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第8話 訊ねる

「榎本大洋?」  電話の向こうで相手は意外そうな声を出したが、それでも落ちついた印象だった。  十代のころは甲高く早口で喋っていた女子もこの年齢になると変わるのかもしれない。彼女は高校三年の同級生の中で、過去数年のあいだ彼が連絡をとった唯一の人間だ。旧姓は渡辺綾香、結婚してからは須藤綾香。当時から姉御肌の性格だったが、世話好きな性格は変わらないらしく、今は同窓会の連絡役を引き受けている。 「今の住所か電話、わからないかな?」彼は何気ない口調でたずねた。 「実は榎本の息子という人から連絡がきたんだけど、いまいち何の用件がわからなくてね。連絡がつくなら本人に聞きたいと思って」 「榎本君ね……ちょっと待って」  背景で笑い声が響いていた。バラエティ番組のようだった。 「ごめんなさい、実家の住所と電話しかわからない。以前ハガキを送ったんだけど返事がなくて、実家にかけた電話も留守でつながらなかったのを覚えてる」 「そうか。渡辺さん、榎本について何も聞いてない?」 「何を?」 「身辺で何か起きたとか、そういうこと」 「返信がなかったから、何も知らないわ」 「そうだね。実家の電話番号ってすぐにわかる?」 「卒業アルバムに載ってるのと同じだけど」  祖父母は死んで、家も抵当に――という夏生の話を思い出しながら、彼は番号をメモした。時計をみる。夜の九時。明日にするか数秒迷ったあとで、番号を押した。 『もしもし』  三度目のコールで相手は出た。ひどく遠いので、彼は声を大きくした。 「夜分おそく申し訳ありません。斉藤健吾と申しますが」口から出まかせの名前を告げる。「高校のとき榎本大洋さんと同級だったものです。こちら、榎本さんのお宅ですか?」 『たしかにうちは榎本ですが』  年老いた女性の声がいった。 『大洋はもうここに住んでいません。どんな用件で?』  住んでいない――とは。  彼はあくまでも冷静にたずねた。 「そうですか。あの、大洋君のお母さんですね? 僕もずっと大洋君とは連絡とってなかったんですが、実は息子さん――お孫さんと最近知り合う機会がありまして」 『孫』電話口の声がすこし大きくなる。 『どの孫ですか? 孫は何人かいて……』 「夏生さんです」 『なつき――あ、夏生ね』  声色が急に明るくなった。 『夏生なら今年も盆にきましたよ。大洋はめったに電話もかけてこないけど、別れた人の孫の方が来るなんてね』  彼はスマホを握りなおした。やはり嘘だったか、という思いと、またも裏切られたという気分で、腹の底がずしりと重くなる。 「夏生さんとはお会いになっているんですか」 『たまにね。孫はみんなかわいいけど、あの子はふびんでね。最初の人の子だから苗字もちがうし、息子も気にかけてやればいいのにねえ。まあ、相手の人と揉めたから関わりたくないんでしょうけど。盆に来たときは大洋が置いていった荷物をみてたから、いるものがあったら持っていきなさいっていったの。あの子も会いたいなんていわないけど、やっぱり父親だからね』  どうやら大洋の母親は話をしたくて仕方がないようだ。だが、どこの誰ともわからない相手にあれこれ喋るのは不用心すぎる。  自分がかけた電話だということを棚に上げて彼はそんなことを思ったが、それでも適当に相槌をうった。言葉が途切れたところを見計らってたずねた。 「すみませんが、今の大洋君の連絡先、教えてもらえませんか?」 「ああ、いいですよ。大洋の番号は、えっと……」  教えられた番号は固定電話だった。彼は夏生のアドレス帳を検索したが、その番号は載っていなかった。  見知らぬ他人の家に電話をかけるには遅すぎる時間だった。もっとも大洋本人が出るのであれば、見知らぬというわけでもない。  彼はスマホをタップした。  数回のコールのあと、電話がつながった。彼は一気にいった。 「榎本大洋さんのお宅でしょうか。夜分おそく申し訳ありません。斉藤という者ですが、高校の同窓会について連絡がありまして。こちらの番号はご実家におたずねしたのですが」  女性の声が堅苦しい口調でこたえた。 『すみませんが主人は単身赴任中で、こちらにはおりません』 「ああ――」彼の口からはため息ともうめき声ともつかないものがこぼれかけた。 「そうですか」 『こちらから榎本に連絡するよう伝えましょうか?」 「いえ、今日のところはけっこうです。夜分遅く失礼しました」  彼はスマホを置いた。  やはり大洋は死んではいなかった。夏生は彼を騙したのだ。父の実家でみつけたものを使い、彼を同情させ、脅迫して――彼はうつむき、両手で頭をかかえた。  十月の半ば、夏生が最初に電話をよこしてから今までのことを思い起こしたが、何の感情も起きなかった。それなのに肩が震え、ふと、自分が笑っていることに気づいた。騙された自分に対してなのか、夏生に対してなのか、何も知らずにどこかで暮らしている大洋に対してなのか。それもわからないまま、彼はしばらくのあいだ、声を殺して笑っていた。  彼はスマホを置き、テーブルの上をみた。電源を落とした夏生のスマホは真っ黒の画面をこちらに向けている。そっと取り上げて電源を入れた。  不在通知が何件も入っている。  またテーブルに戻そうとした瞬間、電話が鳴った。表示は公衆電話とある。 「もしもし」  相手は無言だった。何秒か沈黙がつづいたあと、彼はいった。 「夏生君だろう。置き忘れるとは不用心だな」  声は聞こえない。ただ息を吸う音が短く響く。 「お金は使うといい。このスマホはもらうよ」  それだけいって、彼は通話を切った。  その夜はラグジュアリーツインのもうひとつのベッドで眠った。奇妙な筋書きの長い夢をみたように思ったが、目覚めるとすっかり忘れてしまっていた。

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