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第4話 Bitte helfen Sie mir

 ……確かに、私の師は……ハインリッヒ司教は、少し政治に入れ込みすぎている節があった。民に寄り添うよりも、誰かを非難することの方が増えていたのは事実だ。  この時代において、この帝国の法という観点において、それは紛うことなき「罪」だ。  だが、ハインリッヒ司教とて自らの正義に基づいて行動していた。神の教えという観点において、「罪」を犯しているのは帝国の方だとも言える。  ……結局のところ、どれほど思考を巡らせても、あの蛮行(ばんこう)を受け入れることなどできない。 「神父様……神父様、頑張ってください!」  何もかもが闇に消えゆく寸前、そんな声を聞いた。  何事か言葉を返した気はするが、よく、覚えていない。  目を覚ました時、傍らにはヴィルがいて、私は既にヒトではなくなっていた。  意識が朦朧(もうろう)としていたため記憶にはないが……数刻の間「死んでいた」私は突如息を吹き返し、ヴィルの腕を噛んで血を啜ったのだという。 「良かった……! ほんとに、良かったぁぁぁぁっ!!!」  ヴィルは、それでも恐れたり突き放したりせず、涙を流して私を抱き締めた。  腕にはくっきりと歯型が残り、血が滲んでいたというのに……だ。  それが、どれほど救いだったことか。  ***  私のみが一命を取り留めたものの、悪夢は終わらなかった。  太陽が(いと)わしくなり、五感が鋭くなり、傷ついた肉体は激しく血を欲した。……祖父と同じように「吸血鬼」と化したことは、もはや疑いようもなかった。  教会内に私の居場所は既になく、身の振り方を間違えればきょうだい達の身の安全も脅かされてしまう状況だった。  教会襲撃には帝国議会が関与していた可能性があり、私はただでさえ「生き残り」として面倒な存在と言える。……血筋のことがある以上、「生き残った理由」について疑念が向けられるのも時間の問題だ。どう足掻いても、隠し切ることは不可能だっただろう。  一縷(いちる)の望みを賭け、自らが祖父と同じ体質に至ったと告白すると決めたものの……かつて私を中傷した司祭達を前に、理想はなんの意味もなさなかった。  はっきりと主張をせねばならないのに、私を、祖父を、ダールマンの血筋を認めさせねばならないというのに……身体は鉄のように固まり、喉からはひゅうひゅうと息が漏れ、呼吸すらまともにできない。 「(けが)れた血の死に損ないが、何を乞いに来たというのだね」  司祭エマヌエルの態度は、以前と何ら変わらなかった。  ──ああ……うちの教会に来るなら面倒を見よう。……純潔の方は保証できないがね。  ……無論、悪い意味で、だが。  だが、私の方はと言うと、何もかもが以前のようにはいかなかった。いつもなら毅然(きぜん)と否定できた暴言に、一切の反論ができなかったのだ。  見下されているというのに、  弄ばれているというのに、  (わら)われているというのに、  何一つ、言葉が出てこない。 「……無様な」  床に膝をつき、嘔吐してしまった私に向けられたのは、侮蔑と享楽の混じった視線だった。 「コンラート神父は、未だお加減が優れぬようだ。もしくは、後ろめたいことがあるのかもしれないが」  濁った視線が、立ち上がることのできない私を()め回し、他の立会人と目配(めくば)せし合い……私を、断罪する。 「この様子なら、結論を焦ることもありますまいて。『殉教(じゅんきょう)』なさらなかった理由(わけ)に……皆様、とっくに察しがついておりますでしょうがな」 「せいぜい、裁きの日を楽しみにしておくといい。『吸血鬼』君」 「……おぞましい。これでは、亡き司教殿も浮かばれまい」  吐き捨てられたあらゆる言葉が私を甚振(いたぶ)り、胸の傷口を抉った。  その後の記憶は断片的だ。  兄上に手紙を書き、医師に預けたような記憶はあるが、いつ頃の時刻だったのか、はたまた日をまたいでいたのか……それすらもわからない。  一度は私の生還を喜んだ医師も、私が吸血鬼だという噂を聞き、態度を変えた。  怯えた様子で、私の顔色を伺うようになったのだ。 「大丈夫すか、神父様。メシ、ちゃんと食ってます?」  それでも、ヴィルの態度だけは違った。  ヴィルは足しげく私の元に通っていたようで、私がぼんやりしている間に、気が付けば寝台の横で寄り添っていることが多かった。 「……あ。血、ついてら……。また、吐いちまったんですか」  口の端を、ヴィルの指が拭う。  その手を思い切り振り払ったことは、覚えている。 「あ……こ、これは……ち、違うのです、ヴィル……」 「……。すんません。びっくりさせましたね」  震える私の身体を、ヴィルはそっと抱き締める。  鍛え抜かれた体躯(たいく)に似合わない、優しい手つきだった。 「痛かったら、言ってください?」  私はもうヒトでは無いと言うのに、気遣う声は優しく、温かい。 「血、飲みます? オレ……今は見つかるとちょっとまずいんで、すぐ帰らなきゃなんですけど……」  当時は今よりも飢えていたのか、首筋や手首の太い血管を見るだけで喉が鳴った。  それほど、吸血衝動は凄まじかった。必死で耐えなければ、無意識に牙を立ててしまっていただろう。……かつて死の淵から蘇り、ヴィルに噛み付いた時のように。 「……っ、う……それは、いけません……」  湧き上がる衝動を押し殺す私に、ヴィルは平然と手首を差し出した。 「噛んで良いっすよ。……ほら」 「……あ……」  吸血鬼には、多くの悪い噂がある。  血を吸われたら吸血鬼になるだとか、鏡に映らないだとか、十字架を恐れるだとか……神に背いた者の末路だ、とか。  多くは事実無根の伝承だ。……得体の知れないものへの差別意識が形になったと言ってもいい。  当時の私に、それを説明できるだけの力があれば。  偏見をねじ伏せ、説得するだけの「何か」があれば……  現状のように、逃げ隠れする必要もなかったのだろうか。  ヴィルの肌に牙を突き立て、溢れ出す血を啜る。  痛みを訴える身体が歓喜し、傷が立ちどころに癒えていくのが嫌でもわかった。  ヴィルがなぜ、そうまでして私に尽くすのか。  ……その理由は、すぐに知ることとなった。  単純な話、ヴィルは、私に恋慕の情を抱いていたのだ。  いつからかは分からないが、おそらくはずっと前から…… 「オレ……ずっと、ずっと神父様のことが好きで……それで……アンタが死んじまったと思ったら……もう会えねぇって思ったら……! そんなの、耐えられなくて……っ!」  その告解は、あまりに切実だった。  秘めていた想いが仮死状態の私を前に、ついに溢れ出した、と……  私の「死体」に口付け、冷たくなった肢体を愛し、報われない想いを果たさずにはいられなかった、と……。  彼は、涙ながらにすべてを洗いざらい話した。  予期せぬ感情の奔流(ほんりゅう)についていけず、戸惑い、傷付いたのは事実だ。事実だが……  涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、私の手を握り、この身体を汚いとは思わない、いつだって綺麗だと笑ったヴィルに、私は……  ……いいや、「その感情」を認めるわけにはいかない。 「出て行け」  縋り付きたい心を懸命に押さえ付け、私は、あえて冷たく言い放った。  これ以上、道を踏み外させてはならない。  彼は罪人だが、まだやり直せる。向けられた笑顔が、余計にそれを確信させた。  私がすべきは、正しい道を指し示すことだ。……決して、苦難の道連れにしてはならない。 「もう、私に関わるな」  目を伏せた私の言葉に対し、ヴィルは、果たしてどんな顔をしていたのだろうか。 「だよなぁ」と、小さな呟きが聞こえたことは覚えている。 「……ほんとに、すみませんでした」  落ち込んだ様子で、ヴィルは窓から出ていく。  その背に、思わず声をかけたくなった。  ……が、耐えた。耐える他なかった。  その後のことは……。  ……。もう、詳細を思い出したくもない。  民の間では、教会の襲撃を「吸血鬼がいたからだ」とする噂が流れ始めていた。  居合わせた信徒や野次馬が殺されたのは、「怪物」であった私の巻き添えだと、まことしやかに囁かれていたのだ。  牢に移送された後、見せられた兄上からの手紙には、「情けないことだが、私はお前を見捨てる他ない。……すまない」と記されていた。  処刑を受け入れるつもりでいた私の前に、エマヌエルは再び現れた。彼は下卑た笑みを浮かべ、ある条件と引き換えに私を逃がすと言った。 「見たまえ。」  弟子に向けたあの言葉が、今でも忘れられない。……その仕打ちは、殺されるよりも耐え難いものだった。  気付いた時には、無我夢中で森の中を走り抜けていた。 「う……っ、ぐ、ぉえ……! ゴホッ、ゲホッ」  血や胃液と共に、白濁が地面に飛び散る。脚にも、似たような粘度の何かが伝っている。  ぽつり、ぽつりと雨が降り出し、やがて、土砂降りへと変わる。足元が悪くはなるが、陽の光が厭わしい私にとっては、むしろありがたかった。  降り注ぐ雨は、頬や身体の血を洗い流し、地面へと落ちていく。  それが私の血なのか、他の「誰か」の血なのか……もはや、分からない。 「ぅ、えぇ……っ、はぁ……は……ぁ……」  どれだけ吐いても、胸元の不快感が治まらない。   殴打された痕や裂けた傷はみるみるうちに癒え、自らがヒトでなくなったことを嫌でも突き付けられた。 「……ぁ、く……っ、────────ッ!」  休んでいる暇などない。  追手に見つかる前に、逃げなければ。  どこか、遠くへ……。  ……どこに?  いったい……どこに、行けばいいというのだ。  この怒りを、この憎しみを抱えたまま、どこへ……?  ***  ふらふらと、当てどもなくさまよい、辿り着いたのは(くだん)の教会だった。  途方に暮れ、立ち尽くしていると、誰かに腕を掴まれ、振り返る。 「神父様、どこ行ってたんすか! 探したんですよ!?」  見覚えのある亜麻色の髪、大きな傷のある精悍(せいかん)な顔、茶色の瞳……。  会いたかったような、会いたくなかったような……複雑な感情が押し寄せ、言葉にならない。 「いや、色々迷ったんすけどね、血飲めなくて飢えてんじゃねぇかなぁ……とか、色々考えると放っとけなくて……」  言い訳がましく早口で語りながら、ヴィルは左右に目を泳がせた。  掴んでいる手に、確かな執着を感じる。……強さの問題ではなく、逃がしたくない、離したくない……そんな未練が伝わってくるのだ。 「牢に繋がれていた」 「うぇえっ!?」  ヴィルは私の答えが余程予想外だったのか、間抜けな声を上げ、目を見開いた。 「……どうにか、逃げ出したところだ。行く宛てもない」 「た、大変じゃないですか! ……あ、じゃあ……いっそのこと……いや、その……」  ヴィルは慌てながらも何かを提案しようとする……が、即座に言い淀み、視線を左右にうろうろとさまよわせ始めた。 「……いっそのこと、何だ」  私が追求すると、ヴィルは顔を耳まで真っ赤にする。 「え、ええっと……オレと一緒に逃げませんか……なんっつって」  赤く染まった頬をポリポリと書きながら、ヴィルは驚くほどに軽い口調で、愚かな提案を持ちかけてきた。 「私は、吸血鬼……に、なったとされている」 「知ってますけど」 「逃げるために、おそらく誰かを殺した」 「仕方ないでしょ」 「捕まれば、処刑される身だ」 「オレもそんな感じです」 「すぐにでも、追手が差し向けられるだろう。……これからは、『化け物』を殺すような相手と戦わねばならない」  自分の状況に関して、驚くほど淡白に言葉が紡がれていく。  内心、受け入れているとは言い難いが、態度だけは自分でも驚く程に冷静だった。 「大丈夫です。オレが(まも)りますから!」  彼は私の手を引き、そう、笑ってくれた。  私のために多くを犠牲にする道だと言うのに、あまりにも朗らかに、嬉しそうに笑っていた。 「……愚かな」  そうして、私は手を引かれるまま、ヴィルと共に闇夜へと走り出した。  果てのない絶望の中、たった一つの希望に縋るように。  終わりのない悪夢の中で、救いを求めるように。

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