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3「魔物」と「人間」 14
森の中で少し休んでから、二人連れ立ち屋敷に戻った。日はとっぷりと暮れ、夜が訪れている。
イルフィは自分の脚で歩くつもりで、その程度には回復している自信もあったのだが、ハヴェルは抱えていくのだと頑として譲らなかった。触手の魔物をけしかけてきた男が何を今更、と思ったものの、それとこれとでは話が違うことくらいさすがにわかる。
肩と膝裏を支えられ抱き上げられた姿勢では、イルフィは自然ハヴェルの首に両手を回さざるを得ない。抱きつくような格好で運ばれるのには若干の羞恥があったが、ハヴェルの真剣な顔を見ていると、さすがに非難するわけにはいかなかった。
髪や肌にこびりついていた血を拭き清められたイルフィは、シーツを新しくしたベッドにまた裸のまま横たえられた。
武装を解いたハヴェルがベッドに乗り上げてきて、何故かイルフィを組み敷く姿勢を取る。
理由を尋ねたら、「何をしでかすかわからないから」動きを封じたいらしい。
ハヴェルが戻ってきた以上あんな無茶をするつもりはないが、当の彼は今だ表情を強ばらせたままだ。自分が傷つくことを本気で恐怖しているのだと察して、イルフィは口答えしないでおいた。
唇をしっとりと重ねられると、素直に口を開いて応じる。
「……ん」
舌先を軽く絡めるだけで、深くまでは求められない。
ゆっくりと顔を離したハヴェルの瞳は、枕元のランプに照らされて黒い湖面のようだった。自分を操ろうとした時の赤い光は、今は見えない。彼はまだ人間のままだと、イルフィは安堵した。
「結界を誰かが踏み越えたら、わかるようにしてあったんだ。魔力を封じておけばイルフィは安全のために屋敷から出ないだろうと踏んでたから、まさかと思ったよ」
それで慌てて引き返してきたのだと、彼が駆けつけてくれた種明かしをされる。
「何で外に出てきたの? そんなに逃げたかったの?」
ふて腐れてそう言っているのならまだマシだったが、どうやら本気らしい。
彼の絶望の深さを思い知って心が締めつけられる。本当に自分は、彼に何一つ伝えていなかったのだ。
「……なに」
運ばれている時のように彼の首に両腕を回す。
後頭部の丸みに手を添えて、少し痛んだ黒髪を柔らかく撫でた。
「おまえには、普通の人間として幸せに暮らしていてほしかったんだ。復讐や戦いなど危ないことに関わり合いにならずに。……そういう辛さは全部私が引き取ったつもりだった」
何度も心の中で繰り返した願いを、そのまま彼に伝えた。
「イルフィに捨てられて、僕が幸せになれるはずないでしょ?」
「……そうだな。私がそうであってほしいと思っていただけだ。魔物になった私は、おまえとは最早同じ時間を歩んでいくことが出来ない。魔力という異能も、この赤い瞳も、人間とは決定的に異なった私を、おまえが将来恐れるだろうと思ったんだ」
「そんなことない!」
反射的に否定を叫ぶハヴェルを愛しく思って、目を細める。
もしもあの時、背を向ける前にこの話をしていたら、きっと彼は同じように叫んで自分に取り縋ってくれたのだろう。そうしたら、もしかしたら自分は、踵を返して彼を抱き締めたのかもしれない。
「あの時の私には、おまえに嫌われる未来がまざまざと思い描けてしまった。……それが、何より怖かった」
先祖返りの自分を、村の者達は皆心底では畏怖していた。
魔力を厳重に封じてある、心は同じ人間のもの。そう理解していても、村人達は違和感を拭いきれなかったに違いない。半魔の村にあってすら孤独を感じていた自分が、本物の魔物となって怯えてしまったのは、無理もないことだったのだ。
「だから、おまえに愛されているうちに離れてしまおうと、そんな身勝手なことを考えたんだよ」
「……本当に、ヒドイよ。僕が今まで、どんな思いで生きてきたと思ってるんだ」
棘を孕んだ声で責められても、答える言葉をもたない。
顔の横に突いた、彼の拳が震えている。唇を固く引き結んでいるのも、恐らく怒りのためだろう。
「すまない。すまなかった、独りにして」
彼に謝罪の言葉を口に出来たのは、これが初めてのことだった。
彼の頭を撫でながら繰り返す。悪かった、おまえの気持ちを聞きもしないで、おまえの行く道を私と分けてしまったこと。おまえを独りにしたこと。何も伝えていなかったこと。全て、何もかもすまなかった、ハヴェル、すまない。
「……ごめんなさい」
弾かれたように、彼が抱きついてきた。
力任せの抱擁に一瞬息が止まるが、首筋に顔を埋めた彼が震えているのを感じると、息苦しさすら黙って受け止めようと思った。
重ね合ったハヴェルの鼓動を体で感じる。同じく心音を刻む自分の体の中には、血の巡りと共に魔力が行き渡り、ハヴェルの施した封印が完全に破られているのを感じた。
あの時、絶体絶命に陥った土壇場で魔力が内側から爆発し、瞬間的にハヴェルの術を上回ったのだろう。
復活したこの力を使えば、ハヴェルを魔術の縄で拘束して屋敷を後にし、『魔王イルフィニアン』として王国への復讐を再開することも出来るはずだ。
だがそれは、自分一人で決めるべきではないことをイルフィはもう理解している。
「ハヴェル、この先、どうしたい?」
ハヴェルが上目遣いで顔を上げる。泣いているかと思ったがそうでもなかった。
彼はもう子どもではない。強固な意志と『勇者』と呼ばれるほどの力をもつ、逞しい大人の男なのだ。
「……イルフィの、傍にいたい」
「そうか」
「王国の人間たちは心底憎いよ。本当は根絶やしにしてやりたい。……でも、あいつらが僕達の村を焼き払ったのと同じことをしたら、故郷を失って苦しむ子どもがどれだけいるかわからない」
僕達みたいに離ればなれになってしまう子どもが、きっとたくさん生まれてしまう。
ハヴェルは心配性で傷つきやすく、だからこそ優しくて繊細な心をもつ子どもだった。その真心が残っていることに、イルフィは胸を打たれる。
「イルフィが『魔王』に戻るなら止めない。僕も一緒に行くよ。でも、イルフィが『魔王』をやめるなら、僕も何もしない」
頬を合わせて、懐くように擦りつけてきた彼の温かさを受け止める。最愛の子と初めて心が通じ合ったことを、イルフィは実感した。
「『魔王』は、もう『勇者』に倒されたじゃないか」
「……イルフィ」
「私も、おまえと一緒にいたい。ここで、二人で静かに暮らしていきたい」
ハヴェルが息を飲む。
黒い瞳が今度こそ揺らいで潤み、僕もだよ、と耳元で囁かれた。
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