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第3章 八十八夜 2.麦笛の音

 七星がユーヤに入っていくのを、伊吹は路地の曲がり角からみていた。  通りに出ようとしたとき七星の香りが鼻をかすめ、とっさに足をとめたのだ。顔をあわせるべきでないという直感がさせたことだった。そのままユーヤの看板を遠目に眺めているうちに、気まずいどころか、七星は嫌がるにちがいない、という考えが浮かんだ。といって物影から見守っても、これはこれでストーカーと変わりないだろう。  伊吹は唇を噛んだ。どうしようもない。もちろん、ほんとうなら伊吹にできる最善の行動はここに来ないこと、だ。そんなことは百も承知なのに、連休明けで忙しかった今日の日中も伊吹は七星のことを考えずにはいられなかった。  今日も、というのはつまるところ今日だけではないからだ。暗い家の中で立ち尽くしている七星の目、誘惑するように差し出されたうなじ、かすれた声――忘れようとしても頭にうかぶ記憶と、強烈なセックスの余韻は何日も続いた。  人混みのなかにいると、視線が勝手に七星に似た背格好の若者に流れていく。髪型や姿勢など、外見が似ている人間は何人もいた。だが伊吹が求めているのは外見ではない。香りなのだ。蜜のように伊吹にからみつく香りは七星だけのもので、外見が多少一致したところで肝心なものがない。  この一週間はゴールデンウイークの休日で、宮久保家の家族はヴァカンスで不在だった。あの日――四月三十日、七星のマンションから伊吹が宮久保家に戻ったのは朝の四時。蓮は午後になって武流の車で帰宅し、翌日の早朝、やはりヴァカンスへ出発した。戻りは水曜、十日の予定だ。伊吹は車の出入りを窓から見ただけで、直接顔をあわせもしなかったが、珍しいことではなかった。  きっと七星とあんなことにならなければ、連休のあいだ、伊吹はひさしぶりに自由で気楽な時間を過ごせただろう。ユーヤにも足を運んだにちがいない。伊吹のメールにはメンバーシップ会員向けの案内が届いていた。七星からは何も来なかった。つまり伊吹に知らせるべき問題は何もないということだ。  俺は安心するべきなのだ。  伊吹は何度もそういいきかせ、空っぽな時間を持ち帰った仕事で埋めようとした。それなのに落ちついて座っていられない。心の奥底にうろがあいたようで、自分が何をしたいのか、何をすればいいのかもわからない。こんな気分は祖父が死んだとき以来だった。  だから今日、誘惑に逆らえなかったのだ。オフィスにはまだ仕事があった。五分でいい、ユーヤのカフェでコーヒーを買って、七星がユーヤのどこかにいると確認すればそれだけでいい。直接話をするわけではない――そう思ってここまで来たのだ。七星の姿をみかけても、ふらふらと近寄ったりしなかったのはよかった。  でも今も誘惑は止まらない。ドアをあけて階段を登る。七星がカフェを横切るのをありありと想像して、伊吹の呼吸は早くなった。七星に駆け寄り、両肩を抱いてふりむかせる。七星の手を引いて、ふたりだけでいられる場所へつれていき、自分以外は誰も近寄れないように七星を閉じこめ――  体がぶるっと震えた。伊吹はうつむき、靴先をみつめ、おのれの中でうごめく欲望におそれをなした。  だめだ。行ってはならない。七星が前と同じようにユーヤで働いているのがわかるだけで十分だ。どんな理由があったとしても自分は取り返しのつかないことをした。もう二度とここに来てはいけない。  顔をあげると伊吹はさっときびすをかえし、路地を大股に歩き去った。  ノートパソコンの横でスマホが震えた。七星はキーボードを叩く手を止め、のろのろと視線をずらした。発信者の名前をみてほっと息をつく。魚居らん。 『七星、緊急』  五月十二日、金曜の午後三時。会社勤めならこのあとの休日をいまかいまかと待つ人も多い時間帯だが、七星の仕事はこれからが本番だ。今夜は地下の劇場で現代音楽のセッション、明日の午後はカフェスペースで二日続きのトークイベント。劇場はゲネプロの真っ最中で、メールや事務所の電話にはキャンセル連絡や当日席の問合せ、会場への行き方など問合せが続けて入っていた。  しかし七星がスマホの通知にいちいちぎょっとするのは仕事のせいではない。万が一伊吹から連絡があったら――と、つい考えてしまうせいだ。  馬鹿馬鹿しい。そんなこと、あるはずないのに。  メッセージをひらくと内容は予想もしないものだった。 『三十分後にプラウの理事長、宮久保蓮が見学に来ることになりました。そっちに向かってるところだけど、電車が人身事故で止まって十分ほど遅れそうです。着いたらざっとその辺見せてもらえますか?』  なんだって、宮久保蓮? 三十分後? 七星はあわてて返信を送った。 『何しに来るんですか?』 『見学。電話で話しているうちに急にそんな話になったの。例のパーティで名刺交換したの七星だし、私が着くまでつないでください。よろしくお願いします』  宮久保蓮。名族のオメガ男子。四月末のパーティで名刺を交換したことならもちろんはっきり覚えている。何しろそのあと彼に勧められたドリンクで酔っぱらってしまい、ヒートまではじまって大変なことになったのだから。おかげで何を話したかはほとんど思い出せない。  宮久保蓮は服装も顔立ちも雰囲気も、立っているだけで周囲の目をひくオメガで、七星の視界ではエフェクトがかかっているようにキラキラしていた。七星はといえば、どうみてもパーティには不釣り合いな服装でうろうろしていた。加賀美の紹介でなければ蓮が七星に目をとめたはずはない。挨拶も名刺交換もなかっただろう。  蓮の名刺は五月になって魚居に渡した。魚居あての招待状で行ったのだから当然だと思ったのだ。それに、二度と会うこともないと思った。おなじオメガでも、蓮は七星と住む世界がちがいすぎる。  その世界のちがうオメガは、魚居の予告より五分遅れてやってきた。七星は念のため一階の扉の前で待っていた。駐車スペースが今日の公演者で埋まっているから、もし車で来たら停める場所がない。どうしようか――とやきもきしていたのだが、まもなく横手の路地の出口あたりでなにやら呻く声がきこえた。 「こっち? こっちでいいのかな……」  声に聞き覚えがあった。「宮久保さんですか?」  蓮はさっと顔をあげた。きびきびした所作だった。今日はカジュアルなジャケットとスラックスで、パーティで着ていた細身のフォーマルスーツよりもラフな服装だが、デザインは垢ぬけているし、目鼻立ちの美しさも加わって、ちょっとした動作も俳優やモデルの撮影のようにみえる。七星の視界にはキラキラしたエフェクトが飛びかった。どこからどうみても一般人ではない。 「ああ。きみ――七星だ。そうだね? 出迎えありがとう」 「は、はい……」  いきなりの呼び捨てに七星は驚いたが、蓮は平然としている。隣に立つと肘のあたりからふわりと香りが漂った。甘さと爽やかさを含む香りだ。どこかで似たような香りを嗅いだことがある。  どこで?  ほんの一瞬、伊吹の顔が頭に浮かんだ。いいや、と七星はすぐに打ち消した。香りはぜんぜんちがう。きっと蓮に紹介された時と同じ香りなのだろう。 「また会えてうれしいよ」蓮はざっくばらんな口調でいった。 「プラウのパーティ、すぐ帰ったね。二次会に誘おうと思っていたのに」 「え? いえ、まさか」七星はきょとんとして、とっさに嘘をついた。「用事もあったので」 「あ、そう。入口はそこ?」 「はい。あの、見学ですよね? 魚居の戻りが遅れているので、その前に中をご案内します」 「気を遣わないで」蓮はリラックスした様子だった。 「七星は僕とあまり変わらないでしょ? 今は上司もいないんだから、もっと楽にしゃべってよ」 「無理ですよ」 「無理じゃないって」  話をするのは二回目だというのに蓮の態度は妙に馴れ馴れしく、七星はますます途惑った。今は展示もなく施錠しているギャラリーをガラス扉の外からざっと説明して、階段をのぼる。蓮は軽やかな足取りでついてきた。 (ほんとうにきれいな人だな)  パーティのときは緊張していたせいか、七星は今日ほど蓮の美貌を意識しなかった。ユーヤで働いていると、俳優など顔立ちの整った人々にはよく会う。だが蓮の美貌や、全身からかもしだされる雰囲気は彼らとはまったくちがうものだ。 「同年代のオメガと知りあう機会はほんとに少なくてね。ハウスに行けば交友関係も広がるかもしれないけど、結婚すると羽目もはずせない」  そう聞いても意外ではなかった。オメガはベータやアルファより早婚である。名族でもこれは変わらないらしい。 「たしかにそうですね」  七星が答えると蓮は意外そうに目をみはる。 「七星も結婚しているんだ?」 「あ、前に……今はひとりです。ハウスには今もめったに行きませんけど」  トークイベントに使っているスペースを見せたあとでカフェに行った。カウンターの内側にいたアルバイトがハッとしたように蓮に目を向ける。 「魚居はそろそろ戻ると思います。コーヒーでいいですか?」 「デカフェある?」 「あります」  七星は一番隅のテーブルへ蓮をうながし、カウンターにコーヒーを頼みに行った。アルバイトがこそこそとささやく。 「誰です?」 「プラウの理事長」 「若っ。名族ですよね? タレントみたいだ」  カップをトレイにのせてふりむくと、蓮は足を組んですわり、少し体をねじってカフェの奥の壁をみていた。ごくふつうの姿勢なのだが、蓮がそこにいるだけで、毎日飽きるほど見ているカフェの風景がちがってみえる。いつもは気にならない建物の古さやつぎはぎの補修が目立つように感じる。  七星はなぜかうろたえながらテーブルにカップを置いた。蓮はいたってふつうに七星を見返している。 「いいね、ここ。味があって」 「そうですか?」 「ああそう、ロンドンのスタジオにこういう雰囲気のところが――」  蓮が話しはじめたとき、階段を魚居が駆け上がってきた。 「遅くなりました……七星ごめん、宮久保さんは」  蓮がさっと立ち上がった。魚居の目が驚いたようにみひらく。めったなことで動じないアルファだが、さすがに蓮の印象は強いようだ。七星はトレイを持ってそっと下がり、カウンターのうしろに回った。アルバイトがひそひそささやいてくる。 「やっぱちがいますね? 名族の人って」  七星はシッと唇に指をあてる。魚居を前に蓮が小さく笑い声をあげるのが聞こえ、十分ほど話していただろうか、やがてふたりは立ち上がった。 「急なところ、どうもありがとうございました」と蓮が話すのがきこえた。 「戻りは徒歩ですか?」 「いいえ。迎えの車が来ます」蓮がスマホを耳にあてている。 「七星、地下ってどうなってる?」魚居がたずねた。 「ゲネやってます。予定通りなら終わるころです」 「入れそうだったら中を見て行きますか?」魚居が蓮に向かっていった。 「銭湯の浴槽を残しているので、ちょっと変わってますよ」  蓮はスマホに二言三言何かいって、うなずいた。何気ない所作が不思議なほど絵になる。七星はなんだか感心してしまった。  蓮と魚居と一緒に地下へおりるとゲネプロは終わっていて、演者たちは休憩の最中だった。セットの外から広さや音響設備などをざっくり説明し、あえて古いまま残してあるボイラー室跡――プロモーションビデオや映画の撮影に使われることがある――を見せていると、蓮のスマホが鳴った。 「武流? 今行くね」  車が来たのだろう。七星も魚居と一緒に一階のドアまでついていった。単に見学に来ただけの相手にそこまでする必要はないような気もしたが、蓮の雰囲気やふるまいに接していると、そうするのが当たり前のような気分になるのだ。  これが名族というものなのかも……と思いながら先に立ってドアをあけると、通りに派手な車が停まっていた。 「ではこれで」  魚居が軽く礼をする。蓮がふりむいて七星に微笑みかけた。花びらがひらくような笑みだった。 「七星、会えて嬉しかったよ。よかったら今度……そうだな、アフタヌーンティーにでも行かない?」 「え?」  七星は口をぽかんとあけ、あわてて閉じた。救いを求めるように魚居をみたが、さらっと視線をかわされてしまった。 「――えっと、休みの日なら」 「もちろん、仕事に差しさわりのないときで。また連絡させてもらいます」  後半の言葉は魚居と七星、どちらにも投げられたようだった。車のドアがパタンとひらき、運転席の男がちらっとみえた。サングラスをかけている。蓮はしなやかな身ごなしで助手席に乗り、車はすべるように動きだした。 「やれやれ、王子様の従者になった気分だ」  魚居があきれたような声でいった。 「何をしに来たんですか?」 「社会勉強かな。宮久保の不動産開発に関係あるのかと思ってドキッとしたが、そんなこともなさそうだ。私のみたところでは七星が気にいったんじゃないか?」 「え?」 「パーティで話したんだろう?」 「僕を? そりゃ話しましたけど……僕は一般人ですよ。どうして?」  魚居は肩をすくめた。 「名族の王子様が考えることはわからん。知ってるか? 18世紀のフランス王妃は宮殿の敷地に農村を作り、牛を飼った」 「へ?」 「実際に農夫を住まわせて、宮殿にいながら、たまに田舎暮らしを体験してリフレッシュできるようにしたんだ。名族ってのはそういうものさ。思いつきでなんでもやれる力を持ってる。というわけで七星君」 「……なんですか?」 「何かラッキーがあるかもしれない。今後、お誘いがかかったらお供してもいいんじゃない?」 「同年代のオメガ男子にはめったに会えないとはいってましたけど……」 「きっと寂しいんだな」 「そうですか?」  七星は疑わしい声をあげたが、魚居は笑いながら七星の肩をぽんと叩き、ユーヤの中に入ってしまった。

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