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第10話 命綱は掴めない

 目が覚めると、そこは知らない部屋だった。糊のきいたシーツに上掛け、視界にはもうひとつのベッド。そちらは使用した跡があるものの、綺麗にめくれていて、この部屋にもう一人いたことを示唆していた。 「……っ」  勢いよく遥は起き上がる。この自分が人前で寝るなんて。しかも家に帰らず外泊したとなると、谷本は何て言うか……考えるだけで胃が竦んだ。 「目が覚めたか。気分はどうだ?」  ハッとして声がした方を見ると、眼鏡を掛けながらやってくる永井がいる。ホテルの備品であろうナイトウェアを着ていて、肩に掛けたタオルで濡れた前髪を拭いていた。顔を洗っていたのだろう。 「あ、の……すみませんっ。僕、すぐ家に戻らないと……」 「それには及ばない。ここから直接現場に行くと、きみのマネージャーに伝えた」  木村さんも了承済みだ、と冷静な永井。けれど遥の動揺はさらに酷くなった。 「まさか場所も谷本に伝えてますか? っていうか、僕酔っ払って何か変なこと言ってませんでしたかっ?」 「場所はもちろん伝えてある。心配していたようだし、何度も着信があったので、悪いと思いつつ……」 「電話に出たんですか!?」  ますますまずい、と遥は拳を握る。永井とホテルに泊まったとなれば、どう過ごしたか聞いてくるだろう。こうしちゃいられない。 「……僕、今すぐ帰ります。支払いは後で社長にでも請求してください」 「おい、私はきみが帰りたくない、私といたいと言うから……」  遥はベッドから降りると、自分は昨日の服のままだった。手を出されなかったことに安堵と苛立ちを覚え、遥は永井を睨む。 「酔っていたのでそれは嘘です。もしかして、その言葉も谷本に伝えましたか? 僕がそう言うので仕方がないからここに泊まったってことですよね? 谷本は上機嫌で『そういうことなら』とか言いませんでした?」 「……きみの言う通りだが、何をそんなに慌てている? 現場の入り時間までまだあるだろう?」  遥は荷物を引っ掴んで足早にドアまで行くと、永井も付いてきた。それでも冷静な永井にムカついて、遥は無視して部屋を出る。  大失敗だ。谷本は遥自身から連絡していない時点で怒っている。さらに成果もない。そしてそんな状態でホテルから直行なんてどういうつもりだ、と言うだろう。  長年一緒にいるだけあって、谷本の言動は安易に予想できた。だから、場所が分かればすぐに問い詰めに来るということも。 (逃げなきゃ……)  どこへ逃げるのかは分からない。けれど、一刻も早くここから離れないと。  長い廊下を小走りで通り、エレベーターのボタンを押す。待っている間も落ち着かなくて、扉が開いたら谷本がいるなんてことがないように、と思いながら乗った。マスクと伊達眼鏡を掛け、フロントがある一階に降りる。  ロビーにはひとはそんなにおらず、谷本らしきひともいなかった。ホッとして一歩踏み出した瞬間──。 「遥」  ゾワッと全身の毛が逆立つ。思わず立ち止まってしまい、後ろからカツカツとヒールの音が近付いてくるのが分かり、動けなくなった。 「私の連絡を無視して、何をしていたの?」  谷本の口調は優しい。けれど遥はこれ以上ない圧を感じていた。指一本さえ動かせずにいると、谷本が正面に来る。 「永井さんに、聞いたんだろ……?」  掠れる声でそう答えた。知っているはずなのに、遥に言わせようとするのは、遥に嘘をつかせないためだ。 「私は遥の口から聞きたいの」  穏やかな口調だからこそ、谷本が遥を追い詰めようとしているのは明らかだ。長年の支配で、彼女に逆らうなんて頭はとうの昔になくなっている。 「ここで言うのは……」  人前で話すことじゃない、ということを匂わせると、谷本は笑みを深くした。自分に都合のいい解釈をしたらしい彼女は、それなら家に帰ってじっくり話を聞きましょ、と遥の背中を押す。  最悪だ。現場に行くまでの時間が空いている。谷本からの『おしおき』が確定じゃないか。そう思っていると、遥の腕に谷本が絡みついてきた。 「あなたは本当に、綺麗な顔に育ったわねぇ」  腕に当たる柔らかいものが、嫌悪感を増幅させた。  仲良く腕を組んで歩く男女が、これから性的に嫌がらせをする、される関係だなんて誰が思うだろう。声を上げて助けを呼びたいけれど、自分が小井出遥だと知られるのは嫌だし、その後の谷本の報復が怖い。  最悪、絶望だ、と遥は歩き出した。嫌なはずなのに足はいつも通り谷本に従順で、どんなに念じても止まらない。  まだ暴力的支配の方がよかったなとさえ思う。遥さえ黙っていれば、二人の関係がバレない方法を使う谷本に、彼女の遥への支配欲を感じるのだ。  遥、あなたはとってもいい子。そう言って訳が分からないまま身体をまさぐられた時のことを思い出して、そんな記憶は要らない、と考えるのを止めた。  もういい。先日助けを求めるのは諦めたんだから。 「谷本さん」  ロビーを出る直前、呼び止められて振り返る。そこにはスーツを着た、永井がいた。 「おはようございます、永井さん。遥がお世話になりました」  谷本はニコリと微笑む。遥は何も言えないまま、床を見つめるだけだ。そんな遥に谷本は、絡みついていた腕を引っ張る。 「ほら、あなたもお礼を言いなさい」 「ありがとうございました」  するりと口から出てきたのは、思ってもいない言葉だ。どうして彼はスーツを着ているのだろう? そんな場違いなことを遥は思う。 「いえ。……谷本さん、小井出さんは私が現場に送るとお話ししたはずですが?」 「そうですね。でも遥は跳ねっ返りのわがままな子なので、ご迷惑かけるかと……」  案の定、谷本はこのまま遥を連れて帰るつもりのようだ。遥は耐えられなくなって口を開いた。 「永井さん、ご迷惑おかけしてすみません。僕は一度帰りますので」  これ以上谷本の機嫌を損ねたら、もっとがんじがらめにされる。そう思っていると、永井はため息をついたようだった。 「帰るって……仕事の契約の話も途中だったじゃないか」  え? と遥は顔を上げた。しかし永井は、相変わらず無表情で、何を考えているのか分からない。 「という訳で谷本さん、ご本人と納得のいく契約内容にしたいので、話し合いをさせてください」 「それなら私も……」 「契約方針がが固まったら谷本さんにもお伝えします。とりあえず二人で話し合いをさせてください」  やはり同席したいと言い出す谷本に、表情を変えずに頑なな態度をとる永井。遥には、今の状況が理解できなかった。  遥が帰ると言っているのに、どうしてこのひとは引き留めて二人で話をしたいなどと言うのだろう? そんなことをしたら、谷本の機嫌がますます悪くなるばかりなのに。そしたら、自分はますます酷い目に遭わされるのに。 「さあ小井出さん、部屋に戻りましょう」  遥は差し出された手を取ることができなかった。すると永井は半ば強引に、遥の手を取り引っ張る。  これはもしかして、助かった?  夢なのではないか、と遥は思った。

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