもらえない。ため息ばかり漏れて、体が椅子に沈んでいく。
「田中、あいつどう?」
急に後ろから声をかけられて振り向いたら、佐山さんがいた。
「俺はもうあの人とは無理かもしれません。完全に拒絶されましたもん」
怒りを隠さずに言えば、佐山さんは眉を下げて困ったように笑った。隣に座って、携帯の画面を見せてくる。
「さっきあいつから来たメール」
先生から佐山さんの個人携帯にメールが来ていた。大量のメールだった。俺が先生の部屋に行ってから、帰るまでの時間にこんなにメールを打っていたのだ。俺にはなんにも話をしなかったのに。あの野郎。心の中だけで悪態をつく。
怖いですあの人嫌です俺あの人苦手です佐山さん俺の担当に戻ってくださいじゃないと俺は死にます
句読点なしの読みづらい長文がずらずら続いていた。かと思えば、助けて、とだけの短いメールもあって俺は思わず声が出る。
「なんすかこれ、怖」
ドン引きする俺をよそに、佐山さんは笑う。
「まぁ、がんばれよ」
他人事だからそんな呑気でいられるんだと思う。佐山さんは悪くない。それは分かっている。自分の中のもやもやしたのと今までのいらいらを、今言ってしまいたい気持ちが抑えられなかった。
「今から何を頑張るんですか。俺は頑張ってましたよ。あの人、話すのは苦手だからって俺と話すの拒否してくるくせに、仲良くなれないのは俺のせいにしてるんでしょ。それでこうやって愚痴ってるんですよね。性格悪すぎでしょ、俺だって嫌いにもなりますよ」
あいつ、と俺が言うのを遮って、佐山さんは「ごめん」と謝った。
「ごめんね、あの人、依存するか拒絶するかのどっちかしか知らないから」
あまりにあっさりとそう言うから、俺は呆然としてしまった。何か解決策をくれるか、一緒に考えてくれるか、そんなことを期待していた。そんなことはない。ほんの少しあった希望がどこかに行った。じゃあ俺は、やっぱり拒絶された側なんだ。
佐山さんが、申し訳なさそうな顔をしながら席を立つ。ごめんね、なんて。
自分の社用携帯を開く。先生に送っておいた「先ほどはすみませんでした。」から始まるメールに、返信はない。自分の溜まりに溜まった思いが、誰にもどこにも受け止められずに、届いて欲しい人には何ひとつ届かずに、空中に漂ったままだ。
夕方、メールを確認したらまだ先生からの返事はなかった。そっちがそのつもりなら俺だって、という気持ちが湧く。正直行きたくない。もうあの人に関わりたくない。俺だって担当する作家変えてもらいたい。でも今はどうすることもできない。それなら、行かなければいけない。俺はあいつと違って大人だ。
憂鬱な気分のまま、見慣れた家の玄関に到着してしまった。多分、こんな状態じゃ余計にあいつ俺のこと避けるよな。
玄関の鍵が開いていることは知っている。けど、なかなか体が動かない。行かなればいけない。俺は大人だし、これは仕事だ。分かっているけど、俺はもう拒絶されたくない。
それにきっと作業は終わっていない。まだ時間はある。明日でいいか。今日はもう帰ろうか。ドアノブに手をかけたまま、しばらく突っ立っていたら、急にドアが開いた。中から人が出てくる。
「鍵は開いてますよ」
開けてくれたのは、いつものアシスタントだった。お互い死にそうな顔をしたまま笑顔を作る。
そうだ、上手くやっていきたいなら、こういうことが必要だろ。
「今日ちょっと暑いっすね」「外出てないと、あんまり分かんないすね」なんて普通の会話を、人と上手くやっていきたいなら、しないといけないだろ。
沈んだ気持ちを気合いで引き上げて、あの人のいる部屋にわざと足音を立てて行く。
「先生、どうですか」
笑顔は引きつったかもしれない。そうだったとしても、どうでもよかった。男はいつも通り俺に目をくれないで、ただ小さな声で大丈夫です、と言うだけ。
俺が近づけば逃げるから、もう近づかない。ドアに近いところに座って話をする。先生からの返事は、そうですかと大丈夫です、の2つしかない。
数分前に奮い立たたせた気持ちも沈んでいく。今朝の距離の詰め方は、多少おかしかったかもしれない。確かに怖かったかもしれないけど、ずっと拒絶されてる俺だってかわいそうじゃないのか。
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会社を出て個人携帯を確認する。着信が何件かあって全部同じ人間からだった。仕事終わりの疲れた脳はバグっていて、怖いよりも先にこの状況を楽しんでいる。
もしもし、と声が繋がった瞬間に、男がべらべらと話し始めた。少し訛りのある話し方が、昔の友だちを思い出してきて、口元が緩む。
「怖いです俺、あの人、俺はもう無理です」
あの人、はきっと田中のことだろうと予想はつく。あの人なんてよそよそしく言うのは大抵、こいつが苦手な人だ。声とか態度に何か威圧感があったり、距離を詰めすぎる人だったり。田中は優しいから、きっと近づきすぎたんだろう。
タクシーに乗って、社用の携帯で地図を見せた。ここまで、と言えば運転手は頷いて、車を走らせる。その間ずっと話を続ける。同じ話を延々と、止まることなく。電話越しでさえ、沈黙を嫌がっている。
「いま、お前の家の前きてるよ」
言えば、ドタドタと電話口からこっちに向かう音がする。ドアが静かに開いた。なんで来たんですかなんて言いながら、めんどくさそうなフリをしながら、スリッパを用意してくれる。
部屋に入ってすぐ、彼はいつもの作業イスに座るから、俺はドアの近くの本棚にもたれて座る。俺を見下ろしている。
「見たよメール」
「じゃあ感想ください」
感想?あれは作品だったの?思わず笑ってしまって、怒られる。
俺は本気です、担当戻ってくれなきゃもう描きません。なんて本当に本気の顔をして言うからまた笑える。
「佐山さんって、俺のこと好きなんじゃないんですか」
痺れを切らした様子で、むすっとした顔のまま俺の方に近づいてくる。彼が俺の隣に座ったら、今度は俺が見下ろす形になる。
「なに?」
「俺、あの人にこんな距離まで来られて、今日危なかったんですよ、襲われてたかもしれないんですよ」
過剰な妄想癖だなあとは思うけど、口には出さない。否定されると彼はすねるから、一度肯定してからじゃないとこちらの意見を言ってはいけない。俺は知っている。
うんうん頷いてると、顔に気持ちが出ていたのかさらに眉を寄せて俺を見る。
「心配してくれないんですか、担当戻ってこないと、俺いつか死んでるかもしれないです」
彼は本当にそう思っている。かもしれないし、また口から出任せなのかもしれない。否定も肯定もしない。具体的な返事をするかわりに、彼のよれよれのTシャツを触る。ぴく、と体が跳ねた。
「じゃあ、死ぬ前にしとこう」
臆病で単純な彼は返事をはぐらかされたなんて気づかない。真っ赤な耳を隠すように、俺に体を寄せる。
「かわいそうじゃないですか、俺」
思わず手が止まる。隣を見ると、田中もこっちを見ていた。なにが、は言わなくても分かる。
担当の変更を受け入れてもらえなかったのに、田中はよく耐えている。
「もうやめようかな」
ぼそっと呟く声が、泣きそうで、確かに、かわいそうだと思った。
何もうまくいかない。拒絶されたくないですよもう。仲良くやっていきたいのに。
田中の口から続く弱音を、俺は確かにかわいそうだと思った。
依存か拒絶かのどっちかしかない人間から、俺は運良く依存を引いた。
それは俺が、たまたまあいつと同じ地方出身だったのと、前の担当が威圧的でうまくいかなかったという偶然があったからだ。
田中が、がんばってることは知ってる。助けてあげたいと思う。俺はどうすればいいか、本当は知っている。
俺は依存されている。依存される人であり続けるのは難しくない。ただ、要求に応えていればいい。
俺が応えなければいい。俺が関わるのをやめればいい。それから、田中にいくつかあいつの扱い方を教えればいい。そうしたらあいつはすぐにでも新しい依存先として田中を選ぶだろう。田中とあいつは、きっと2人で上手くいく。
田中が死にそうな目で俺を見る。
「ごめんね」
誤魔化すように、自販機で買ってきたコーヒーを田中の机に置く。それ以上は何も言わない。
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なにか、怒ってるんですか。
不安そうな声が聞こえて、下を見る。涙の溜まった目が俺を見つめ返してくる。
「いや、ごめん。」
なんでもないよ、と答えれば安心したように目を閉じて俺に縋りついてくる。
佐山さん、すき、すきです。昔飼っていた犬みたいだ。俺が遊んであげたら、いつも喜んでいた。犬にはこんなことはしないけど。
手を伸ばして、太ももに触れる。俺の意図に気付いて、唇を噛む。耐えるようなくぐもった声が聞こえてくる。そのまま、軽く動かせば、はあはあ乱れた呼吸に混じって、女みたいな声を出す。
「気持ちいい?」
ぎゅっと閉じた瞼から涙が溢れて、シーツを濡らしていく。うんうん頷いて、微かに開いた目で俺を見る。
こんな表情を、誰にも見せないでいてほしいと思う。誰にも、こんな距離には近づかせないで。キスをしながらそんなことを思う。こいつとこんなことをするのは、言うなら、子離れできない親のような気持ちだ。見守っていたいんだ。それだけなんだ。頭の中でもう1人の自分が笑っている。依存しているのはお前の方なんだよ。
佐山さん、佐山さんと、俺を呼ぶ気持ちよさそうな喘ぎ声が、俺の脳を空っぽにしていく。
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