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第2章 獣交む 9.ほつれる糸

 四月三十日、午前三時。  伊吹はリビングの隅に尻をついて座りこんでいる。スマホに目をおとし、時計の数字が切り替わるのをみつめる。七星は寝室でオンライン診療を受けている。  ここで待っているから、終わったら診療費と薬代の支払コードを転送してくれないか。そう頼んだのは伊吹だ。メールで転送するのならここで待つ必要はないのに、単にここを離れたくないという気持ちがそういわせたのだった。七星はノーといわなかった。  俺はいったいどうしてしまったのだ。  純白の試験紙に細く引かれた赤い線が頭をよぎる。鮮明になるほど高い適合を示す。もちろんあんなものは簡易検査に過ぎない。〈運命のつがい〉と呼ばれるような適合者などめったにいるものではない。だが、この結果が仮に正しいとしたら、これこそがつがいのいる伊吹が七星のヒートに対して反応(ラット)してしまった理由だろうか?  それだけではない。七星の甘い蜜の香りも、彼に会うたびに感じていた高揚も七星を抱きしめたあのときの、他のすべてがどうでもいいと感じたあの一瞬も、すべてこれのせいか? 七星がヒートの忘我の境で伊吹の名前を呼んだのも?  ――もしも、蓮と結婚する前に七星に出会えていたら、何が起きていただろう?  水底から昇る泡のように心に浮かんだ考えに、伊吹は無意識に右のこぶしを握りしめた。愚かな妄想はやめろ。七星には夫がいた。二年前に亡くなったといわなかったか?  ひらいた右手には爪の痕がくっきり残り、伊吹を現実に引き戻した。おまえは宮久保蓮の配偶者だ、と冷徹な理性がささやいた。その赤い線が何を意味していようが事実は変わらない。たとえこれが奇跡のような出会いだったとしても、結局は事故が起きるだけ――起きてしまっただけだ。  事故。  七星もさっき同じ言葉を使った。そう、七星もこれをだと思っている。  伊吹は右手をみつめた。起きてしまった事故は仕方がない。後始末をするしかない。当直の警備担当には夜のあいだに戻ると連絡してあった。体調を崩した知人に付き添っているという伊吹の説明を彼らはどう思っただろう?  宮久保家の警備要員は24時間体制で勤務している。名族のための各種サービス、ゆりかごから墓場までのトータルケアを提供するアウクトス・コーポレーションからの長期派遣だ。  昔の宮久保家はメイドはもちろん警護も庭師も料理人もすべて直接雇用していたらしいが、さすがに今は時代が変わった。それでも家政婦長の窪井と運転手の藤は長年宮久保家に仕える家来筋の出身で、とくに窪井は当主である宮久保瀧の腹心のような女性だが、家族のヴァカンスに世話係として同行しているので、今夜は不在である。  伊吹は内心「事故」がこのタイミングで起きたことにほっとしていた。蓮は三次会で武流のマンションへ行ったというから、そのまま従兄のもとに泊ったにちがいない。これまで何度も同じようなことがあった。住み込みの使用人は敷地内の別棟で寝起きしているが、夜が明ける前に伊吹が帰宅すれば彼らの目にもとまらないはずだ。  そのあとはどうなる?  何も。これまでと同じ日常に戻るだけだ。  広壮だが空虚な宮久保家で、伊吹はおのれの立ち位置を見定めながら生家との取引を果たさなければならない。伊吹が宮久保家にいるかぎり目的は達せられる。宮久保家が伊吹に求めているのは、蓮のつがいの相手として過不足なく役割を果たすことだ。強い感情など必要ない。そんなものがなくても人は生きていける。 「……伊吹さん」  おずおずとした呼び声に伊吹はあわてて立ち上がり、廊下にいる七星のところへ行った。 「終わった?」 「はい。朝の十時には配達されるそうです」 「さっきも話したが、費用は」 「ええ……すみません。ありがとうございます」  七星はうつむいてスマホを操作した。伊吹のポケットでピン、と軽い音が立つ。七星は顔をあげ、前髪が揺れた。癖のある柔らかい髪に手を伸ばしそうになるのを伊吹はこらえる。七星はひどく無防備で、伊吹と同様に途方にくれているようにみえた。  距離は一メートル、一歩ふみだせば彼に届く。七星ひとりが暮らしているこの場所は蜜の香りでいっぱいだ。目の前の肩を抱いて――抱きしめて腕のなかに七星の体温を感じ、首やうなじに顔をこすりつけたい。壁におしつけ、唇で触れる。自分を呼ぶ甘い声を聴きながらその体の奥をさぐり、蕩けさせて……。  脳裏をありありとよぎったおのれの妄想に伊吹はめまいがしそうになった。七星はこんなことを望んでいない。彼にとってあれは必然ではなく事故なのだ。今日起きたことはただの間違いだ。予定外のヒートに、伊吹と七星をつなぐ赤い線が絡まってしまっただけのこと。 「本当にすまなかった。何かあったら連絡を」 「大丈夫です」  それなのに、伊吹をさえぎるように発せられた声をきいただけで、体が勝手に動きそうになる。これ以上ここにいたら自分は何をしでかすかわからない。 「わかった。ありがとう、感謝している」  伊吹は大股で七星の横をすりぬけ、玄関先に転がっていた靴を履く。マンションの一階、街路から見えないよう生垣に囲まれた庭は人工芝で覆われ、隅に空のプランターが転がっていた。伊吹は音を立てないよう門扉を閉め、車のデジタルキーを操作する。車内にはまだ七星の香りが残っていた。息をつめてエンジンをかけた。  寝静まった街は猫の子一匹歩いていない。空白の道路の先で信号が光る目を向けている。対向車も後続車もない道で赤信号が変わるのを待つ。伊吹はハンドルを握る手をぼんやりみつめた。袖口のボタンからほつれた糸がのびている。  壁の向こうでエンジン音が遠ざかっていく。  七星は息をついて壁にもたれた。ずるっと背中がすべって、いつのまにか床にへたりこんでいる。虚脱感が全身を覆っていた。  伊吹は行ってしまった。  当たり前だ。僕のヒートのせいでラットしてこんなことになったのだから。おまけにあの赤い線。  診断キットはリビングのテーブルに置き去りにされたままだった。七星は曲げた膝を両手で抱えこむ。  あの人にとってあの赤は理由になっただろうか。つがいがいるのに僕のヒートにあてられてしまった理由に。でも、僕はいったい何を確かめたかったんだろう。僕があの人を好きになった理由? あの人にはつがいがいるのに?  それもこれもヒートが突然来るからだ。こっそり想っているだけでよかったのに。  ここには自分ひとりしかいないのに、あたりにはまだ伊吹の匂いがはっきり残っていた。七星の頭をぼうっとさせ、体の芯をかきたてるような甘い香りだ。あれを香水だと思いこんでいたなんて。  七星はうずくまったまま膝にひたいを押しつける。伊吹に抱かれたおかげでヒートはおさまり、皮膚の内側にこもったような熱の感覚は消えていた。それなのに七星の体はまだ伊吹を恋しがっている。彼の声や表情を思い出すだけで、抱かれたときの感覚が腰の奥から呼び覚まされる。  こらえていた涙がついにあふれて、七星は声を殺して泣いた。伊吹にここにいてほしかった。匂い、声、何でもいい。伊吹が必要だった。  鼻をすすりながら立ち上がる。七星の足は勝手に洗面所へ向かっていた。さっき拾い集めた服が小さな山になっている。七星は膝をついて布のあいだに顔をうずめた。伊吹の匂いの洪水に溺れて、このまま消えてしまいたかった。

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