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春は、まだ
春は、まだ少し、痛い。
「おーい」
土曜日の朝。アラームをかけずに寝られる幸せ。……を、壊すのはいつだって嵐の声。聞こえなかったふりで布団に潜る。真冬ほどではないにしろ朝はまだ寒い。自分の体温で温まった空間から出る気にはなれない。
「起きろ」
嵐の声が大きくなる。パタパタというスリッパの音も。休みでも変わらず起きて動けるのは尊敬するし、朝ごはんを作っていただいているので文句は言えない。でもまだ起きたくない。
「起きないと、春彦の朝ごはんナシだからな」
嵐が帰ってくるまでは朝ごはんなんて食べなくてもよかったのだから、今日だってこのまま布団に籠城(?)してもいい。いざとなれば自分ひとりでごはんくらい作れるし食べられる。頭ではいくらでも言葉が出てくるのに。
「春彦」
嵐の声がすぐ近くで聞こえ、分厚い布団の中で自分の心臓が跳ねた。眠気が一瞬で消える。
「……なんだよ」
布団からちょっとだけ顔を出せば、嵐が笑う。起こされて不機嫌、という表情を作ったはずなのに失敗したらしい。悔しい。悔しいけど、嵐は、朝の布団よりも簡単に俺の温度を上げてくれる。
「ご飯食べて、デートしよ」
「デートって……」
たぶん、また失敗した。嵐が春の風みたいに柔らかく笑ったから。
嵐と出会ったのは大学生のとき。ゼミが同じですぐに仲良くなった。なんだかんだあって(割愛)、付き合うことになったけど、社会人三年目の終わりに別れた。
好きじゃなくなったわけではなくて、気持ちだけで言えば「別れ」を選びたくはなかった。
でも、「春彦はどうしたい?」と嵐に聞かれて、「別れる」と答えた。
嵐は「嫌だ」とも「待っててよ」とも言わず、「わかった」とだけ。
二週間後、嵐は海外に行ってしまった。
「俺も一緒に連れていけ」とか「帰ってくるまで待ってる」とか浮かんだ言葉はいくつもあったけど、どれも口にできなかった。一緒に行ったところで何もできない。嵐の帰りを家で待つだけなんて無理だし、負担になりたくない。
そもそも今の仕事を辞めたいとも思っていないし、嵐だってそんなことをして欲しいとは思っていないだろう。だからと言って何年かかるかわからないのに「待ってる」なんて軽々しく言えない。そんなの重すぎる。お互いを縛るだけの呪いになりかねないのだから。
嵐はいつだって自由に自分のことをしていればいい。だから、別れを選んだことを後悔しなかった。
「ここ?」
嵐が車を停めたのは大きな池のある庭園の駐車場。季節ごとの花が咲く、地元では有名な観光地。土曜日とあってそれなりに車がある。と言っても他県からわざわざ来るほどのところでもないので、混んでいる、ということはないだろう。入ったことないけど。
「たまにはいいじゃん」
「……いいけど」
嵐が俺の顔を見て笑う。それだけで自分の顔がうまく作れていないことを思い知らされた。どんな場所でも俺が拒まないことを嵐はきっと知っている。
入り口には見頃の花の説明があった。
今は梅の花が咲いているらしい。「なんでよりによって梅なんだよ」とは思ったが口にはしない。
受付で入場料を払い(嵐がまとめて払った)、門をくぐる。
門は開かれていて、壁で囲われているわけでもない。それなのに空気が変わった気がした。
目の前には大きな池。取り囲む芝生の黄緑色。植えられた木々が作る影。真上の空を遮るものはなく、視界が広い。風が葉を揺らす音がする。吸い込んだ空気は柔らかく、胸の奥まで洗われるようだった。
「気持ちいーな」
思わず両腕を伸ばして言えば
「だろ?」
と嵐が得意げに笑う。
午前中の澄んだ日差しの中で見る笑顔は、見慣れていても心臓に悪い。俺は視線を嵐から逸らし、周りへと向ける。
「……でも、じーちゃんばーちゃんしかいねえな」
庭園を歩くのは自分達よりも年配の方ばかり。混み合うこともなく、急ぐこともなく、それぞれがゆっくりと歩いている。
「まあまあ、のんびりしてていいじゃん」
人混みは苦手だし、寒いのも嫌い。外出するより家でまったりしていたい。そんな俺のために選んだのだろうか、と思ったら文句も言えず、「まあ」と返すことしかできなかった。
ピンク、白、赤。上に向かう枝もあれば、枝垂れているものもある。
「キレイだな」
嵐が見上げるのは、薄いピンク色の梅の花。桜を少し濃くしたような。
「……だな」
もう三年も前のことだ。嵐と別れた春は。
嵐は当初の予定よりも早く、去年の夏に帰ってきた。待っていたわけではない。嵐だけを想って過ごしてきたわけでもない。でも帰ってきたという連絡をもらったとき、どうしようもなく会いたくなって、我慢できなかった。
離れていた二年半のことを俺たちは口にしない。何があったか、何を思っていたか。再会できて、また付き合えたのだから、過去なんていらなかった。
けれど、それはふとした時にやってくる。
胸の奥で小さな痛みを鳴らす。
嵐と別れたあの日も梅の花が咲いていた。
「梅の花って気にして見ないと気づけないよね」
桜は毎年気にするのにさ、とそんなことを嵐は言った。庭園ではなく誰かの庭先から伸びる枝。駅までの道を隣ではなく前後で歩いた、別れたあとのほんの数分の出来事。
嵐は俺に呪いをかけたのだ。梅なんて気にしたことのなかった俺が、毎年見つけてしまう呪いを。その度に嵐を、別れた春を思い出す呪いを。
「春彦」
視線は自然と下がり、梅ではなく地面を見ていた。嵐に名前を呼ばれてゆっくり顔を上げる。
「まだ、痛い?」
春になると痛む、ということを話したことはない。それなのに嵐は自然と聞く。
「え」
「……俺も、まだ痛いから」
何が、とは聞かなかった。聞かなくてもわかる。俺たちは同じ顔をしているのだから。
「春彦、あれ飲みに行こ」
表情を緩めた嵐が、遠くののぼりを指差す。
――梅茶あります。
文字を読み取った俺は、渋いな、と思いつつ「いいけど」と答える。
のぼりが立てられた休憩スペースへと二人で向かう。何にも急かされることなく、ゆっくりと。いつのまにか馴染んだ速さに小さく笑ってしまう。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
いつかの自分たちも同じように、ゆっくりと歩いているといい。
そのときも、春はまだ、痛むだろうか。
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