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第4章 雨蛙 3.蝸牛と紫陽花
空色の紫陽花を水盤に浮かべ、宮久保蓮は一歩うしろに下がった。
雨に煙る白い空を背景に生けた花のバランスをみる。 〈プラウ〉施設内の生花装飾は専門の業者の仕事だが、理事長室の花台を飾るのは蓮の趣味だった。
宮久保家の子女は全員、幼少期から書や生け花、茶道に親しんでいる。蓮月という雅号も持っているし、花や水に向きあう時間が蓮は好きだった。とはいえ、姉たちのように本格的に取り組んでいるわけではない。ただの遊びだから、蓮が生けた花は鍛えられた目にはどこか足りないものに映るのだが、本人にとってはどうでもいいことだ。
アルファの姉たちにとって生け花や茶道といった技芸免状は武器も同然で、特に海外のアルファクランと渡りあう時に威力を発揮する。だがオメガの蓮がそんな事態に陥ることはけっしてない。
男に生まれようが女に生まれようが、宮久保家のオメガは貴重な宝、守るべき〈姫〉だった。当主をはじめとした血族のアルファは、蓮が生まれた時から今に至るまで、他の名族のアルファに渡すなど考えてもみなかった。
とはいえ現代はオメガの自立が叫ばれる時代である。籠の鳥のようにオメガを生家に閉じこめている、などと世間に非難されたいわけでもない。
だから蓮は家の使命に囚われずに望んだことをやればいい、というのがアルファの姉たちの口癖で、当主の意思でもあった。ただそれはいつも、蓮が彼らの目の届く範囲にいる場合にかぎるのだ。蓮がどれだけわがままに自分の意思を通したところで、それは宮久保家当主である瀧の手の外に出ることはない。
こういった事情は名族ではない世間一般――特にベータの目には過剰な干渉にみえるかもしれないが、蓮にとっては当たり前のことだった。ごく幼いころから、名族のアルファにとって自分は高貴な獲物も同然だと教えられて育った上、ヒートを迎えてからはアルファを惹きつけるおのれの魅力を否応なく自覚して、血族の過干渉も自分にそれだけの価値があるからだと思っている。
名族の集まりやパーティでは貴重な花か宝石のようにエリートたち――他家のアルファに取り囲まれ、もてはやされるばかりで、その状況に慣れすぎていたから、彼らにそれほど魅力を感じることもなかった。つまり世間一般で、オメガはアルファを気にするものと思われているほどには、ということだ。
それはヒートの前兆がある期間――オメガが無意識にアルファを求める期間でもある――に、けっして宮久保家の外へ出されないせいでもあった。母親の瀧はひとり息子の性周期を本人より明確に把握していたのだ。
蓮はデスクに座ると窓辺の紫陽花をもういちど眺めた。雨の日が続いているが、高層階にある理事長室からはどの程度の降りなのか、はっきりしない。ここからは街路樹を叩き地面に跳ね返る雫も、雨音も聞こえない。
蓮は自分で雨傘を持つこともない――いつだって彼には左右から傘をさしかける者たちがいる。雨の中を歩けば靴に泥水が跳ね返ることも知らない。蓮の靴は使用人によっていつも完璧に磨き上げられている。雨がいくらひどかろうと、これに左右されるのは蓮とは無縁の、下界で右往左往する者たちだ。
蓮は窓から目をそらし、卓上の電話をとった。
「七星にかけて」
音声だけで発信がはじまる。蓮は電話が好きだった。同世代は電話よりメッセージアプリを多用することを知っていても、自分の流儀に従うことに気兼ねもためらいもなかった。
しばらくコールが続いても七星は電話に出なかった。蓮はもういちど告げた。
「呼び出しを続けて」
執拗なコールのあと、やっと電話機のランプがグリーンになる。
『もしもし』
「七星? 僕だよ」
『宮久保……さん』
受話器の向こうの声はためらいがちだったが、蓮はなんとも思わなかった。
「何度いえばわかるの? 蓮でいいよ。今、時間は?」
『あまり――あ、ちょっとなら』
「明日、夜八時に迎えに行くからさ。七星の住所を運転手に伝えてくれる?」
『明日?』
「こっちへ来たとき話したじゃないか、ハウス・デュマーのクラブ。ほら、踊りに行く話」
『あ、ああ――』
「まさか、誰かと約束したの? 得体のしれないアルファとつきあっちゃだめだよ。それともアレが近いとか?」
『え、いや、そんなのじゃなくて……』
五月にアフタヌーンティーへ誘ったあとも、蓮は七星に何度か電話をかけている。
気に入った人間をみつけると物おじせずに声をかけ「友達になろう」とするのは今にはじまったことではない。相手がアルファでなければ宮久保家はいつも蓮の好きなようにさせるし、蓮の誘いを断る人間はこれまでひとりもいなかった。七星が本当は断りたいのに、魚居や祥子の手前、またユーヤのスタッフとしても、蓮の誘いを断りづらいと感じていることなど、蓮は想像もしていない。
もっとも蓮の興味はいつも長く続かない。飽きた玩具を無視するように蓮が連絡を断ったあと、なお宮久保家に取り入ろうと余計な野心を抱いた者は、蓮を煩わせる前に排除される。
しばしのためらいのあと七星がいった。
『うん、でも迎えはいいから』
「どうして?」
蓮は不満げに問い返した。七星はいつも蓮の提案をまるごと受け取ろうとしない。
「七星、遠慮しないで。藤さんの運転は完璧だし」
『藤さん……?』
「うちの運転手だよ。それに行く前に寄りたいところがあるんだ。きっと気に入るよ。住所、メールして」
『……わかった』
実は蓮にはひとつ考えがあった。七星が着る服は蓮の好みとはかけ離れているし、顔や髪はもっと手を入れる余地がある。
蓮は自分の審美眼に自信があった。七星を少し改造すれば見違えるようになる。蓮と同じレベルにはならないにせよ、連れ歩いても遜色ないくらいにはなるはずだ。クラブで会う蓮の知人――もちろんアルファだ――に紹介するのも楽しくなる。
受話器を置くとすぐ、また受信のランプがついた。
『春日様がお見えです』
合成音声が喋ると同時にドアが開く。蓮は飛び上がるように立ち上がった。
「武流、来たの」
「ご機嫌じゃないか、お姫様。近くまで来たから寄った。邪魔だったか?」
「まさか」
武流は蓮と会う時はいつもそうであるように、余裕のある笑みを浮かべている。ベータなのに堂々としている従兄に蓮は子供の頃から懐いていたが、最初のヒートがはじまったとき、幼い思慕は明確な恋情に変わっていた。
武流は来客用のソファに腰を下ろし、蓮はすばやく隣に座る。肩をよせると手が回ってきて、腰を抱かれると胸の奥が甘くうずいた。
当時は絶対に叶わぬ恋だと思っていた。ベータの武流にとって、男性オメガの自分は弟のような存在で、恋愛や性的な対象にはならないと思っていたのだ。アルファを好きになれば忘れられる、と思ったこともあった。
事態が一変したのは、母親が蓮のつがいを選ぶために動き出した時だ。アルファの夫に噛まれる前に、一度でいいから武流におのれの心を伝えたい。遠ざけられてもいいと思ったのに、決死の告白は予想外の結果になったのである。なんと、武流も蓮を愛しているというのだ。
こうして蓮は初恋の相手と結ばれた。
だがこれは、武流と正式な関係になれることを意味しない。宮久保家はいとこ婚を忌避しないが、武流がアルファだったらあり得たかもしれない。だが武流はベータだった。蓮のヒートを健全に処理するためにアルファの夫が必要だという宮久保家当主の決定に背くことはできなかった。なにより武流が反対したのだ。
蓮は武流に唇をよせる。武流は蓮の腰を抱きながら、ついばむようなキスをして、そっと体を離した。
武流はいつだって、こうやって少しずつ蓮の欲望をかきたてる。ヒートのあいだは夫の伊吹と同衾するが、今のように自分の心が向かっていくような気持ちには一度もならなかった。堂々と親密にしていられないからこそ、武流のマンションでふたりきりになったとき、蓮の体と心は武流の下で蕩けてしまう。
たとえ結婚はできなくとも蓮に不満はなかった。伊吹を裏切っているという意識も――ほぼ――ない。とはいえ心の奥底で蓮は伊吹を恐れていた。初対面の時から、伊吹は蓮がそれまで知っていたアルファとは、何かが違った。
自分でも理由はわからなかった。当時もそのあとも、伊吹が蓮に敵意ある態度をとったことは一度もない。ヒートの時も紳士的で、アルファの力を誇示することもない。むしろつねに控えめで、宮久保家や蓮の要求を逐一きく。武流の方がアルファらしくみえることもある。
当主が蓮のために選んだアルファは名族の出身ではなく、生家の三城家は蓮が対等に付きあうような家とは到底思えない。三城家を援助すると当主に聞いて、蓮は伊吹を自分のために買ったのだと――正しく――理解した。オメガのヒートをなだめるためにアルファを買うというのは世間一般の常識からはかけ離れているが、女系アルファの宮久保家では意味が異なる。
「明日は七星とハウス・デュマーに行くんだ」
武流は眉をあげた。
「ななせ?」
「最近友達になったオメガだよ。僕と同い年のシングルだから、遊ぶついでに誰か紹介しようと思ってさ。素材がそこそこいいから手もかけたいんだ」
武流はにやっと笑った。
「新しいお人形か? 蓮の悪い癖だ」
「人聞きが悪いよ。七星はいい子だけど、名族じゃないんだ。もったいないでしょ?」
「オメガ相手だとしても、おまえの魅力は生半可な人間には毒だぞ。ほどほどにしといてやれよ」
武流の手が伸びてうなじを弄び、蓮は淫蕩な笑みを浮かべた。
初恋を叶えたのだと蓮は信じて疑わなかった。そう、だから蓮は今の状況に満足している。
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