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第3章 1

 壱星が父親と食事に行った日から3日後の月曜日。後ろの扉から教室に入ると、いつもと変わらないあいつの艷やかな黒髪が目に入る。  あの日、蒼空と別れた俺はすぐに壱星にメッセージを送った。普段と変わらない感じで「親父さんと何食ったの?」って。でも、壱星から返事が来たのは翌日の昼過ぎだった。疲れて帰ってきて寝てしまったらしい。  まだ違和感が残っている。壱星からの返事が遅れることは今までもたまにあったけど、朝の強い壱星に昼過ぎまで待たされることはなかったように思う。  だけど、蒼空と話をしたあの夜、俺は決めたんだ。壱星のこと、ちゃんと大事にしようって。もう二度と乱暴なことはしないし、壱星のことを信じようって。だから余計な詮索もしたくない。 「おはよ、壱星」 「智暁君、おはよう。金曜日はごめんね」  フサフサの睫毛が揺れて、大きくて光をよく取り込む瞳が俺を見上げる。長過ぎる袖から覗く華奢な手が、俺のために机の上の物を壱星の方へと寄せる。  いつもと何一つ変わらない壱星の様子に少し安心する。 「気にすんなよ。お前のせいじゃないし」 「……それでね、お詫びにこれ買ってきたんだ。はい、智暁君」  そう言って壱星は上体を屈めると、足元に置いていた鞄から小さな紙袋を取り出し俺に手渡した。ドタキャンのお詫びというには、やけに高級感のある包装だ。 「……え?わざわざ?何これ?」 「チョコだよ。智暁君好きだと思って。これね、マテオ・パレっていうフランスの有名なショコラティエのお店で……」  突然横文字を並べられて困惑する俺などお構いなしに、壱星は興奮気味に話を続ける。明らかにいつもより饒舌なのは、それほど良いチョコなのか、罪の意識からなのか、それとも……。 「あぁ、ありがとな。嬉しいよ」  ここまでしなくていいのに、その言葉を飲み込んで俺がお礼を言うと、壱星は口元を抑えて嬉しそうに笑った。 ◇◇◇  放課後、俺は壱星の部屋を訪れていた。  膝の上に乗せた壱星の顔を引き寄せて唇を重ねる。さっき食べたナッツ味のチョコの香りが漂い、その甘さにのぼせそうだった。 「智暁君、あの……」 「何?今日はするつもりないからシャワーなら浴びなくていいよ」 「……え?するつもりないって?」 「エッチしないってこと。ただ壱星と一緒にいたくてここ来たんだよ」  もう一度唇を重ねようと顔を傾けると、壱星の手が割り込んでくる。いい雰囲気だと思って気を良くしていた俺は、壱星の不満気な表情に戸惑った。 「どうした、壱星?」 「何でしないの?時間ないから?」 「だから違うって。確かに今日はこの後バイトだけど、そうじゃなくて……」  壱星は俺の話も聞かずに自分の腰を浮かせると、俺の股間に手を伸ばした。壱星の小さな手が与えてくる刺激は、もどかしいのに気持ちがいい。 「……壱星、やめろ。だから今日は」 「どうして?智暁君、ここ固くなってるよ」 「それは生理現象で」  俺のその言葉に壱星の指はぴたりと止まり、それから、視線がウロウロと不安げに動き始めた。 「もしかして……智暁君、俺のこと嫌いになった?」 「えっ?違う、そんなわけない」  肩に載せられている壱星の手がぎゅっと俺の服を掴む。 「酷いよ、智暁君」 「壱星、聞いて。俺、ちゃんと考えたんだ。お前のこともっと大事にしようって。だから今日はそういうの抜きで……」 「智暁君も俺のこと要らなくなったんだね」 「……は?何、智暁君もって」  まるで他にも相手がいるかのような口振りに驚くが、俺が問い質すよりも先に壱星の瞳からボロボロと涙が溢れ出した。 「嫌だ、嫌だよ。智暁君。俺を捨てないで。お願い、智暁君……」  すとんと膝の上に腰を落とし、壱星は俺に縋りついてわんわん泣き始めた。癇癪を起こした子供みたいに「嫌だ」と「捨てないで」を繰り返している。 「捨てない。捨てないから。な、壱星?大丈夫だから。どうした?泣くなよ、壱星」  突然のことに、俺は震える背中を擦りながらただ宥めることしかできなかった。 ◇◇◇  結局、壱星は1時間くらい泣いていた。そのままバイトに行くのは気が引けたが、少し落ち着いた壱星が怒ったような表情で「サボるわけにいかないでしょ」と俺を追い出したので従った。  塾へ向かいながら壱星が泣き出した原因を考える。  やっぱり、俺が噛んだり首絞めたり無茶苦茶したせいだよな……。乱暴なことを求めたせいで情緒不安定になったんだろう。「智暁君も」という言葉から推測するに、過去の相手と同じようなことがあったのかも知れない。  可哀想なことをしてしまった。壱星は何をしても俺から離れないと高を括って酷いことをしてしまった。  明日は火曜日で蒼空と一緒に帰れる日だけど、壱星の家に寄ってちゃんと話をしよう。

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