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第2章 獣交む 1.口笛が呼ぶ
高台にある宮久保家本宅、その家族用リビングルームの窓は東南を向いていた。
四月二十九日、ゴールデンウィークの一日目にもかかわらず、空は夏を思わせる青色だ。伊吹は窓際に立ち、ひらけた眺望をみおろしていた。
城郭のような白い塀と石垣のむこうで堀の水が空を映している。三週間ほどまえの水面は桜の花びらで淡いピンクに染まっていた。今は葉桜にふちどられた青緑の静謐となって、城を護るように取り囲んでいる。
実際のところ、宮久保の邸宅は昔からこの地に暮らす人々にとって領主の城も同然だ。使用人や出入りの業者は当主のことを「お館さま」と呼ぶ。最初に聞いた時は冗談かと思ったが、今では伊吹もすっかり慣れてしまった。名族の一員になるとはそういうことなのだ。
「本当に後で合流することにしてよかった? だいたい今日は蓮の晴れ舞台じゃない。どうして私たちの招待状はないの? 蓮、今からでも」
葵がいった。蓮の二番目の姉で、すぐにも出かけられる装いでリビングの中央、U字型をしたソファの横に立っている。蓮は座ったまま姉をふりむいた。皺のよった大きめのシャツから細い首がのびている。まだ起きてまもないにちがいない――そう伊吹が思うのは、蓮がヒートの時以外おなじ部屋で眠ることがないからだ。
「やめてよ。葵が除幕式にいたら僕はすっかり霞んでしまうでしょ」
口調こそそっけないが、葵を見る目は無邪気な輝きをおびている。アルファの姉たちと話しているときの蓮は伊吹といるときより子供っぽく見えた。気を許した家族がいるから自然とそうなるのか、そうふるまうよう姉たちが仕向けているのか、伊吹にはわかったためしがない。
「ええ? そんなことないわよ。蓮が主役なんだから」
「だけど今日は〈プラウ〉の理事長として挨拶するだけだしさ」
今日はアートコンプレックス〈プラウ〉のオープニングデイである。プレス向け見学会と式典、そのあとは施設内のレストランで懇親会が開かれる。
「それこそ主役ってことでしょう」
「だったらなおさらだって。姉さんたちは目立ちすぎるんだから、オメガの弟をもっと気遣ってほしいな。〈プラウ〉は仕事なんだし、葵に見守られてテープカットなんて恥ずかしいよ。ほんと過保護なんだから」
溺愛している本人にまっこうから告げられて、葵のいきおいがすこしおさまった。同時にリビングの扉から笑い声が響いた。
「押しが強すぎると蓮に嫌われるよ。葵、もう出発しないと」
三つ年上の姉、志野はロングヘアの葵とちがってボーイッシュなショートヘアだ。顔立ちは蓮によく似ていて、双子だといわれたら信じてしまいそうなくらいだが、背は蓮よりかなり高い。
「蓮、ポルトフィーノには一緒に行くわよね?」
「ミラノで合流するって」
四月末から五月なかばまで、春のバカンスを海外の別荘ですごすのは蓮が生まれる前からの宮久保家の習慣だ。伊吹は一度だけこの休暇に同行している。結婚式の直後で、つまりハネムーンが家族のバカンスに組み入れられてしまったのだが、蓮は何の疑問も抱いていなかったし、伊吹は宮久保家の決定に口をさしはさめる立場ではなかった。
アルファとオメガの新婚カップルの一般的なイメージは「お互いを独占しあう」という熱烈なものだ。ところがヒートの時期でもなかった蓮は伊吹との初夜をあっさりすませ、昼間は姉や従兄にべったりで、伊吹は彼らのあとからついていったようなものだ。
休暇旅行を率いるアルファは当主の瀧で、ヴィラに滞在するあいだも彼女の意向がすべてを決定する。伊吹の想像とはまったくちがう奇妙なハネムーンだったが、宮久保家における自分の立場を固めるには必要なことだったと今は思う。
しかし伊吹はただのサラリーマンである。ゴールデンウィークの連休があるといっても、三週間近くに及ぶバカンスに毎年同行できるはずもないし、宮久保家の人々はそんなことを期待していなかった。翌年以降は出発を見送る立場になり、今年も同様である。そもそも宮久保家における男性配偶者は三性に関係なくこんな役割を負わせられてきたらしい。
「伊吹さんは今日の、行くんでしょ?」
志野が伊吹にいきなり話をふった。葵が意外そうな顔をむける。
「あら、そうなの?」
「除幕式は本社の上司と出席します。懇親会は蓮の同伴で」
「パーティには夫がいないとね」
志野がしたり顔でいい、葵は目尻をかすかにあげた。
「伊吹さん、蓮に変な男を近づけないでね」
「そういうのが過保護なんだって」
蓮はあきれた顔をして、伊吹にちらっと目をむけた。
「僕は藤さんに送ってもらうから」お抱え運転手の名前をだしたあと、思い出したように付け加える。「伊吹は都合にあわせて来て」
「伊吹さんは今日お休みじゃないの?」
葵は伊吹がワイシャツを着ていることに初めて気づいたようだった。
「いえ、これから出社です」
「あらあら、忙しいわね。まだ若いから仕方ないのかしら」
葵がさらに何かいおうとしたところを鋭い声が遮った。
「みなさん、まだ油を売ってるの?」
当主の瀧があらわれた。毛筆を走らせたような大胆な柄のワンピースを着て、長い髪を結いあげている。蓮がすっと背筋をのばした。
「葵さんも志野さんも、行きますよ。蓮、今日はしっかりね。あなたの晴れ舞台だから」
「はい。お母様」
「伊吹さん、留守をよろしく」
「ええ」
瀧は伊吹にうなずきかけ、きびすをかえした。短い言葉しか発していないのに強烈な存在感で、葵と志野があとに続く。長姉の楓は結婚して敷地内の別棟で暮らしているが、外で待っているにちがいない。
母と姉たちが出て行ったあとには家政婦が立っている。蓮はソファに座ったまま大きくのびをしていた。
「蓮さま、お食事はいかがなさいますか?」
「これからお風呂に入るから、そのあとでいいや。あ、そうだ、みどりさん、今日の夜はご飯いらないから」
ふと思いついて、伊吹は穏やかにたずねた。
「蓮、今日は私の車で帰るだろう?」
「パーティのあとのこと?」蓮はあくびをしながらいった。
「伊吹は最初の方だけ僕のうしろにいればいいよ。勝手に帰って。ゲスト次第で二次会行くかもしれないし、藤さんに待ってもらう」
何時に終わるかわからないのに運転手を待たせるのか? 口から出かかった言葉を伊吹は飲みこんだ。蓮にとっては当たり前のことで、いったところで馬鹿にしたように見られるにちがいない。
リビングを出ていく蓮の背中を見送ってから、伊吹も玄関に向かった。伊吹の車は車寄せにつけられ、いつものように準備万端である。フロントガラスはぴかぴかに磨きあげられている。
「伊吹さま、行ってらっしゃいませ」
門を出て白い塀のあいだを走り、高台を降りて堀を渡る。宮久保家を離れるにつれて伊吹の心は軽くなった。土曜日まで出勤するのは分室で伊吹ひとりだが、今日は〈プラウ〉の式典もあるからちょうどよかった。
伊吹は今日の予定に頭を切り替える。彼にとっては宮久保家で過ごす時間も仕事のようなもので、これから向かうのは別の仕事だ。これ自体は今のオフィスに異動する前から変わらないことだが、最近は出社するのが楽しみになっていた。
本社の仕事よりやりがいがあるから? そうかもしれない。だが内心では別の理由があることもよくわかっていた。仕事を終えたあとに立ち寄っているカフェスペース、ユーヤのおかげだ。
今日も彼――七星に会えるかもしれない。
もう月末になると思うと不思議な気分だった。この数週間というもの、仕事を終えたあとに分室からユーヤまで散歩をするのは完全に習慣になってしまった。
いや、習慣なら前にもあった。本社勤務のときも、帰宅前に街を散策し、カフェで読書をしたり音楽を聴いて気分を切り替えるのはほぼ日課になっていた。蓮と結婚してからの伊吹にとって、それは自分自身でいられる息抜きの時間だった。今もやっていることはあまり変わりないが、そこに七星という存在が加わっている。
最初に会った四月のはじめ、七星はカフェのカウンターにいたから、注文の時に二言三言会話するくらいだった。次の週からはスタッフが追加されたのか、カフェカウンターには別の人間が立つことも多かったが、そのかわり事務所と地下の劇場をいったりきたりしている七星に出くわすことがあり、そのたびにすこし長めの雑談をするようになった。
七星から漂ってくる蜜のような甘い香り、最初に会った時ひどく伊吹を驚かせた香りも、何度か話すうちにそれほど困惑するものではなくなった。それでも伊吹にとってひどく心地よい香りであることに変わりはないし、不思議なことに七星に会うたび、かすかな香りでも感じとれるようになっていく。だから七星が休みの日はその不在を強く感じて、奇妙なほど寂しかった。
七星と話すのも楽しかったし、七星のほうも伊吹と話すのが楽しそうに思える。ある日何気なく一階のギャラリーで見た展示の感想を話したら、七星はやけに嬉しそうに笑った。その笑顔は伊吹の心をとても軽くしたので、もっと話をする口実が欲しくなって、伊吹はユーヤのメンバーズパスを買った。
今日も〈プラウ〉の件がなければユーヤに立ち寄りたいところだが、さすがに難しいかもしれない。
それでも七星の顔を思い浮かべるだけで伊吹の心は軽くなり、ハンドルを握りながらしらずしらずのうちに口笛を吹いていた。
*
「七星、今晩って何か予定ある?」
パソコンをにらみつけていた七星は魚居の声に目をあげた。ユーヤの狭い事務所である。三十分かけて文面を何度も書き直したメールをやっと送信し、ほっと一息ついたところだ。
「予定……はないですけど」
「じゃあ、ひとつ頼まれてくれない? これなんだけど」
魚居は光沢のある厚紙を差し出した。
「なんですか?」
「プラウの招待状。今日オープンの式典があって」魚居は目をあげて壁の時計を見た。「もうはじまってるけど、このあと懇親会がある。ようするにパーティだ。顔を出すつもりだったけど急に打ち合わせ入って……あ、勤務時間にするから」
「パーティって」
招待状のおもてには箔押しの星がちらばっている。北斗七星のかたちだ。七星は思わず自分の膝をみおろした。
「こんな服で行っていいやつですか?」
「大丈夫だよ。地元民の内覧会も兼ねてるようだし。会場はレストランになってるし、食べ物もそれなりに出そうだし。ついでに偵察してきてほしいんだ」
「偵察って」七星は思わず笑った。「それなら祥子さんの方がいいんじゃないですか?」
「それが祥子も一緒なんだ。だいたい彼女、タダ酒に弱いから飲みすぎちゃうしね。七星なら冷静にいろいろ観察できるはず。他に誰かいたら一緒にって思ったけど、ひとりだと心細い?」
「そりゃそうですよ。偵察なんて聞いたら……」
「そう?」
じっとりと自分を眺める魚居の目つきに、七星はまた笑った。
「今ちょうど終わったところだから、かまいませんよ」
「じゃあ決まりだ。がんばって。名刺持っていってね」
「ラジャー、ボス」
ふざけた口調で敬礼をしてみせる。魚居がにやりと笑う。
「最近の七星、前より元気になった?」
「えっ、そうですか?」
「そんな感じがする」
そうだろうか。
事務所を出ていく魚居を見送って七星はノートパソコンを閉じた。渡された招待状をもう一度眺める。紙には箔押しの星がちらばり、印刷もデザインも凝っていた。よほど潤沢な広報予算があるのだろう。招待状だってたくさんばらまいているにちがいないし、集まる人もきっと、普段着の七星が混じったところで誰も気にしないような人数だ。
(三城さんがユーヤに来ていたら、残念に思うところだったけど)
魚居のいったとおりかもしれなかった。たしかに最近、自分は前より元気に――というか、明るくなったのかも。ユーヤの先行きはあいかわらず暗いのに、毎日が楽しく思えるのは彼に会えるからだ。三城伊吹。
メンバーズパスを買ってくれた日、七星は彼のフルネームを本人から聞いた。それ以来、本人に面と向かう時は三城さんと呼んでいるものの、心の中では名前を呼んでいる。伊吹さんとか、伊吹、とか。相手は七星のことを名前で覚えているから、このくらいいいだろうと思ったのだ。
四月一日にすれちがったのが最初で、今日は四月二十九日。四週間のあいだに伊吹はすっかりユーヤの常連になった。
学生アルバイトが入ったので、七星がカフェに立つのは忙しい時間のへルプだけになっている。でも雑用で事務所を出たり入ったりするときや、休憩でカフェに立ち寄ったときなど、伊吹にはよく出くわした。彼から漂う甘い香りが気になるのもあいかわらずだった。おまけにたいした話をしているわけでもないのに、顔をみるたびに嬉しい気持ちになる。
伊吹には他のアルファとはちがう不思議な雰囲気があった。一度、何の話をしているときだったか、風みたいな人だと思ったことがある。そのとき急にわかったのだ。伊吹には、七星が彰に対してずっと感じていたような、自分を圧迫してくるような、押しつけるような雰囲気がない。といって頼りないわけでもない。ふわりと自然に七星の周囲を取り囲み、七星を包んでくれる、そんな感じがある。
(だからどうなるってわけでもないけど)
その通りだ。伊吹はユーヤの客にすぎない。この数週間のあいだに七星は彼の名前やコーヒーの好みや読書が好きなことや、階段を登る靴音の心地よさを覚えたが、それだけのことだ。伊吹の左手の薬指には指輪がはまっていて、彼にはオメガの妻がいる。
だからこそ七星と平然と話せるのだろう。七星がどれだけ伊吹の香りに惹かれていても、伊吹は七星をそんな風に意識していないはずだ。
(彰が死んだあと、最初に気になったのが既婚者だなんて、まったく僕は)
どうしようもない、と七星は内心自分をわらう。それでも四月のあいだ、七星の気分はいつになくよかった。魚居が元気になったといったのはそのせいだ。
(片想いにも栄養ドリンクみたいな効果はあるってことか。それにあと……半年くらいだろうし)
ユーヤの移転先はいまだにみつからないようだった。はっきり口に出されはしないが、魚居からこの数日、緊張した雰囲気が伝わってくるのを七星はひしひしと感じていた。たとえどこかへ移転できたにせよ、伊吹は勤め先が近いという理由でユーヤをみつけたのだから、通ってくるのも残り半年ということになる。
つまり期間限定の片想い? そんな問いかけを自分自身に投げて、馬鹿馬鹿しいと思った。こんなことを考えている場合じゃない。今から〈プラウ〉を偵察するのだから。
七星は招待状をショルダーバックにほうりこみ、ユーヤの階段を駆け下りた。
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