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第1話
「オイ太宰! 一体何々だあれは!」
「はえ……?」
眩暈がしそうな程強過ぎる芳香、朝も悠々閑々と布団の中で寛いで居たのに、消魂しい国木田君の怒号で叩き起こされた。手を伸ばして時計を見ると始業時間迄には未だ充分の時間が有る。……なァんだ、後もう一眠り出来るじゃあないか。
未だ温々と暖かい毛布の中へと潜り込んでも、毛布を貫通して迄鼻腔を付く独特な香り。厭な予感が為て仕方が無い。
布団から起き上がると身に沁みる冬の寒さ。半纏を羽織っても未だ寒くて、両腕を抱え込み乍ら喧騒の声が聞こえる玄関に近付くとぐっと鼻に付く芳香が強く為る。
玄関の扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできた――一面の“蒼”。
あの日の空の色の様な“蒼”が足の踏み場も無い程に玄関前を埋め尽くして居た。其れが凡て薔薇の花で或ると謂う事に気付くのにはそう時間が掛から無い。
「国木田君、此れ私の部屋に入れるの手伝って呉れないかな」
花束と云う言葉では表現し切れない量の薔薇を一人で部屋へと運び入れるには少しだけ時間が掛かる。幸い何十本かの単位で纏めて括られては居るものの、其の量は一束が漸く両腕で抱え込める程に多く、重さとしては凡そ十粁程。同じ様な束が合計で十個……通りで匂いを強く感じた筈だよ。
「此れは貴様に対する新手の厭がらせか?」
首を傾げ乍らも部屋に蒼い薔薇の花束を運ぶのを手伝って呉れる国木田君。そんなんだからモテないのだよ。
同じ花束が十有るとしても、重さから考えれば其れこそ相当な量。誰もが寝て居る深夜にでもこっそり運び込んだか――まあ、当人が急々と持って来たとは到底思えないけど。
「ねえ国木田君、薔薇の色や贈る本数に意味が有るって知っているかい?」
十凡ての花束を部屋の中へと運び込んだ後、花束を展開して其の一本一本を部屋の隅から並べてみる。本当は本数なんて数えなくても十の花束が在るだけで意味は解って居たのだけれどね。
「花の色にも其々意味が有ると謂う事は知って居たが……蒼い薔薇の意味は何なんだ?」
人間が長く到達し切れなかった奇跡の花。其の花言葉は――“奇跡”。
海の色にも、空の色にも似た其の蒼を部屋の隅から並べて行って、漸く一束分を並べ終えた頃、本数はぴったりと百本有った。
「百本の薔薇の意味は――“百パーセントの愛”、だよ」
「残り九束も凡て並べる心算か? 手伝ってやらん事も無いが――」
「否。此れは私が貰った物だから」
誰にも触れさせたくは無い。此の想いの一つ一つを。国木田君は何かを云いたそうに作業を続ける私の背中を見て居たみたいだけれど、其の内痺れを切らして部屋を出て行った。
此れが厭がらせだと思った国木田君は社で与謝野先生から貯古齢糖を貰って其の意味に漸く気付くのだろうね。
今日は二月十四日、聖ヴァレンタイン・デイ。巷せは女性から男性に貯古齢糖を贈る日と為って居る様だけれど、元々の起源としては男性が愛する人に向けて花を贈る日。……百本の花束を十個なんて、受け取り様に依っては確かに厭がらせでも間違いは無いのかもね。
「今年は先越されちゃったなあ……」
今年は比較的巧く出来たのに、と視線を向ける先には小さな台所と其処で生成された暗黒物質、其の上に添えた一本の紅い薔薇。国木田君は気付かなかったのか、見て見ぬ振りを為て出て行ったのかは判らないけれど。
七束目を解いて居た時に気付いた、蒼い薔薇の中に紛れた一本の真紅の薔薇。此処迄六十本の青い薔薇が有る中たった一本間違いが有ったとは思えない。そう考えるのならば此れは意図的な物だろう。念の為に残りの三束も確認してみたけれど、真紅の薔薇は此の一本のみだった。
「――嗚呼、そうか」
まるで君の様な真紅の薔薇が私に語り掛けて居る様だった。
千本の薔薇の中に在る一本の紅い薔薇。蒼い薔薇の本数はぴったり九百九十九本だった。其れは何方の数とも受け取れて、奇しくも私自身が用意した薔薇を加えるならば本数は丁度千一本と成る。
九百九十九本は――“何度生まれ変わっても貴方を愛する”。
千本は――“一万年の愛を誓う”。
千一本は――“永遠に”。
深く考えたくは無いけれど、費用も相当掛かったのだろう。花に掛ける金が有るのなら其の分肉を食べたいなァ、なんて考えもするけれど。
無意識に手に取った携帯電話は何時の間にか中也へと発信為ていた。一コール、二コール――三コール目が鳴るか否か、小さな振動音と共に通話時間が画面に表示される。
『――届いたのか』
「ん、届いたよ」
其れが花束の事なのか、其の本数に込められた意味の事なのか、問わずとも私には解って居た。だって君だもの、君の考える事を私が解らない筈が無いじゃあないか。
「ねえ、甘い物食べたくない?」
『…………買ったヤツだろうな』
「ううん、作ったの」
『殺す気か?』
普段通りの軽口の応酬も今日は何故か物悲しい。だって君が目の前に居ないから。
中々言葉で伝えられない事、こうやって形で表して呉れるのは心がむず痒く為るけれど、嬉しい気持ちも確かに有って。迚もじゃあ無いけど君に見せられない様な顔も為て居るのだろうけど、其れでも矢っ張り――。
「――逢いたい、って謂う口実でしょ?」
直接逢って、君の言葉で訊きたいんだ。
『――待ってろ』
其れから僅か数十分後、息を切らせた気持ちの悪い気配と共に荒々しく玄関の扉が蹴り開けられた。
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