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第4章 6

 水曜日の4限は心理学基礎という普段であれば眠たくて堪らない授業だけど、今日は目が冴えている。内容が面白いわけじゃない。ただ、言い知れぬ不安と緊張が俺を寝かせてくれない。  机の上に出しっぱなしにしているスマホの画面を叩いてみるが、表示されるのは時刻とロック解除の文字だけ。  ぎゅっと胸が締め付けられる。隣を見ても、いつもいるはずの壱星がいない。  あの日から――ドタキャンされた日曜日から、もう3日も経っている。壱星は月曜からずっと大学に来ておらず、俺の送るメッセージに既読もつかない。  何かあった……んだよな。大丈夫かな。倒れたりしてねぇよな。あいつ意外とタフだけど、外食ばっかだし。  昨日、いつものようにバス停で会った蒼空に聞いたところによると重森真宙も今週は大学に来ていないようだ。その上、それまで重森を慕っていた連中の一部が急に奴を小馬鹿にするような態度を取っているらしく、何か不穏な空気が漂っているとか。  もしかして壱星は……いや、まさか。  もう一度スマホの画面を叩き、壱星とのメッセージ履歴を開く。授業が残り5分で終わることを確認すると、「今から家行く」と打ち込んで送信ボタンを押した。  家にいるのかどうかもわからないし、合鍵を持っているわけでもない。無駄足になる可能性もあるけど、他にできることもない。  ……体調が悪いんだとしたら、別れ話はまた今度だな。  壱星に渡そうと溜めておいた3日分の授業のプリントが鞄に入っていることを確かめながら、俺はそんなことを考えていた。 ◇◇◇  大学の裏門を出たその時、ポケットのスマホが短く振動するのを感じて、俺は慌ててそれを取り出した。  新着メッセージの通知に、思わず唾を飲み込む。  ……蒼空とか中村とか、他の奴かも知れないだろ。  言い訳のようにそんなことを考えながら通知欄を確認すると、飛び込んで来たのは「こないで」という文字だった。送信元は……やはり壱星だ。 「……いや、何これ。意味わかんねぇ」  スマホをしまうと壱星の家へと走り出す。急がなければ逃げられてしまうような気がしていた。  マンションの前に着くとちょうど他の住人が出てくるのが見えて、悪いことだとは知りながらも、俺はエントランスが閉まる直前で体を差し込みオートロックをすり抜けた。  そのままエレベーターに乗り込んで、最上階である10階のボタンを押す。再び扉が開くまでが果てしなく長いように感じた。  10階に着くと小走りで壱星の部屋の前に行き、数秒迷ったがインターホンに指を掛ける。  大学から連れ立って来ることしかなかったから、こうして呼び出すのは初めてだ。ありふれたチャイムが鳴るが、続く物音は何もない。  もう一度ボタンを押すが結果は変わらず、痺れを切らしてドアをノックしてみる。しばらく応答がなかったが、やがてガチャガチャと金属の触れ合う音がして、ようやくドアが開いた。 「壱星」 「……ねぇ、何で?オートロックは?」  わずかな隙間から壱星が睨みつけるように俺を見上げた。 「他の人に付いてきて……そんなことより、お前どうしたんだよ?大学も来ないし連絡も寄越さないし。ってか、顔赤いな。体調悪い?」 「何でもない。ねぇ、今はっ……」  壱星は何かを言いかけたが、腹を押さえて身を屈めた。 「壱星?!大丈夫か?」  慌ててドアを開けて部屋の中へ足を踏み入れると、壱星の体を抱えるように支えた。腕の中の壱星は苦しそうに荒く呼吸をし、額に汗を滲ませながら、潤んだ瞳を俺に向ける。 「さっ、触らないでっ」 「え?いや、でも、そんなこと言ったって……」  その時、電気の消えた薄暗い玄関を見て違和感を覚える。  いつも出しっぱなしの大量の靴がほとんどない。廊下に並べられていたペットボトルのゴミもない。ちゃんと片付けたのか?体調悪そうなのに、珍しいな。  いや、というか、この靴は……壱星の物にしては大きすぎる。  壱星以外の誰かがここにいる。そう直感した俺は壱星を抱きかかえたまま動きを止めた。「こないで」という文字が頭に浮かぶ。 「壱星、誰か来てんの……?」 「……っ、だから、来ないでって言ったのに……」  小さな手が俺の服の胸の辺りを掴むが、壱星は再び小さく「あっ」と呟いて縮こまる。襟元が引き下げられた拍子で俯いたその時、部屋の奥へと続く廊下の軋む音が聞こえた。 「……え?」  思わず顔を上げた俺の視界に飛び込んできたのは、室内の光を背にこちらへ歩いてくる男の姿。 「俺だよ、智暁君」  そいつは、よく通る澄んだ声で俺の名前を呼びながら、にっこりと笑うと片手で口元を押さえた。  怪我をしているのか片目をガーゼで覆っているが、人好きのする笑顔に見覚えがある。 「俺が砂原にお仕置きしてるんだ」  心臓が痛いほど強く鼓動し、息が上がってくる。  こいつは……間違いなく重森真宙だ。

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