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浮遊チョコの行方

「……せん、せ?」  見上げた先がいつもと違い、五十嵐(いがらし)は固唾を呑んだ。  明朗快活と謳われ生徒にも教師からの受けもいい体育教師が、ほの暗い表情で吐息が掛かりそうなほど間近に迫る。背後は机に阻まれ行き場はない。成長期ではあるが上背も筋肉量も体格が違うため、逃れるのはむずかしい。 「五十嵐……やっと、やっと手に入る」  感慨深げにつぶやかれても、嫌な予感しかしない。大抵こんな時は外れないのが悲しい(さが)。 「あの、離してくださ……っン!」  いつの間にかネクタイを外され、はだけられた裾から他人の手のひらが素肌を撫でる。 「……く、そッ!」  抵抗は括られた腕によって虚しく封じられる。 「ああ、綺麗だ。ずっと触りたかった」  脇腹から胸元にかけて湿った手のひらで撫で上げられ、言いようのない悪寒に鳥肌を立てる。振り上げた足の抵抗は難なく掴まれて開脚させられ、男の身体を間に挟まれる。ジャージ越しに押しつけられる、他者の屹立に吐き気がする。  ずっと、というのはあながち間違いではないのだろう。  嫌悪感から滲む視界の端で、周囲にばらまかれた写真の数々が主張する。  五十嵐が生徒会長に任命された頃から数ヶ月に渡り、送り続けられた隠し撮り。生徒会関連の行事だけではなく、プライベートである寮の写真もある。(さかのぼ)れば新入生代表をした時のものも。さらに同封されていたのは、どうやらそれらをオカズにしたらしい使用済みのゴム。 「あんた、他の生徒にはこんな事はしていないだろうな?」  教師としての立場を利用し、ストーカーして迫るなどとは。余罪は。大企業の御曹司が通う学園だ。弱みを握って揺するだの、否定はできない。  もう教師と生徒だなんて、目上者に対しての敬語だなんて関係ない。 「妬きもちか? ふふふ……五十嵐はかわいいな。もちろんお前だけだ」  湧き上がる侮蔑を抑え努めて冷静に問えば、返ってきた言葉に反吐が出そうだ。  あまりにも成立しない言葉のキャッチボールに現実逃避したくなる。外から聞こえる賑やかな声がまるで別世界のよう。そうだ、今日は生徒会主催『バレンタイン大会』だ。会長の仕事は山積み。こんな所で遊んでいるヒマはない。  五十嵐は自身に乗り上げる教師を鋭く睨みつけた。 「……ん、ぁあ、あ、アッ!」  荒い息の中で高い声が上がる。手首を縛られちいさな身動きしかできず、涙を流して懇願する。フラッシュの光とシャッター音が室内に響く。 「ん……も、やめぇ……」  青臭さをまき散らし、屹立から滝のように白濁を流す。靴底で痛いほどに裏筋を扱き上げ、派手に放埒(ほうらつ)する。 「本当に俺だけか?」  引きつった呼吸でコクコクと頷くだけでは許さず、さらに体重を掛ければ焦った声が上がる。 「ん、ぁ、ホン、ホントに、いがらし、だけぇ……!」 「……へぇ?」  無様に喘ぐ教師の耳朶へ、食むようにして低く吐息を吹き込む。 「二度と使いモンにならないよう、去勢してやるよ。セ・ン・セ?」 「ひ、ぃィッ♡」  顔はあえて動かさず目だけで見下し口角を舐め上げた五十嵐が、教師のペニスを踏み潰そう――とする瞬間。 「五十嵐無事かッ!」  なだれ込んできた風紀委員の面々。 「ぁあ?」  胸元までワイシャツをはだけさせ妖艶に微笑む生徒会長が、腕を縛られ床に転がって局部を露出したままの体育教師を足蹴にしている姿。思い描いていた真逆の構図に、それぞれが目を丸くして固まる。 「早いな風紀。優秀なこって」  せっかく自らの手で不能にしてやろうとしたが、興醒(きょうざ)めだ。 「……ぁ、あぁ、ぁ……」  戻した視線の先では、ちいさく声を漏らしつつ新たにアンモニア臭を漂わせていた。五十嵐は目を眇めて教師から退き、汚れた靴を放る。寒い時期ではあるが毛足の長い絨毯と、ほどよく整えられた空調によって感じさせない。汚物に(まみ)れた靴と力任せにむしり取られたネクタイは新調を余儀なくさせる。 「おい、有馬(ありま)。こんなに人員寄越して、他の警備は問題ないだろうな」  万年人手不足のくせに。それでなくともイベントには窃盗暴行強姦が横行しやすい。  とんだ治安だ。上流階級の縮図とされる、御曹司が集う由緒正しい学園が聞いて呆れる。 「ああ」  委員長のため息混じりの報告に顎を引きつつ、連行されていく教師を視界の端で捉える。  現在生徒会主催の『バレンタイン大会』真っ只中だ。落ちがあっては、先の生徒会役員にどんな嫌味を言われるか解らない。まぁ彼らも下級生である自分たちを心配してのことであるとは()むが、大半はおもしろがってだ。  ヒマ人共め。  辺鄙(へんぴ)な立地の全寮制男子校は周囲を山に囲まれており自家用ヘリでも飛ばさない限り、公共機関にたどり着くのに二時間は余裕にかかる。娯楽もなく、ヤりたい盛りは手近にいる男に走る者も多い。まぁそれも卒業したら黒歴史として闇に葬り去るのが大多数である。  男ばかりの潤いのない中で、どうせ家族からしかチョコを贈られないだろう憐れな男達にかけた慈悲(じひ)によって、バレンタインデーに宝探しを開催する。生徒会主催で。もちろん任意参加ではある。そんな最中(さなか)に発生したストーカーからの接触に、思いのほか時間を割いてしまった。  セットしていたはずの髪が落ちてきて、若干苛立ちながら五十嵐はかき上げる。 「まだイベント中だ。行くぞ」 「かーいちょー! ふーせんいっこ帰ってきてなーいー」  間延びした声に五十嵐は書類から顔を上げた。両手に色とりどりの風船を持つファンシーな出で立ちの会計が報告を寄越す。 「……ひとつ、か。なら問題ない」  全校生徒の倍の数を飛ばし、他は戻っているならば誤差の範囲内だ。風船と言っても、超小型監視カメラを付けた遠隔操作も可能な五十嵐お手製品である。賞品はバレンタインという名目上のチョコにはじまり、食堂無料券、有名テーマパーク無料券、宇宙旅行無料券、果てはローションやコンドームなどアダルトグッズなど多岐にわたる。括り付けた風船を生徒が追う単純なルールであるが、一定数は楽しんでくれたらしいと聞く。ならば徹夜した甲斐もあるというもの。  大方の処理を終えた生徒会役員面々の背を見送って、五十嵐はマグカップに口をつける。熱い。  ひとまずは落ち着いた。  次のイベントは上級生追い出し会、もとい卒業式までは少し間がある。五十嵐の不精(ぶしょう)によってうっかりと先延ばしていたストーカーの件も罠を張って首尾良く解決した。そろそろ風紀から学園側へと主導権が渡っている頃か。後日事情聴取はあるだろうかとウンザリする。 「……面倒だな」  コーヒーの湯気に息を吹きかけつつ、抑えきれなかったため息を乗せる。  そもそもが、なぜ自分だったのか。  今まで『抱いて欲しい』と直接的な誘いはあったが、『抱きたい』と欲を示す者はごく少数。親衛隊の生徒のようにちいさく可愛げがあれば引く手あまたであろうが、残念ながら平均的な身長であるし色欲を抱かれるほど魅惑的な身体ではないはずだ。  手元のもうもうと立ち上る湯気に半目になる。  この学園には御曹司がごまんといる。その中から運悪く選ばれたようだが、五十嵐の家業の旨味とやらも微々たるもので、イチ生徒にそれほど魅力があるとは思えない。生徒会長が理由だとしても、一年ほどで変わる首なので謎なまま。だが今さら体育教師に問いただす気にもならない。結局解らずじまいだ。 「五十嵐」  ノックもなしに蹴飛ばさん限りに扉を開け放たれる。 「有馬」  顔を覗かせたのは風紀委員長殿。普段は委員の誰かを寄越すか、通信機器を通してのやり取りが多いのに珍しい。 「風紀も撤収したか。お疲れ」  手にしていた書類とコップを横に置き、機嫌の悪そうな相手に向き合う。浅くとはいえ机に腰掛けていたのは、さすがに行儀が悪い。  当代風紀委員長・有馬は、大変有能であった前任者である委員長御自ら口説き倒した逸材。顔や家柄や成績だけで選ばれた、お飾りの生徒会役員とは根本が違う。静かに見守っているだけかと思えばズッシリと芯が通っていて、お調子者の多い生徒会の軌道修正をしてくれる大切な立ち位置。鍛えられた力強い胸板に信頼を寄せる者は少なくない。 「面倒事は増えたがな」  やや棘のある言葉に心当たりのあるのは、先ほど五十嵐が個人的に関わった一件か。 「散々な言い草だな。俺は『姿見えぬストーカーに怯えていた、か弱い被害者』だぞ」 「あの場面だけなら、どう見ても加害側だ」  失敬な。  縛られ逃げられない体勢から口八丁手八丁で形勢逆転した、くだんの努力をなんだと思っている。まあ、本当にヤバくなった場合の保険はかけていたが、使わないに越したことはない。 「風紀や特待生のように体力のバケモノではないからな。一般人の俺には健気に震えるしか身を守る術はない」  特待生といえば先日、大会記録更新したと聞いた。目の前の男も有名な師の元で武術を嗜んでいると聞く。どちらにしても可も不可もない一般的な運動神経である五十嵐からすると底知れないヤツラばかりだ。 「返り討ちにしたクセに白々しい」  眉間に皺を寄せた有馬が、悪態をつきつつ手を伸ばす。二人の間に揺れるコップの湯気。壁を背に嫌味なほど長い足を組んで、伏せられる彼の長いまつげ。 「あの状況でよく立ち回った。今回の件に関してキサマの落ち度はない。あるとしたら、ひとりで対処した点だけだ」  まさか(ねぎら)いの言葉を受けるとは思わず、五十嵐は静かに目を瞬かせる。 「……まあ、物証は送られていたから目星はついていた」  動揺を隠すよう机に広げた写真を見やる名目で、有馬から視線を外す。  指紋のみならず、ご丁寧に精液入りのゴムを寄越したのだから自ら証拠を提出しているのと同等だ。久しぶりに科捜研セットが大活躍だった。五十嵐の本来の畑は機器関連ではなく、科学分野。本領発揮ついでに、うっかりとストーカーのマゾヒズムまで(えぐ)ってしまった。残念ながら、今後相手をしてやる気はさらさらないが。  早い段階で犯人特定でき、日々エスカレートする行為に衝動を抑えきるのは難しいと踏み、仕掛けられるとしたら学園内が賑わうイベントであると目算をつけた。予測がつけば対策は可能。ありあまるほどの物証はあったが直接彼の口から確証が欲しかったため、あえて泳がせて罠を張り人気のない場所で虎視眈々と待ち構えた。  縦横無尽に飛ぶ風船にカメラをつけて、学園内で横行する窃盗暴行強姦を監視し風紀と連携を図りつつ、体育教師の動向を窺っていた。ただ、自分以外には小型カメラの存在を知らせていなかっただけで。  ケロリと手の内を明かした五十嵐に、脱力した有馬は長いため息をついて片手で顔を覆おう。 「もっと頼ってくれ……」 「充分頼りにしているぞ」  時と場合により。  コップ越しにジットリと()めつけられ、なぜか痛くもない腹を探られる。 「落とし前は自分でつける」 そもそもこの件は五十嵐個人的なもので、生徒会も風紀の仕事からも外れている。他者の介入の余地はない。 「――で?」  まさか無駄話をするために、わざわざトップ自らが足を運んだわけではないだろう。同じ棟とはいえ、風紀室と生徒会室はだいぶ距離は離れている。口数少なく本題を促せば、本日何度目になるか解らないため息をつかれる。幸せ逃げるぞ。 「『他に被害者はいない』という結論になった。キサマ以外に、な」  なるほど。この要件ならばメールも委員の口も借りられない。  いくら自分とのやり取りした場面に立ち会った風紀だとしても、大多数は詳しい内情は知らされていない。あの教師もオモテ向きの顔は、生徒や教師から慕われ頼れる人格者として支持されていたのだ。おいそれと納得はできないはずだ。むしろ疑問や反感を持つ者も少なからず発生するだろうと安易に想像できる。  教師本人から余罪について口頭で聞き出し、さらに映像や音声としては残っているが確証はなかった。学園には見目麗しい将来有望な御曹司はざくざくといる。泣き寝入りしていないと否定はできない。もともと男に対してのストーキングの認知度は驚くほど低い。女性でないという理由で世間体を気にして申告が極端に少なく闇に葬られる。性別関係なく起こりうる出来事なのに。 「……そうか。なら問題ない」  一番の懸念事項がひとまず解決された。  ホッと肩の力を抜いて、知らず緊張していたと気づく。  学園側と共に、体育教師の私室に入り否と確認できたということだ。風紀だけではどう考えても越権行為である。だが現時点での結論であり、今後も内々で調査を続ける必要はある。 「問題、ない?」  噛みしめるように低く問われ、音を立てて置かれるコップ。 「一年以上前から、公での活動だけでなく寮の隠し撮りまであって、挙げ句に迫られたんだぞ!」 「お、おう……落ち着け」  有馬の鋭い剣幕に押され、顎を引く。  どうやら目の前の男はストーカーに対してだけでなく、五十嵐にも腹を立てているらしいとくむ。  確かに貞操の危機ではあったかもしれないが、命までは取られていない。幼い頃のように、日常茶飯事だった身代金や家業目的の誘拐はない。実に平和だ。  ここまで決着に時間を食ったのは、形式()った任命や無駄に多いイベントなどでストーカーに割く時間がなかったのと、ただ単に面倒で放置していた五十嵐の自業自得な面が大半である。 「仮に俺の生命活動が停止すれば、実家ではわか――」 「それ以上、自分を軽んじるな!」  五十嵐の言葉尻を奪うようにして、有馬が声を荒げる。 「キサマも、認めている俺も、馬鹿みたいだろうが!」  見事に火に油を注ぎ吠えられる。  普段は冷静沈着なのに珍しいと、どこか他人事のように動向を見守る自分がいる。 「それは、悪かっ……ありがたい、な」  謝るのもおかしい気がして、逡巡(しゅんじゅん)して言い直す。自分にも他者にも厳しい有馬に認められているとは名誉なこと。  ある種、人気投票で決まる生徒会は最終的に風紀の承認も必要だ。責任感の強い有馬はソコまで考えているだろう。自分が会長として立っている間はヘタは打てない。ゆくゆくは有馬にも迷惑をかける。それはいただけない。  返答はお気に召さなかったようで、見上げる先は腕を組んで渋面のまま。 「――キサマの」  切られる言葉に無言で先を促す。 「キサマの思い描く未来に、『五十嵐国明(くにあき)』お前自身はいるのか?」 「……え?」  意味を掴み損ねて困惑する。 「信用していないだろう。誰ひとりとして」  静かに目を見開く。  ややあって苦しくなってから、止まっていた呼吸に気づかされる。  聞き分けのない子どもに諭すようにして、ひとつひとつ言葉を切られる。 「確かに優秀ではある。ひとりで抱えて物事の処理を滞りなくできる。周囲も頼りすぎている節が問題だ。そしてそれを良しとしているキサマはさらに厄介ではある」  キャパシティが許されるのであれば、可能な限り自分でできることはやりたいだろう。そして、人は大なり小なり自らの存在意義を見出したがる。必ずしも悪いことではないと、五十嵐は認識している。 「会長として他者に生徒に尽力して先を促すことは重要だ。だが、その中で一緒に笑っているキサマの姿はあるのか?」  言わんとしていることを、やっと飲み込む。  代表として生徒の先行きの道しるべを示し、その後ろ姿を眺めて終える。たしかに有馬の指摘の通り、自分の姿は笑っている生徒達から一歩離れた所にあるだろう。   問いかけの形式ではあるが、コレは断定か。 「甘えっぱなしのたかが一般生徒のために、貴重な時間を割き、身体と能力を張る必要はない。キサマ自身が大切にしないのならば、俺にお前を寄越せ」  一般生徒をゴミクズか何かのようにたとえるのは、風紀の長として人としていかがなものか。新聞部が喜んで飛びつきそうなゴシップだ。生徒会室に盗聴器は仕掛けられていないだろうなとヒンヤリと冷たい汗が背筋を垂れる。 「残念ながら、今は生徒会長としての役がある。風紀にはやれん」  現風紀委員長が現生徒会長を引き抜くだなんて前代未聞だ。個人的には有馬の下で委員の活動をするのも退屈はなさそうだと、想像してちいさく笑みをもらす。 「違うな。風紀や生徒会は関係ない」  輪郭を確かめるようにして、大きな手で頬を包まれる。 「俺個人的に惚れている、『五十嵐国明』を欲しい」  上げた視線の先は、思いのほか真剣で。  緊張をひとつ飲み込んで、離れがたいぬくもりをやんわりと外す。 「魅力的な話だが、遠慮しておく」 「……そうか。残念だ」  いつの間にか扉に移動した有馬は肩越しに提案した。 「いい加減に帰るぞ」 「おい、まさかその部屋に戻るつもりか」  自室のカードキーを取り出して通そうとすれば、有馬から待ったがかかる。  基本的に一般生徒は相部屋だが、役職づきは個室が宛がわれている。当然、五十嵐も有馬も一人部屋だ。今回のようなことを考えると、他に被害者が出なくてよかった。 「問題が?」 「問題しかない。カメラが仕掛けられた部屋だろうが」 「犯人は捕まったぞ」  仮にカメラが回っている状態だとしても、悪用する人間が不在ならばいいと思うのだが。  確かに送られた中には、風呂上がりに下着姿でアイスを囓っていた写真もあった。しまりのない姿を風紀の面々に曝して悪いことをした。そういえばあのパンツを近ごろ見ていない。どこへしまい込んだのだろうと薄ら寒い考えが過ぎる。  ため息をつきつつ有馬が脱力する。 「小言をいいたくはないが、もう少し慎重になってくれ」 「……面倒だな」  世はバレンタインデー。  他の生徒会役員や親衛隊の部屋に泊めてもらうにしても、夜も更けていて邪魔になる。それでなくとも本日は恋人たちのイベントの日だ。ノコノコ訪室もできない。  顎に手を当てて思案した五十嵐は踵を返す。 「どこへ行く」 「共有スペース」  あそこならばソファがある。ただし役員フロアではないので一般生徒の目もあるが、身体もそろそろ限界なので気にせず眠れそうだ。 「っばっか!」 「失礼な。全国模試のトップを捕まえて何を言う」  再び呻いて顔を覆った有馬を横切れば、腕をつかまれ阻止される。 「今日は俺の所に来い」 「遠慮する」  それだけは嫌だ。 「寝るのは俺と別の部屋にする。それとも、男が怖いか」  ストーカーの影響を危惧(きぐ)されているのか。それほどヤワな神経は持ち合わせていない。 「ちが――」 「ちょっとぉーうるさーいー! ケンカは他でやってぇー」  ひょっこりと隣の部屋から顔を出したのは、寝ぼけ眼で色気ダダ漏れの会計。サイズの合っていない大きなシャツの首と胸元には、執着の赤い跡が覗く。どうやらオタノシミの最中だったらしい。 「悪かったな」  会長の隣の部屋は副会長だ。なるほどと合点のいった五十嵐は首肯する。 「もぉー……かいちょーも、早くいーんちょーにチョコ渡しなよぉー。日変わっちゃうか――」  言い終わる前に、別の手が会計を部屋に引きずり込む。  カシャン。  扉だけでなくご丁寧に鍵までかけられ、訪れた静寂。 「……有馬もよく休めよ。じゃ」 「逃げるな」  片手を上げて退散しようにも、さすがに騙されてくれないか。 「心配しなくても、チョコは有馬の部屋に届いているはずだ」  舌打ちしたい衝動に駆られながら、しぶしぶ口を開く。  生徒会室に戻ってきていない、ひとつの風船は無事に有馬の部屋に居座っている。そう設定した。だから部屋には行きたくない。一体どんな顔をして、有馬と過ごせばいいのだ。しかも何をとち狂ったか、自分に告白してきた相手だ。 「チョコはありがたくもらうが、そうじゃない。俺からの告白も最悪、聞かなかったことにしていい。とにかく、キサマは身体を休めろ」  海のように心の広い男だなと、変なところで五十嵐は感心する。自分を袖にした相手と、恋人たちの有名なイベントの日を過ごしていいのか。もしくはそれほど懸想(けそう)はしていないということか。  たどり着いた陰鬱な結論に自らドツボに陥る。もちろん振った手前、表情には出さない。 「ストーカー相手してイベント回していただろう。会計に聞いたぞ徹夜で準備していたって。一体、何徹目だ」  おしゃべりめ。まぁ、自分を心配した上での情報提供であろうと想像に(かた)くない。さすがにそろそろ聞き分けないとバチが当たりそうだと隣の部屋に思考を飛ばす。 「……わかった。ラグでも床の上でもいいから寝かせろ」  もはや悪態つく気力もない。  有馬に腕を掴まれたまま、五十嵐は仕方なくついていった。 「寝床用意してやるからシャワー浴びろ。いいか、湯船には浸かるな。絶対沈没するだろ」  指を差されながら重ねて注意される。どれだけ信用されていないのだ。  通された有馬の部屋は意外と整理されていた。自分以外の役職づきの部屋へ訪れたことはなかったが基本的な作りはほぼ同じらしい。横目で確認した、風船はふよふよと室内に浮かんでいる。さすが俺、目測(たが)わず。  五十嵐は己の有能さを自画自賛して、浴室の扉を開けた。  熱いシャワーで体育教師の手の感触は流せてサッパリしたが、同時に目も覚めた。用意されたスウェットに腕を通しつつ身長はそれほど変わらないはずが、余るウエストに体格の差を見せつけられて眉をひそめる。己の薄い腹を擦りながら、今後の筋トレを心に誓う。 「ほら」 「サンキュ」  差し出されたコップにはゆるく湯気が(のぼ)っている。漂う匂いによって、いつ食べたのか覚えていない記憶もあやふやな最後の飯は、栄養補助食品を囓っただけだと気づく。  好みの温度と広がる甘さに、ホッと息をつく。  そういえば生徒会室で飲もうとした眠気覚ましの熱いコーヒーは、結局ひとくち含んだだけで目の前の男にすべて奪われたのだった。  そもそもが、有馬とこんな風にプライベートで茶を飲み交わすだなんて想定していなかった。五十嵐が避けていたことも大きいが。  視線を感じて黒い水面から顔を上げれば、見覚えのあるラッピングが飛び込む。無事にたどり着いた風船は回収して帰ろう。明日にはしぼんでカメラの機能は停止しているはずだが。 「礼をいう」 「日頃から世話になっているからな」  友チョコの存在はここ数年で知った。いい習慣だ。 「ひとつ聞きたいが、こっちとの差は何だ?」 「……」  何故両方あるのだ。  収集した情報から導き出して、有馬はイベントには興味ないと確信していたのに。  示された二つの包みの内、一つはイベントで配った物、もう一つはこの部屋指定で風船によって直接届けた物。明らかに後者の方が手が込んでいてサイズも大きい。 「…………せ、世話二ナッテイル、カラ、デス……」 「ほう?」  まるで尋問を受けているようだ。いや、正しく受けている。風紀で恐れられている、取り調べの鬼が目の前にいる。  嫌な汗をかきつつ、返答を準備していなかった自分を悔やむ。せめてシャワーを浴びている時にでも、万に一つあるかもしれないと想定しておくべきだった。  普段はもっともらしくできる弁明も、張り付いた喉ではまともに紡げない。ああでもないこうでもないと五十嵐が思考を巡らす間、ちいさな机を挟んで向こう有馬は一言も発しない。微笑んではいるが、明らかに目が笑っていない。それが焦らせ、考えを鈍らせるという悪循環になる。 「……嫌では、なかった」  ぽつりと、もらす。  あまりの静けさに自分以外いないのではないかと錯覚しそうになるが、目の前のプレッシャーに怯む。とても有馬の表情を窺う気になれなくて、視線を彷徨わせて手元のホットチョコの水面にたどりつく。 「『惚れている』って。俺も、その、有馬のこと好きだから。皆に配った義理チョコより、いいのを届けた」  だが、想いには応えない。 「生徒会室で有馬が嘘を言ったとか、信じられないとか、ではなく。仮に、付き合ったとして。だが……卒業したら、別れるだろ? 先輩たちみたいに」  何組も仲睦まじい先輩達を見てきた。迎える破局も、同じ数だけ。  有名企業の子息が溢れている学園。在学中では一般的であったものが、ひとたび外に出れば異様に映るものも多々ある。その筆頭が同性愛であり親衛隊であり、総じて学園生活そのものだ。卒業後に跡取りとして、次代を望まれる者も少なからずいるだろう。当然、子を成せる異性とのつき合いになる。  黒歴史として葬り去られるのならば、淡い恋心を抱えた綺麗な思い出のままがいい。社交の場で偶然ででも会ったら、たとえ上辺だとしてもたわいのない話をしたい。  『ない者』として記憶から抹消されるのは辛い。 「期限のあるつき合いは、苦しいな。――なら、はじめない」  恋人の間は幸いを感じるだろうが、同時に残された時間を憂いてしまうだろう。 「意気地なしなんだよ、俺は」  苦く笑って、心に巣くっている(うれ)いを吐露する。  もともと有馬への想いは墓場まで持って行くつもりだったのだ。普段ならばこんなことまで口にしないはずが連日の徹夜で判断力が鈍っているのか、告白されてらしくもなく舞い上がったか、そのどちらもか。  コップに広がる波紋は己の心情を表しているように。 「わがままかもしれないが有馬とは学園内だけでなく、卒業して以降も繋がりが欲しい。さっき指摘されたように、他の生徒と一緒の場にはいないかもしれない。だが生徒から離れたところで、自分も微笑んでいる希望を見いだしたい」  チョコ以外にも、ベラベラと要らぬ話をした。  痛い静寂に耐えかねた五十嵐は、コップを置いて立ち上がろう――として、阻止される。 「チョコのことは話した。これ以上言うことはない。寝る」 「ここまで言われて、放すわけがないだろ」  掴まれた腕が熱い。身じろぎしても緩まない。生徒会室では見逃してくれたのだと、遅れて気づく。 「嫌だっ!」  腕を突っぱねて拒絶するものの、強い力で引き寄せられる。包まれるぬくもりに匂いに絡めとられ、己に課した誓いが揺らぐ。  これ以上、曝かないでほしい。  噛みしめた下唇から鉄の味がにじむ。 「キサマも俺も互いを想っていて、拒む要素がどこにある」  鋭い眼差しに射られる。 「……話を、聞いて、いたか?」  これだけ説明してやって解らないとは。切り裂かれるように身の内を話しても、通じていないのはつらい。有馬なら汲んでくれるだろうと、甘い考えが間違いだった。所詮は他人だ。 「オキレイな御託(ごたく)はいい。勝手に決めつけて、勝手に諦めるな。本当に見ているだけで満足なのか。手に入れたくないのか」 「そん――」  静かな怒気をあてられ、五十嵐は口をつぐむ。 「そもそも俺の気持ちを(ないがし)ろにしているだろう。俺を見くびるな!」  痛いほど掴まれ、鼻が触れるほどの距離で凄まれる。眼がきれいで見入るが、そんな状況ではない、と頭のどこかで己に突っ込みを入れる。欲しくなってしまうから、できるだけ近くに寄らないようにしていたのに。 「今まで卒業したその他大勢に、俺を当てはめるな」  指摘され、瞠目する。  緊張を飲み込む嚥下の時間が、思いの外かかる。  先ほどのまでのまくし立てる勢いは潜め、有馬から心地よい重低音で言葉を重ねられる。 「有馬蒼と五十嵐国明、二人だけの問題だ」 「……ぁ、」  ちいさく声をもらして、止まった思考を動かす。  たしかに先回りして結論を出し、有馬自身を見ていなかった節はあった。  あれこれと難しく考えたが、実は単純なことなのかもしれない。 「悪い……」  やさしく額同士が触れ合い、妙になれなれしい仕草に腰が引ける。近い。 「他のヤツの雑音なんざクソ食らえだ。俺だけを信用しろ」  モヤモヤと霧の中にいた自分が、突如晴れて開けた場所に出たかのような錯覚にされる。  目を背けて先延ばしし、うじうじと悩んでいたものを有馬に散らされる。 「これから、証明し続けてやる」 「頼もしいというか、傲慢というか」  見開いていた眼の水分を取り戻すかのようにまたたきを繰り返し、同時に呆れかえってどこか夢見心地で返事をする。 「……ん」  ぼんやりした五十嵐を引き戻すように、擦られた手首の内側を見やる。未だ掴まれたまま。従わされる力ではなく、羽根で撫でるようなやわらかな力。妙な気を起こしそうだ。 「跡ついてるな」  縛られて抵抗した時のものだろう。  滑るようにして手のひらに移る感触すら、どこか遠い。 「今日は色々あった。イベント準備で忙しかったのだろう。もう寝ろ」  まったくだ。  ストーカーとバレンタインイベントの日に続けて容赦がない。数日前から五十嵐が不眠不休であったのも知っているはずなのに。  規則正しく背に触れる振動に、ろれつも怪しくなる。 「ああ……」 「今日を逃したら、煙に巻いてうやむやにするだろう。キサマは有能だからな」  あたたかさの宿る身体に、とうとう目を開けていられなくなる。 「自分に無頓着な分、俺が大切に甘やかしてやる。一生な」  おやすみ。  額に感触を覚えながら、五十嵐の意識は途切れた。 END

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