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第14話 Aber die Wunden sind tief

 修道女マリアは、ヴィルと同じく元は孤児だったのだと本人が語っていた。  ヴィルが修道院の手伝いをする代わりに、数日滞在させていただくことにはなったが、長く邪魔をするわけにはいかない。  どうにか態勢を整え、なるべく早く出立(しゅったつ)せねば…… 「マリアさんって、すごいっすねぇ。オレが元盗賊ってことも下手すりゃ見抜いてますよ」  私の口元についた血を拭い、ヴィルは興味深そうに語る。 「……貴様がわかりやすいのだ」 「えっ」  そうは言ったものの、彼女に人生経験ゆえの鋭さがあるのは間違いない。  見ず知らずの怪しげな旅人を置いてくださる度量も、多くの経験によって(つちか)われたものだろう。  噂をしていると、ノックの音が部屋の中に響いた。 「ヴィルさん、本を運んでいただいても構いませんか?」  修道女マリアの声が、扉の向こうから聞こえてくる。 「良いっすよ! 宿代だと思って、キリキリ働きます」 「それはそれは……。たくさんありますので、よろしくお願いしますね」 「んじゃ、行ってきます。……大人しくしといてくださいよ、神父様」  ヴィルは少しばかり声を低くし、釘を刺してくる。  すぐに癒えると言ったはずだが……。  しかし、人間であればまず助からない傷だ。そう考えれば、不安になるのも分からなくはない。  ……ヴィルはまだ、どこかで私を「人間」だと感じているのかもしれない。  ***  幼い頃の、夢を見た。  目の前の母はいつものように、遠くを見つめて同じ言葉を繰り返す。 「ギロチンの音が聞こえる」  母が、私達の母でいられる時間は少なかった。  彼女の心は大半が遠い過去に囚われており、空虚な瞳は、ほとんどが私たちには見えない「何か」を見ていた。  それでも、母は、時折……本当にごく稀に、優しく、穏やかな微笑みを浮かべて子供達の名を呼んだ。 「ギルベルト」 「コンラート」 「アリッサ」 「エルンスト」 「あなた達は、私の光です」  祖父の処刑が決まったあの日、私には、母が自死を選んだようには見えなかった。  ……あの時の母は、自ら何かを選択できる状態だったのだろうか。 「ギロチンの音が聞こえる」  母の恐怖が、その言葉の意味が、今の私には理解できてしまう。  彼女は逃げ出そうとしたのだ。自らに迫る、「ギロチンの音」から。  立っていた足場が跡形もなく崩れ去り、不安定な自我が得体の知れない闇に飲み込まれる。  苦痛に満ちた記憶が、あらゆる感情を塗り潰していく。  喉は恐怖に押し潰され、溢れ出した絶望が目を塞ぎ、光を奪う。  刻みつけられた痛みが手足の感覚を奪い、頭の奥から罵声と嘲笑とが激しく鳴り響く。  息が。  息が、できない。 「コンラート」  司教様の声に、顔を上げる。険しい顔をした司教様が、私を見下ろしている。  ……嗚呼、もし、もしもだ。 「なぜ、あのまま信仰に(じゅん)じなかった」  母も、このような幻に囚われていたのなら、  こうやって、自らを責める声に|苛《さいな》まれていたとするならば…… 「お前は、罪を犯してまで生き延びたかったのかね?」  必死に逃げ出そうとしたのも、無理はない。 「……ッ、申し訳ありません。司教様……」  ひび割れた心を奮い立たせ、幻に向き合った。 「それでも、私は……」  手のひらに、確かな温もりが伝わる。  頬に流れるのは、汗か、涙か。 「私は……死にたくなかった……。……私は……ッ、先生(あなた)にも、他の(みな)にも、生きていて欲しかった……!!!」  *** 「……ッ」  意識が覚醒し、照明の光が目に突き刺さる。 「……司教、様……」  乱れた呼吸を整えようにも、身体の震えが止まらない。  冷や汗がたらたらと顎を伝って落ちる。 「……早く……出立せねば……。巻き込むわけには……」  喉を掻っ切られた修道女イザベルの姿が、頭を撃たれて倒れていた修道女ニーナの姿が脳裏に過ぎる。  修道女マリアは、得体の知れない存在を迎え入れ、親切にしてくださった。  だからこそだ。  断じて、あのような目に合わせてはならない。 「……ッ、ゲホッ、ゴホッ……」  胸に激しい痛みが走り、思わず咳き込む。  鮮血が、指の隙間からボタボタと滴り落ちた。 「だ、大丈夫っすか!?」  声が耳に入り、ようやく手を握られていたことに気付く。  寝台の脇で、ヴィルが心配そうに私を見つめていた。 「……内側の……傷だ……いずれ、癒える……」  呼吸をどうにか整え、そう伝える。  ベッド横に水に浸した布が用意されていたので、使わせてもらった。  ヴィルは辺りを見回し、扉の方に向かう。  がちゃり、と、鍵をかける音がした文字(ルビ)。 「栄養、要りますよね。ちゃっちゃとヤりましょ」 「……ああ……」  ヴィルはベッドに上がって膝をつき、まだ萎えたままの「それ」を私の目の前にさらけ出した。  そっと握り締め、上下に(しご)く。ゆるく屹立(きつりつ)し始めた辺りで、口に含んだ。一滴も零さないよう喉奥に(くわ)え込み、吸い上げる。 「……っ、は……エロ……」  ヴィルが恍惚とした声で言う。  (かすみ)がかかったような思考の中、私の本能は、間違いなく彼を欲していた。  やがてヴィルは絶頂を迎え、求めていたものがどくどくと臓腑(ぞうふ)の中へと注ぎ込まれる。  残さず全て飲み干せば、傷付いた肉体に養分が染み渡るのを感じた。 「……ッ、お赦しください……」  ……が、精を与えられた後も、激しい欲求が治まらない。  血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。  ヴィルのたくましい腕に、這うように浮き出た血管から目が離せない。  「……血、飲みます?」 「……だ、だめだ……さすがに……」  だが、血を(すす)るということは、ヴィルの生命力を餌にしているのと同じだ。  決して、飲みすぎるわけにはいかない。 「オレはまだ全然イケます。飲んでくださいよ。大怪我でしょ?」  ……が、ヴィルは平然と腕を差し出し、私の口元に近づける。  恐る恐る牙を立てると、滲んだ血の香りが鼻腔(びこう)をくすぐった。 「ん……ふ……っ、ぅう……」  本能が求めるまま、舐めとって飲み下す。  濃厚な血の味に、傷付いた肉体が(よろこ)ぶのが嫌でもわかる。 「……っ、神父様」  ヴィルは悩ましげな吐息と共に、私を呼ぶ。  しまった。まさか、深く牙を立てすぎたのだろうか。 「、どうっすか」  ……。  確かに、助かると言えば助かるのだが……。  なんというのか……旺盛(おうせい)すぎはしないか……?  *** 「……で、何を焦ってるんすか」  衣服を整えたヴィルが、私の顔を覗き込む。口元の精を舐め取ってから、目線を合わせて答えた。 「恩人に害が及ぶのは、(こた)える。……そう、思っただけだ」 「吸血」のおかげか、身体の痛みも今はほとんどない。  私は、「そういう存在」なのだ。……だが、ヴィルや修道女マリアはそうではない。  亡くなった司教様たちのように、「多少の傷」でさえも命取りになる。 「それ、オレも同じですよ。……オレも、神父様が傷ついたり苦しむのはキツいっす」  ヴィルは私に視線を合わせ、はっきりとした口調で語る。 「……次無茶なことしたら、マジで怒りますんで」  真摯な言葉が放たれた。  ヴィルは……辛い旅に自ら同行し、身体を張って私の助けになろうと努めている。  その理由を、私はよく知っている。……彼は、私を愛しているのだ。  それを罪だとも思わず、非常識だとも考えず、ただただ、真っ直ぐに…… 「……済まない」  項垂(うなだ)れる他なかった。  ヴィルは、一度「私の死」を目の当たりにした。  私が過去の傷に苦しんでいるように、おそらくは彼も、見えない傷を抱えている。  ヴィルは頬を緩め、私を軽く抱き締めた。慈しむような抱擁に、安堵してしまう。  ……この感情も、やはり、罪なのだろうか。 「そういや、神父様の親父さん? と関係あるんすか、ここ」  そう問われたので、頷いておく。 「……私の父は貿易商だった。ミヒャルケ商会は、取引相手の一つで……確か、鉱山や鉄道事業で儲けていたのだったか。慈善活動も盛んに行っていたはずだ」 「えっ、神父様って商家の生まれだったんすか。てっきり貴族だと……」  そういえば、私の生い立ちについては、あまり話したことがなかったように思う。 「…………確かに、母方は没落貴族だったな」 「うっわ、エッチな響き……」 「…………」 「じ、冗談っすよ! 睨まねぇでください!」  時折、反応がこちらの理解を越えてくるのはどうにかならないものか。  そもそも、その性欲はどこから湧いてくるのだ。 「すんませんって! 謝りますからぁ」 「……ケダモノが」  などと戯れていると、ノックの音が響いた。  起き上がろうとしたが、手で制される。  大人しく対応をヴィルに任せ、再び寝台に身を横たえた。 「……その、悪魔祓い(エクソシスト)の方が……」  不穏な単語が聞こえ、身体が(こわ)ばる。  私の体質上、見つかりやすいとは聞いていたが……。 「……戦わなきゃなら、外でやるっす」 「い、いえ、その……」  殺気をまとい始めたヴィルに対し、修道女マリアは歯切れの悪い様子で続ける。 「その……『吸血鬼に会わせて欲しい。美人なら僕の妻に加えるから』とかなんとか……」  は? 「『男性でも大丈夫。大事なのは顔立ちだよ』と……」  ……は? 「神父様ぁ、ちょっと待っててくださいね。ぶっ殺して来ますんで!」  どういうことなのかさっぱり分からないが、ヴィルが更に殺気立ったのだけは理解できた。

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