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第1章 四月の魚 1.冗談の日

 病院の自動ドアが開いた瞬間、何かが七星の注意を呼び覚ました。  ――いい匂いがする?  ふりむいた先にあるのは桜並木に囲まれた駐車場だ。黒い車の横に長身の影がある。寝ぼけた春の空を桜の花びらが舞っていた。ここ数日の晴天で満開になったのはいいが、今日は風が強かった。ときおりごうっと枝が揺れるたびに道に花びらの渦ができる。  気のせいだろう。いくらオメガ性が匂いに鋭敏だといっても、桜の香りはこんなに甘くない。  七星の気をそらすようにパーカーのポケットで着信音が鳴った。フードをはねのけてスマホを耳にあてたとたん、焦った声が耳に響く。 『七星、明日は二時までにお寺につけばいいのよね?』 「母さん」  あわてて七星は一歩下がった。自動ドアが音もなく閉じていく。 「案内送ったよね? 見てない? 前と同じお寺だけど、念のため地図も」 『見たわよ。四月二日の二時……康太さんのとった新幹線だと東京駅に着くのが一時なの。大丈夫よね?』  母親の未来(みく)は時間通りの行動が極端に苦手で、方向音痴で旅行嫌いだ。遠方から来て法事に出席するだけのことが彼女にはかなりのストレスで、似たような電話は今週三度目だ。 「父さんが一緒だから大丈夫だよ。何か起きたらすぐ電話くれればいいから」 『ごめん、明日は七星も忙しいよね』 「僕はそうでもないよ。法事の手配はお義父さんや美桜さんでやってるから、僕は出席するだけ。それより今病院だから」 『病院? 何があったの?』 「職場の先輩が入院してるんだ。骨折で。またあとで」  七星はスマホをポケットに戻し、今度こそ自動ドアを通り抜けた。  受付の先は待合室だが、土曜の午後とあって人影はほとんどなかった。入院病棟は渡り廊下を抜けたところだ。病室の窓の向こうではやはり桜が散っていた。アートセンター〈遊屋(ユーヤ)〉の古参スタッフのマツは足を白いギプスに固められてベッドにいた。退屈を持て余していたのか、七星をみたとたん大げさな笑顔になる。 「七星! 救いの星だ!」 「何いってるんですか。頼まれた本持ってきましたよ。それにみんなからのお見舞い。カバンごと置いていきます」  七星は本と菓子折りをベッド横の棚に並べた。マツは日焼けした顔をくしゃっとゆがめる。筋トレマニアで若手に負けない体力を誇る四十代後半のベータだが、休暇中に足の骨を折ったのだった。 「悪いな、せっかくの土曜休みに」 「大丈夫ですって。僕の家ここから近いんです」 「いやほんと参ったよ。足は丈夫だと思ってたんだ。俺プロボウラーだったから」 「は? プロボウラーってなんですか?」  七星が聞き返すと、マツは驚いた顔になった。 「ええ、七星の世代ってわかんないの? ボウリングはわかるよね?」 「映画でみたことはあります」 「そのプロがいるんだよ。昔はすごかったんだからさぁ……ボウリング場もたくさんあって、ユーヤが銭湯だったころは向かい側に建ってたんだ。ゲーム終わってから銭湯行くってのが定番だったの。そのころは駅前の飲み屋街も今よりずっと汚くてガラが悪くてさ、夜は女の人とかオメガの子は危ないっていわれてたころ。まあ、当時もボウリング人気は終わってたから、プロっていっても趣味と変わんないけどね」  もっともらしいマツの言葉に七星はほとんど説得されかけた。 「うわ、そんな話、初めて聞きました。魚居さんや祥子さんは知ってます?」 「ハハハッ」マツの口元が笑いで崩れた。「うそうそ。信じた?」 「え?」 「今日は四月一日だろ?」  マツの目尻に細かく皺がよる。七星の頬はぱっと熱くなる。 「あ、エイプリルフール!」 「ハハハ、今のは俺の親父の世代の話。信じたよね?」 「あーもう。すこし変だとは思いましたよ。でもマツさんって昔から変わった仕事いろいろやったんでしょ? もしかしたらって……」 「まだリハビリもできなくてヒマだからさ、誰にどんなホラ話をしたらいいかずっと考えてた。とりあえず七星は成功だな」 「信じてないですって!」  七星はほてった顔のまえで片手をぶんぶん振る。ユーヤの同僚はみんな七星より年上で人生経験も豊富だ。驚くような経歴を聞かされることは初めてではないから、あっさりひっかかってしまった。 「ユーヤの向かいにボウリング場があったのは本当だ。今は新しいビルになってる……ユーヤもそうなりそうだけどな」  マツの声は急にまじめな調子に戻った。 「人は少ないわ、ユーヤの行く手も闇の中ってときに足を骨折とは、最悪のギャグをかましてしまった」 「骨折はギャグじゃないでしょ」  七星は小さく首をふる。 「当面、魚居さんが頼んだ助っ人が来てくれるみたいです。ただマツさんのこれとは別件でカフェの方も人が足りなくて、月曜から僕が穴埋めに入ることになりました。ほんとは日曜も入れるといいけど、法事で休みもらってるから」 「法事――あ……旦那さんの?」 「三回忌なんです」 「……そうか。早いね」 「ひさしぶりにこの病院来たけど、変わらないですね」  夫の彰が同乗していた母親とともに追突事故で亡くなって、明日で二年になる。救急車で運ばれて、そのまま帰らぬ人となったのもここだった。彰は三歳年上のアルファで、七星とは幼いころから家族ぐるみのつきあいだった。  子供のころからおたがいを知っていて、やがてつきあうようになり結婚する、というのはアルファとオメガのカップルにはよくあることだ。七星もまさにそのパターンで、彰と結婚した時はまだ学生だったが、周囲の誰も早いとはいわなかった。どちらの親も、七星に最初のヒートが来たころから彰とつがいになるものと決めてかかっていたし、七星も漠然とそんなものだと思っていた。  今の時代はオメガが子供を産んだあとのキャリアパスがちゃんと整備されている。昔のようにアルファとつがいになったら最後、家庭に閉じこめられてしまうわけではない。むしろアルファのつがいがいる方がヒートの周期も安定するし、他のアルファに煩わしい目で見られなくなるので働くのも楽だ。そして子供のころからよく知っている間柄なら、さらに間違いがない――というのが双方の両親の考えで、特に七星の母親の未来は彰との結婚に大賛成だった。  それがこんなことになるとは、もちろん誰も思わなかった。  マツの病室にいたのはせいぜい二十分くらいだったろう。廊下に出た七星は無意識のうちにパーカーのフードをひっぱりあげていた。彰はむかし――高校生くらいだろうか――フードの上から七星の頭を撫でるのが好きだった。  歩きながらぼんやり窓の外の桜をみる。二年前のこの時期は強い雨が降っていた。嵐で花はすべて落ち、車に踏まれて汚れていた。七星は家にひとりでいた。彰がローンを組んで買った新築マンションに引っ越して、半年も経っていなかった。  たしかあの日は義父の晶久から電話がくるまで、彰が帰るのを待っていたのだ。いつでも聞けると思って先延ばしにしていたことを訊ねるつもりだった。 (俺たち、生まれてからずっと一緒にいた犬と猫みたいだよな)  彰はときどきそんな風にいったっけ。七星とはぜんぜんちがうタイプの人間だった。  いるのがあたりまえだった人が突然いなくなって、たった二年だ。それなのに彰が亡くなった直後のことを七星はよく思い出せなかった。知りあってから十数年分の記憶はごちゃまぜでとりとめがない。結婚してからの思い出もたくさんあるはずなのに、近ごろ頭に浮かぶのはずっと昔の、子供のころの出来事が多かった。  彰はもういないのだから、できれば良い思い出だけを持っていたかった。でも思い出の中にはあまり心地よくないものもある。するといなくなった人を想っていたはずの心にべつのものが入りこんできて、そのたびに妻と息子を一度に亡くした義父に申し訳ない気分になる。  渡り廊下の先の待合室はあいかわらずがらんとしていた。ところが出入口に足をむけたとたん、また何かが七星の注意をひいた。歩きながら目を細める。自動ドアの手前に人影がふたつ。 「異動になったって? 伊吹、おまえは本社で順調に出世すると思っていたよ。宮久保の当主は何ていった?」 「別に何も。会社がきめたことだ」  男がふたり。オメガの直感はすぐに長身のアルファともうひとりのベータを見分けた。なんとなく険悪な雰囲気だった。七星はどちらの顔もろくにみなかった。自動ドアへまっすぐ歩いただけだ。  それなのに長身のアルファの横をすりぬけたその一瞬、うなじの毛が勝手に逆立った。甘い香りが七星を包んだ。まるで発情期のはじまりのように背筋をふるえが駆け下りる。ここへ来た時、このドアを通る前に嗅いだ匂いだ。  そんなつもりはまったくなかったのに、七星の足は勝手にとまった。見えない手に押されたように長身のアルファをふりむこうとしたとき、自動ドアが左右にひらいた。外から風が吹きこんでくる。パーカーのフードが風で飛び、伸びすぎた前髪がくしゃくしゃになった。七星はうっとうしい前髪をかきあげた。  その瞬間、目があった。 「風が強いな」   ベータの男がそういったのを七星は聞いていなかった。罠にかかる寸前で回れ右する兎のように、いそいで自動ドアを通り抜けたからだ。  外では桜の枝がみしみしと揺れ、甘い香りはあっというまに薄れた。アスファルトの上を風が走り、桜の花びらが渦を描く。  七星はフードをかぶりなおし、早足で歩きはじめたが、心臓はまだどくどく鳴っていた。今のはいったい何だったのだろう? ひたいの裏側にはまだ、アルファのまなざしが焼きついていた。

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