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プロローグ 七月七日・七星

 重苦しい灰色の雲のすきまに茜色の夕焼けがのぞいている。電車が光の筋を描きながら鉄橋を駆け抜けると、古いビルの窓ガラスはすこしだけ揺れる。 「それではみなさま、今日から〈遊屋(ユーヤ)〉ラストイベントの開幕です! 八月二十二日まで、よろしくお願いします。乾杯!」 「乾杯!」  木のぬくもりを感じさせるカフェスペースの中央に大きな笹飾りが立っている。七星(ななせ)は顔なじみの面々とともにジンジャーエールのグラスを掲げる。「遊屋」と書いて〈ユーヤ〉と読む小さなアートセンターで、ささやかなオープニングパーティがはじまる。ロビーを兼ねたカフェは涼しく、外の蒸し暑さが嘘のようだ。  笹飾りを囲むのは七星のような運営スタッフのほか、イベントに参加する地元のアーティストや役者たち、それにこのスペースの常連客だ。七星以外はみんなワインやビールのグラスを持っている。ノンアルコールの常連はまだ姿を見せていない。 「いよいよだね」 「客入りどう? 予約は?」 「土日はまあまあかな」  七星はグラスにそっと口をつける。炭酸とジンジャーの強烈な辛みが喉をくだる。今日はあの人は来ないのだろうか――頭にうかんだ考えを打ち消すように、さらにもうひと口炭酸を飲む。  そんなことを思ってもしかたがない。あの人が来ても来なくても、何が起きるわけでもないのだから。  いや、ちがう。僕は考えるべきじゃない。 「オープニングにみんなが来てくれて、ほんとに嬉しい」  数歩離れた壁際で、魚居(うおい)がまじめな表情で話している。ショートヘア、年齢不詳のアルファ女性。この街に〈遊屋(ユーヤ)〉を作って二十年になる。手に持ったグラスはもう空だ。ひと息で飲み干したにちがいない。パートナーの祥子がビール瓶を渡している。ここで開かれるパーティは手酌しか認めない。 「あ、でも三城(みしろ)さんはまだかな?」  その名前が耳に入ったとたん、七星の胸がどくんと鳴る。 「来るよね?」 「来るでしょ――あ、ほら、噂をすれば」  魚居の目線が入口へ動くが、七星はふりむかない。それなのに彼が来たのはわかっている。彼が階段をのぼり、自分と同じ空間に足を踏み入れるだけで、存在を感じてしまう。別に不思議なことではない。オメガは匂いに敏感だ。アルファが同じ空間にいればすぐわかる。頭では納得しているのに、彼の存在は七星を圧倒する。  彼――三城伊吹(みしろいぶき)。 「マツさん、無事はじまってよかったですね」  七星はふりむきたい衝動を抑え、隣のスタッフに話しかける。 「あーあ、はじまっちゃったなあ」  マツはまのびした口調でいう。二十年前から、つまりこのアートセンターの立ち上げからずっと関わってきたベテランスタッフだ。 「ま、がんばろうよ。四十日も毎日プログラムあるって、正気の沙汰じゃないから」 「そうですね。でも最後だし……」 「そうね」  今夜のパーティにいるのは何人だろう? 三十人……もうすこしか。七星は左右をちらりとみるが、入口ちかくのカフェカウンターの方はみない。それなのに耳は勝手に彼の名前を拾ってしまう。 「三城さんいらっしゃい。何にします? 七夕プロジェクトのオープニングだから今日は無料です。ビール?」 「ジンジャーエール。辛口で」  伊吹は七星とちがってアルコールが苦手なわけではない。それなのに伊吹が自分とおなじものを選んだとわかって、七星の胸がまたどくんと脈打つ。魚居と祥子がカウンターの方へ歩いていく。 「三城さん、ありがとうございます」 「まさか、遅れて申し訳ない。乾杯に間に合うように来るつもりだったんですが」 「はじめたばかりですよ。食べ物は早い者勝ちです。お仕事帰りですよね?」 「ええ、いつもと同じです」 「八月二十二日まで毎日上演や展示がありますから、余裕がある日はカフェ以外も見て行ってください。これで最後だから、メンバーズパス、無駄にしないでくださいね」 「そうですね。そのつもりです」  伊吹の声は低く、すこし離れただけで聞こえづらくなる。それなのに同じ声が自分のすぐそばで、耳元でささやいた瞬間を思い出して、七星の背中はかっと熱くなる。  だめだ。気を散らさないと。あわてて横をむいたが、マツは七星の知らない誰かと話しこんでいる。ベテランは友人もつもる話も多いのだ。七星はジンジャーエールのグラスを片手に、軽食をならべたテーブルのすきまにすべりこむ。うつむいて巻き寿司に箸をのばしたとき、伊吹の気配をすぐ近くに感じて、手が震えそうになる。 「看板少年の七星くん、三城さん来てるよ?」 「看板――はやめましょうよ、祥子さん」  七星は苦笑まじりに答え、巻き寿司を紙皿にのせて顔をあげる。テーブルの向こう側に祥子がいて――その隣に伊吹が立っている。  祥子に返事をしたはずなのに、七星の視線は自分の意思を裏切ってしまう。伊吹はいつものビジネススーツだ。七星にはあまり縁がない服装をぴしりと着こなしている。七星より五歳上とはいえ、同じ年齢になってもあんなふうにスーツを着こなせるとは思えない。  カジュアルな服装が群がる空間で伊吹のスーツは浮いているが、服装だけが原因ではない。伊吹自身に周囲からきわだつような雰囲気がある。彼の周りでは空気は静かで、清潔な匂いがする。  いや、そんなふうに思うのは七星がオメガ性で、伊吹がアルファ性だからなのかもしれない。  今日のネクタイは濃い紺だった。淡い緑と水色の縞が斜めに入っている。ワイシャツのボタンはきっちり上までとまっている。ところが七星の頭に浮かんだのは、ネクタイをゆるめる手と、ボタンを外す指のあわただしい動きだ。短い黒い髪に触れたときの感覚を手のひらが勝手に思い出す。七星の胸の鼓動はさらに早くなる。  どうしてまだ覚えている? こんなにリアルに――でもあれはずっと前のことだ。四月のおわり、もう二カ月以上前のことだ。  七星は誰にも気づかれないように息を吸おうとして失敗する。顔をあげた一瞬に伊吹の目をのぞきこんでしまったから。伊吹も七星をみつめる。視線がからみあったのはほんの一瞬でしかない。  ふたりは同時に目をそらす。 「祥子さん、僕は少年なんていわれるトシじゃないですって。もう二十五ですよ?」 「何いってんの。じゅうぶん少年で通ります七星くんは。三城さんもそう思うよね?」 「いや……」伊吹は祥子に困ったような笑顔をむける。 「そんなこともないのでは?」 「うーん、七星くんがあたしと蘭の息子なら看板息子って呼びたいんだけどなぁ」  蘭、は魚居の名前だ。昔はめったになかったアルファ女性とオメガ女性の組みあわせも最近はそれほど珍しくなくなっている。 「祥子さんこそユーヤの看板娘じゃないですか?」  七星は冗談っぽくいう。 「あたしが? まさか、あえていうなら女将でしょ」 「アートセンターに女将ってありなんですか?」 「昔は銭湯だったんだから、ありじゃない?」  祥子は木の壁をみまわし、七星と、それに伊吹も、つられたように周りをみる。〈ユーヤ〉は廃墟同然で放置されていたスーパー銭湯を改造して作られたのだ。十階建ての雑居ビルの二階から地下一階を占め、一階にギャラリーとスタジオ、二階にこのカフェ、地下が劇場になっている。 「やっぱり感傷的になるね。もう終わりだと思うと」祥子はぽつりという。 「移転先はみつからなかったんですか?」と伊吹がたずねる。 「ええ。本決まりじゃないけど首都圏を離れる話もあって。でもカフェは九月末まで営業しますから、コーヒーチケットは全部使ってくださいね――あ」  言葉がとぎれて、祥子が入口をみる。誰か新しい客がきたのだ。伊吹に軽く会釈して祥子が行ってしまうと、七星の胸の動悸が復活する。大丈夫だ、と七星は思う。ふたりきりになったわけじゃないし、テーブルもあいだにある。そう考えると我慢できなくなる。七星は顔をあげる。伊吹と目があう。 「……急に暑くなったね」  伊吹がそっといって、目をそらす。七星は手元の紙皿をみつめる。 「ちょっと前まで肌寒かったですよね」 「今もかなり曇っているけどね。七夕なのに」 「太陽暦の七夕って無理がありすぎです。まだ梅雨明けしてないし」 「たしかに。これじゃ天の川は渡れない」  背後で大きな笑い声があがる。七星はふりむき、祥子とならんでこっちに来るベータの男をみる。薄いジャケットと洒落た柄のシャツ、細身のスラックスという服装で、全身からカタカナ業界の雰囲気がかもしだされている。 「やあ、七星くん! 看板少年!」  七星は薄笑いをうかべて会釈する。向きなおると伊吹が驚いたように男をみつめている。 「武流(たける)? どうしてここに?」 「伊吹じゃないか。それはこっちのせりふだぞ」 「コーヒーチケット仲間ね」祥子がすかさずいう。「おふたり、ここで会ったことありました?」 「いいや。でも大丈夫」男はすべりこむように七星の隣に立ち、伊吹をみる。 「もともと知り合いだから」 「え?」 「イトコの結婚相手なんですよ。な、伊吹?」 「えっと、三城さんの奥さんと親戚ってこと?」 「そ」  その瞬間、それまで七星の視界に入っていなかったものがみえる。見ないふりをしていた、というべきかもしれない。伊吹の左手の薬指と、そこにはまった細い指輪。胸の奥がずきりと痛む。  あやまちがあったのは不可抗力の一度だけだ。あれは事故だった。ふたりともろくにお互いのことを知らなかった。今のように「友人」になる前だった。  刃のように鋭い銀の線から七星はそっと目をそらす。あれはただ、伊吹がアルファで、七星がオメガだから起きたまちがいだ。  だから二度目はない。絶対にない。

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