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第16話 In der Dämmerung den Weg weisen

 妙な騒動から一夜明け、目が覚めたのは昼頃だった。  ヴィルは既に部屋にいない。  おそらくは修道女マリアに呼ばれ、力仕事か何かを手伝いに行ったのだろう。  寝台から降り、肩や腕を動かして様子を伺う。 「こほっ……」  胸の内側に残っていた血を吐き出し、(ぬぐ)う。  床に両手をつき肘を曲げると、わずかとはいえ関節が固くなっているのを感じた。  数日伏せっていただけとはいえ、油断はできない。  いつ戦闘が起こっても問題ないよう、身体を整えておかなくては。  出血は多少あったものの、身体の痛みはもうほとんどない。……状況が少しばかり好転したとしても、ここで気を緩めてしまう訳には行かないのだ。 「……っ、47……48……」  負傷のせいか、息が上がるのは早い。  次第に、胸がズキズキと痛みを訴え始める。  だが……この程度で根を上げていては今後に支障が出る。悪魔祓い(エクソシスト)に居場所がバレた以上、早く出立(しゅったつ)せねば恩人にも迷惑がかかってしまうだろう。  この程度の痛みは、耐えなくては。 「……ご……じゅう……ッ」  50回を数えたところで、床についた腕を片方、背中側に回す。  胸は少々痛むが、まだ片腕で50回ずつ程度であれば問題なくこなせるはずだ。  ……と、扉の開く音が聞こえた。 「あっ、ダメじゃないすか。寝てないと……」  帰ってきたヴィルが、すかさず走り寄ってくる。 「鍛えねばすぐ衰えるだろう」  そう答えたものの、ヴィルは不安げな表情で私の肩に手をかける。 「いやいや、胴体に穴空いたんすよ!?」 「もう塞がった。ヒトだった頃のものと違い、痕もない」  そうだ。……私はもう、ヒトではない。  どれだけ目を背けようが、どれだけ抗おうが、その事実は変えようがない。 「……じゃあ、ちょっと見せて欲しいっす」  ヴィルの真剣な視線が私を射抜く。  ……。いや、まさかな。いくらヴィルでもここで妙な下心を出し……かねない気はするが、これは純粋に私の身体を案じているのだろう。……そう信じていいはずだ。  衣服を(まく)り上げ、腹を見せる。一部、消えていない傷痕もあるにはあるが、直近のものは綺麗に癒えている。 「もっと上の方にもあったような……」  ……が、ヴィルは更に別の箇所も気になるらしい。 「ま、待て、見せただろう……!」 「隠すと余計に怪しいっす」  こ、これは……本当に、下心ではない……のか……!?  いや、視線は至って真摯(ひんし)だ。だが、ヴィルは最近(私の傷を(おもんぱか)ってだろうが)積極的に手を出してこなかった。決して、断じて、全くもって、私が手を出されたいと期待しているわけではないが、そろそろ覚悟はせねばなるまい。 「……ほんとだ」  動揺しているうちに、上半身の衣服を全て脱がされる。  じっくりと凝視され、思わず顔が熱くなった。 「……ッ」  何を、言うべきかがわからない。  気まずい時間だけが流れていく。 「……?」  私の表情を見、ヴィルは不思議そうに首を傾げた。  どうやら、本当に下心はなかったらしい。 「あっ、もしかして、襲われると思ったんすか!?」 「……日頃の行いを振り返ってみろ……」  いや、分かっている。勝手に勘違いしたのは私なのだ。分かってはいるのだが……!  ああ、顔から火が出そうだ。 「ビビらせちまってたらすみません! 身の危険感じたら、遠慮なくボコったり殺したりしてくれていいんで!」  ……これは……今までも、薄々感じてきたことだが。  ヴィルは、自らの価値を不当に低く見積っている。  命を投げ出してでも、魂を犠牲にしてでも、私を救うつもりでいるのだ。 「……私に罪を犯させるな、愚か者」 「あれ? 前はとどめを自分が刺すって……」 「…………その、そういうことではないのだ」 「ん?」  ならば、伝えなくてはならない。  私が、おまえに感謝しているということを。 「わ、私は……貴様に、傷付いて欲しくない……」  この想いは、罪深いものだ。  この関係は、赦されざるものだ。  ……だが、おまえの与える愛に、私は間違いなく救われている。 「わかりました! 気を付けるっす」  明るい笑顔が、胸に突き刺さる。  あまりにも朗らかな笑顔からは、何か、心を動かされた様子は感じられない。  おそらく、伝わっていないのだろう。 「さては、何一つわかっていないな貴様……」 「へ?」  ヴィルは再び首を傾げ、きょとんと目を丸くした。 「いや、もういい。気にするな」  ……わからない。  赦されざるこの現状を受け止め、認める方法も。  胸に渦巻くこの想いを、的確に言葉にする方法も。  私には、わからない。 「とにかく! 身体に負担かかることはダメっすよ」 「もう塞がったと言うに……」 「どうせ近々ここを出るんすから、しっかり休んでてください」 「……だが」  そうこうしているうちに、寝床に押し込められた。  抵抗しようと思えばできるが…… 「昨日まで血吐いてたじゃないすか。もう吐かなくなったんすか?」 「ぐ……っ」  そう言われると、返す言葉もない。 「じゃあオレ、ここの周りを見回ってくるんで、大人しくしてて欲しいっす」 「……ああ」  ふと、寝台の上に目をやると、褪せた表紙の本があった。  繰り返し読まれたせいか、装丁(そうてい)も中の(ページ)も擦り切れ、文字は(かす)れつつある。  ヴィルが置いていったのだろうか。 「……短編小説(ノヴェレ)、か?」  本の表紙には、『銀薔薇の聖女』と記されていた。  *** 『昔話をいたしましょう。  遠い、遠い昔の物語です。  ある村に、聖女と呼ばれる少女がおりました。  同じ村に、魔女と呼ばれるきょうだいもおりました。  これは、聖女と魔女の物語。  歴史の影に埋もれた、絆のお話でございます。』── 「友人が書いた物語です」  パラパラと頁をめくっていると、修道女マリアに声をかけられた。  どうやら、水を持ってきてくださったらしい。 「……ゾフィ・ベルンハルト殿……いえ……この(つづ)りは『ベルナール』でしょうか? ご友人なのですね」 「ええ、旧知の仲です。ソフィさんはフランス出身の方で、昔、旦那様と共にドイツに移住なさったのです」  修道女マリアは懐かしそうに目を細め、続けた。 「彼女の義兄が、この修道院の出身でした。……もう、何十年と昔の話です」  零れ出したように語られる追想に、黙って耳を傾ける。 「灰色の目の、信心深い子でした。神に祈ったことで、ここに辿り着けたのだとも語っていて……」  そこで、彼女は私の瞳を見た。  ……ようやく、腑に落ちた。  なぜ彼女が、見るからに怪しい私たちに手を差し伸べたのか。 「……とある地方領地の文官になった彼は、苦しむ民らのために手を汚しました。けれど、内部粛清を繰り返した彼には貴族の後ろ盾などなく、真っ先に断頭台へと……」  おそらく、彼女は重ねたのだろう。  かつての知人の面影と、私の姿を。 「……なるほど、私を助けてくださった事情がわかりました」 「そうですね。……あの子が処刑されたのは、貴方と同じくらいの歳でした。……いいえ、もう少し上だったような気もしますけれど……なにぶん昔のことですから……」  寂しそうに微笑み、修道女マリアはしばし言葉を詰まらせていた。  数十年前となると、欧州各地で巻き起こった革命の時代だ。  ……時代が変わり、体制が変わり、私の祖父と母は伯父と姪でなく親子となり……母方の親族は、ほとんどが死に絶えたと聞く。  我が国における「革命」は、ほぼ失敗に終わったと言われている。……が、20年ほど前まで、この土地(エルザス)は「革命が成功した国」の領土だった。  その是非について、私は何も語ることができない。  血を流してでも、犠牲を積み重ねても、彼らは世を変えねばならなかったのだ。  後世に生きる私には、いくら想像しても決して理解しきれぬ立場がそこにはある。  ……善悪の裁定など、できるはずがない。 「その本、持って行っても構いませんよ」 「……よろしいのですか?」 「ええ。どうか、ヴィルさんに読み方を教えて差し上げて」 「物語を読む」には、「文字が読める」だけでは難しい。  文章と文章の結びつき、文脈の理解、物語背景の想像……その能力は、長年の蓄積がなければ身につかないものだ。 「……。……大切にさせていただきます」  おそらくは、ヴィルは読書を試みたのだろう。  知らぬことを知らぬと言い、教えを乞うことも惜しまない。  それが、どれほど難しいことか。  ……どれほど、勇気のいることか。 「しかし、選んだのがその本とは……」  ……と、修道女マリアは何やら微笑ましそうに言う。 「……? 短編(ノヴェレ)としては珍しくないように思いますが……」 「ふふ。主人公の外見が貴方と少し似ているのです」  ……そこまでは読んでいなかった。 「長い銀髪の、聖女と呼ばれた女性の物語です」 「……なるほど」  おそらくは一部の単語が目に付いたのだろうが……何と言うか、わかりやすいな、あいつは……。 「余程、慕っていらっしゃるのでしょうね」  彼女は、私たちの関係にまでは気付いていないのだろう。  気付いていれば、さすがに、このように笑ったりはしまい。  いや、だが、勘の鋭い彼女のことだ。それすら看破した上で……という可能性は……  何を、考えているのだ。  これ以上、何かを求めるなどと……愚かしいにも程がある。 「そんなに思い詰めた顔をなさらないで」  修道女マリアは、困ったように眉をひそめる。  ……そこまで、暗い顔をしていたのか。私は。 「見送るのが、心配になってしまうでしょう?」  その言い分で、事情を察した。  おそらく、本来は「そのこと」を伝えにやって来たのだろう。 「そろそろ、()たねばなりませんか」 「……まだ、今晩は大丈夫です」 「分かりました。では明日、出立するとしましょう」  妙な輩で幸いだった(?)とはいえ、追手が現れたのは事実だ。  もう充分良くしていただいた。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。 「せめて、ゆっくり休んでくださいね」 「お気遣い、感謝いたします」  先行きが、暗闇に閉ざされているのは変わらない。  だが、以前に比べれば、まだ希望が感じられる。 「どうにかなるかもしれない」と。  根拠もなければ、いつ揺らぐかも分からない不安定な希望だ。  ……だが、頼りなくとも、光明が差したことに違いはない。  ***    寝台に座り、先程の本を再び開く。  文字を追いかけようにも、やけに目が滑って先に進めない。  文章がどうこうではない。……今の私には、「物語を読む」能力が失われているのだ。  文字に焦点が合いにくく、靄がかかったような思考が言葉の認識を阻害する。  自分で思っている以上に、疲弊しているのか……? 「神父様ぁ、身体の方はどうっすかー?」  ヴィルが戻って来たので、そちらに視線を向ける。 「……あ、それ……」 「まだ、貴様に読書は早かろう。教えてやると言いたいところだが、明日には発たねばならんらしい。後日、共に読む機会を設けよう」  いつか。  肩を並べて読書ができるような……  そんな、穏やかな時間を過ごせる日が来るのだろうか。 「でもその本、マリアさんの……」 「譲ってくださるとのことだ。後で感謝を伝えておくがいい」 「マジか。じゃあ今度一緒に読みましょ。オレ一人じゃ難しくって……」  頭を掻き、ヴィルは寝台のへりに腰かける。 「……そういや、例の悪魔祓いと会いました」 「な……っ! 怪我はないか!?」 「全然大丈夫っすよ。……それで……」  ヴィルはわずかに表情を曇らせ、言葉を選ぶようにして話し始めた。 「アイツらが神父様を狙うのは、えっと……『聖職者から吸血鬼が出たのを隠したいから』つってました」  ……どこかで。  私は、教会の言う「正義」を信じていた節がある。 「隠さなきゃならねぇから、知られる前に……ってことみたいっす。……ひでぇ話っすよね」  だが、現実は違った。  あくまで利権と見栄が、そこには渦巻いていたようだ。 「……んで、マルティン……赤毛の方が、『人目に付く場では、派手な行動ができない』って」 「……なるほど。うかつには真偽を判断できないが……真実だとするなら『顔見知りがいる』ことはこちらにとって有利に働く、か……?」  無論、罠の可能性もある。 「敵の事情を知ることが出来た」と喜ぶには早い。  ……が、語られた内容に筋が通っているのは間違いなかった。 「オレはどこでも着いてくし、どこに行っても護ります」 「……そうか」  ヴィルは変わらず、私に手を差し伸べてくれる。  閉ざされたカーテンの隙間から、夕暮れの陽が私達を照らす。  顔が熱くなったのを感じるが、きっと、今ならば黄昏が隠してくれるだろう。 「……ありがとう……」  絞り出すようにして、感謝の言葉を告げる。  たくましい腕に、しっかりと抱き締められる。ためらいを振り切り、その背中に手を回した。

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