30 / 56

第5章 七夕 1.笹の葉に短冊

 すっかり暗くなった窓の向こう側で、電車が光の筋を描きながら鉄橋を渡った。  七月七日、時刻は夜の八時すぎ。ユーヤのカフェは人でごった返している。  七星は紙コップのオレンジジュースを飲み干し、背伸びするようにかかとをあげて通路の方をみる。〈ユーヤ・七夕フェスタ〉――旧暦の七夕、八月二十二日まできれめなくつづく夏企画のオープニングパーティはいつにない大盛況だ。最初の乾杯と歓談のあと、今回参加するアーティストや演出家を紹介しているうちにまた人がやってきて、二度目の歓談タイムにはいつになくみっしりと詰めこまれた様子になった。  六月末にユーヤのクローズが公式にアナウンスされたのもあって、ひさしぶりに顔を出した人もいるにちがいない。直接の関係者はそれ以前に知らされていたとはいえ、貸スペースとしてユーヤを利用していた芸術系の学生やメンバーズ会員には初めての告知だったから、驚いたという人も多かった。学生のほとんどは遅れてやってきたから、はやばやと帰る人とのすれちがいで、階段と通路はやけに混雑している。  これだけ人がたくさんいると、このカフェも見通しがきかなくなる。  みしらぬ声と匂いが充満したおかげか、さっきまで気になっていた伊吹の気配――彼の匂いはいつのまにかわからなくなっていた。さびしい気持ち半分、ほっとした気持ち半分で、七星は無意識に紙コップを握りつぶした。  乾杯に間に合わなかったとはいえ、伊吹はわざわざオープニングに来てくれた。  ――伊吹さんはいい人だから……僕に会うためにユーヤに来るわけじゃない。  六月以来、何度これをいいきかせているか自分でもわからない。五月のおわり、伊吹とは〈運命のつがい〉――診断キットの赤い線や、おたがいに無視できない〈香り〉のことを話した。伊吹は七星に興味はなくても、生理的に惹かれてしまうのなら会わないでいるべきだ。伊吹にはつがいがいるのだから。  それなのに、ユーヤが九月におわることを言い訳に、ここへ来るのをやめないでくれ、といったのは七星の方だ。  乾杯のあとの雑談で、誰かが面白半分に持ってきた〈運命のつがい〉診断キットの話につい口をはさんでしまったのがいまだに悔やまれる。「適合者の場合は血で染めたみたいに赤くなる」なんて、なぜいってしまったのだろう。誰もつっこまなかったのはラッキーだった。もちろん伊吹は表情ひとつ変えなかった。 「七星君、飲み物なくて大丈夫?」  会話に夢中の数人を避けるようにして、祥子がこっちにやってくる。 「あ、大丈夫です――っていうか、足りますか? オープニングでこんなに人が来ているの、はじめてみました」 「うん、ひさしぶりだと思う。でもユーヤをはじめた頃はよくあったのよ。近所から苦情が出てあわててここにも吸音材貼ったりして大変だった」  祥子は当時を懐かしむような、ひかえめな微笑みをうかべた。 「クラブみたいになったこともあって――そうだ、七星君、またハウス・デュマーに行ったって? プラウの王子様に誘われて」  急に変わった話題に七星はびくっとした。 「六月の話ですよね?」 「うん、マツさんに聞いたわよ、踊りに行こうって誘われたんでしょ?」 「え、まあ……行きましたけど」  七星は口ごもる。六月のなかば、宮久保蓮から急に連絡が来て誘われたことを祥子は今日まで知らなかったらしい。 「カフェに行ったわけじゃないから、スイーツ報告はしなくていいと思ったんですよ」 「楽しかった?」 「楽し――うん、まあ、音楽はけっこうよくて……楽しかったけど、あんな世界もあるんだなって感じでした。あ、ノンアルのカクテルが美味しかったです」 「新しい知りあい、できた?」  小声できかれて、やっと七星は祥子の意図を理解した。二十代で、夫が死んだあと誰ともつきあっていないオメガが近くにいれば、誰でもすこしは気になる。でも祥子に聞かれるのなら、おせっかいとまで思わなかった。年齢は離れていても祥子は同じオメガだから、ベータの叔母に気にされるのとはちがう。 「宮久保さんの友だちに何人か紹介してもらいましたよ。ただみんな名族の人で、僕はかなり場ちがいっていうか」 「そうか。ちがったか」  祥子は慰めるようにいった。 「ま、経験にはなったでしょ。ハウスって慣れないと行きづらいし、出会いがないと進めるところにも進めないしね」 「そうですね。でもデュマーみたいなところ、僕ひとりじゃ行けませんよ」 「運命の相手に出会えたら、名族なんて関係ないかもしれないのにね」  七星は苦笑いをしただけで何もいわなかった。  しかしほんとうのことをいえば、「踊りに行く」ために蓮に連れまわされた数時間は七星にとって相当なカルチャーショックで、誰かに話したいけれどうまく話せないような経験だったのである。ほっとできたのは迎えに来た運転手の顔をみたときだけで――伊吹ではなく、感じのいい初老のベータだった――そのあとは何から何まで途惑うことばかりだった。  七星の住まいまで車が迎えに来たのは夜八時。まっすぐハウス・デュマーへ向かうのかと思いきや、蓮が向かったのは都心のショッピング街で、ハイブランドのブティックの前で車を止めさせると、閉店後にもかかわらず平然と店内に(もちろん七星をあとに従えて)入って行った。  今から服を買うのかと七星は最初呆れそうになったし、ひらけゴマの呪文を唱えるまでもなく、蓮のまえにある扉が開くのにも唖然とした。だが蓮が腰の低い店員に命じたのは自分の服装のことではなかった。 「これ、それにこれね。靴はあれ。サイズあるよね?」  そういって上から下まで一式そろえさせたのは、七星が着るものだったのだ。 「プレゼントだから、もらってね」  こんな高級なものは無理、と断ろうとした七星に蓮はさらりと、しかし有無をいわさぬ口調でいった。 「僕と遊ぶんだからさ、このくらい当たり前だから」  当たり前って何?  七星の疑問は、ひと目みただけで七星のサイズを把握した店員の迫力に押されて亀の首のようにひっこんだ。蓮の指示に驚いている様子もないところをみると、よくあることなのかもしれない。  七星は背中や腰のラインがきれいに出るシャツやパンツをはじめ、夜遊び仕様のハイブランド(七星にしてみれば、そんなブランドがあることも初めて知ったのだが)に着替えさせられ、隣接する美容室――これも閉店後である――の個室で髪をセットされ、眉まできれいに整えられた。  それからまた車に乗って、到着したハウス・デュマーでは、以前カフェに誘われたときとはちがう出入口から中に通される。VIPラウンジに足を踏み入れると、待ちかまえていたようにアルファがふたり立ち上がって、蓮と七星をクラブエリアまでエスコートした。  0時をとっくにすぎたあと、車でマンションに送ってもらうまで――蓮は帰りの車ではすっかり眠り込んでいた――すべてがこんな調子だった。  ハウス・デュマーのクラブフロアの、VIPエリアは一段高いところにある。蓮と並んで座った快適なソファにはひっきりなしに知らないアルファがやってくる。蓮が七星を友達だと紹介すると、彼らの態度はたちまち変わった。七星につがいがいないことは匂いでわかっているとはいえ、蓮の友人ならそれなりの扱いをしなければ、といった様子の変化だった。  彼らが壁のように近くにいたおかげか、途中で中央のフロアへ降りたときも、あからさまにその日の相手を探しているようなアルファは近寄ってこなかったし、遊び慣れた様子のオメガは遠巻きにこちらをみるだけだった。  途惑いはしたが、その夜は七星も楽しまなかったわけではない。クラブに行ったことが一度もなかった七星にとっては何もかもが珍しかったし、興奮もした。  中央のフロアに降りたときは音楽にあわせて体を揺らすのが楽しかったし、蓮のまねをして紹介されたアルファと踊ったり、話をするのも、すこしだけなら悪くなかった。VIP席にで供されたフルーツ満載のカクテル(ノンアルコールだと念を押して頼んだもの)は、薄暗いフロアでは宝石のように輝いてみえた。  とはいえ、もう一度誘われたとしても行きたいと思うかどうか。蓮のために集まった名族のアルファに囲まれていると、最後には品定めされているような気持ちになった。「蓮が友人だというおまえは何者だ」といった視線がつきささる気がするのだ。  そのうちの二人は七星に名刺を渡した――が、帰ってから洗面所の鏡をみたとたん、急に恥ずかしさがこみあげてきて、七星は二枚とも捨ててしまった。   どうみても遊び慣れない様子の七星を蓮がどう思ったのか、七星にはさっぱりわからなかった。服をもらったから、翌日お礼のメールを送ってみたが、蓮から返事はなかった。正直な話、その方がありがたかった。蓮の世界は七星の常識とはちがいすぎる。  あの日買ってもらった服はクリーニングに出して、クロゼットの奥にしまった。例外は靴だけだ。ハイブランドのスニーカーがこんなに履き心地がいいとは思わなかった。 「あ、帰るまえに、短冊に願いごと書いてね!」  祥子が声をはりあげて、七星は物思いからさめた。カフェの中央に立てた笹飾りのとなりに何も書いていない短冊とペンを用意してあるのだ。ただしこれは本物の笹ではなく、魚居が依頼したアーティストの作品である。  遠目にはよくある笹飾りにみえるが、短冊を下げるたび横に枝が広がって、モビールのようにバランスをとりながらちょっとずつ変化する仕組みになっている。旧暦の七夕まで来場者が自由に記入して吊り下げられることになっていた。リピーターが楽しめるようにというのもあるし、多少はソーシャルメディア映えもする。 「七星君は書いた? 願いごと」  笹飾りをみていたせいか、春日武流がワインを片手にやってきた。 「春日さんは?」  たずねかえすと年上のベータは笑顔をうかべて「看板少年、質問に質問で返すのはちょっとずるいなぁ」という。  グラスをもつ手があがった瞬間、ふわっと特徴のある香りが立った。森のような爽やかさとオリエンタルな花の匂いが七星の記憶をくすぐる。どこかで同じ匂いを嗅いだ気がする。 「俺くらいになると、七夕の願いごとはちょっと恥ずかしくてさ」  武流は陽気な口調でいった。六月の上旬だったか、友達のかわりにたまたま演劇公演を見にきてから、一カ月足らずで常連のようにユーヤに馴染んでしまっている。本人はしがない広告屋だというが、現代アートや演劇の事情にはそこそこ詳しく、あけっぴろげな雰囲気で、カフェに来るたびスタッフと雑談していれば自然とそんなことになる。七星も例外ではなかった。 「恥ずかしいなんていわないでやってくださいよ」 「じゃ、七星君がやったら俺もやる。あ、願いごとを教えてくれるだけでもいいよ」 「だめです。減りますから」 「おいおい、看板少年」  武流は声をあげて笑った。広告関係かつクリエイティブディレクターという仕事のせいか、ビジネススーツでここへ来たことは一度もない。気障にもみえかねない洒落たジャケットや色シャツで、デザインスニーカーを履いていたりする。どれも安物にはみえない。 「減らないかもしれないけど、願いごとって、書けといわれても簡単には思いつかないです」 「そうか? 七星君くらいなら、あれやりたいとかこれ欲しいとか、何でもあるだろう」 「七夕の願いごとって何でもいいんでしたっけ?」 「そういや、俺の子供の頃は習い事や勉強のことを書けっていわれたな。でも今は恋愛成就の願掛けみたいになってるだろ? ドラマの影響だな」  そのドラマの話は七星もわかる。七星が中学生のころに流行ったサスペンスものだ。七夕伝説とシンクロしたアルファとオメガの恋愛が軸になっていて、たしか、それぞれが相手に見えないように願いごとを書き、笹飾りに吊るすという場面がある。ふたりが結ばれるには障害が多すぎるのだが、短冊に書くのは口に出してはいけない願いだった。  主演の俳優はふたりとも無名だったが、ハッピーエンドに至るまでの紆余曲折が視聴者をやきもきさせ、面白いと口コミが広がって制作陣も予想外のメガヒットを果たした。中学生だった七星はさっぱり面白いと思わなかったが、母親の未来はかじりつくように見ていた。  あのドラマを今みても、きっと七星は面白いと思えないだろう。大っぴらにいえない願いなんて、考えてしまうこと自体まちがっている気がする。  七星がそう考えたとき、狙いすましたように武流がいった。 「七星君は願うのがいけないことだって考えるタイプ?」 「え?」 「なんとなくそんなイメージあるからさ。ほら、自分勝手なのはよくないからって、抑えたりしてない?」  どきりとしたのを隠すように七星は笑った。 「そんなこと……ないですよ」 「願うのは自由だからさ。あ、もちろん、気をつけなくちゃいけないけどね。おっと、電話だ」  有名なことわざだ。――願いごとには気をつけなさい。叶ってしまうかもしれないから。  またもどきりとした七星にうなずいて、武流はスマホを耳にあてながら人のあいだを抜けていった。彼がうしろをむくとまたさっきの香りが立ち、七星はようやく思い出した。  ――これ、蓮の香水と同じだ。  すぐに気づいてもよさそうなものだった。ハウス・デュマーへの往復で、ずっとこの香りを嗅いでいた――そう思ったとき、七星はまたはっとした。  ――そういえば春日さん、今日ここに来た時に伊吹さんと親戚だっていってたじゃないか。春日さんをみて伊吹さんは驚いていたし、たしか祥子さんにも―― (イトコの結婚相手なんですよ。な、伊吹?) (えっと、三城さんの奥さんと親戚ってこと?)  伊吹の妻は蓮だから、つまり武流は蓮の従兄で、彼も宮久保家の関係者なのか。  そう思うとふにおちるものがあった。武流のファッション、とくにあのスニーカーは蓮が七星に買ったハイブランドにそっくりだったし、いま思うと服装にも蓮に通じるものがある。香水の趣味も同じなのかもしれない。  ――でも、変だな。  七星は顔をしかめた。アルファの名族なんて、一般人が遭遇することなんかめったにないはずないのに。どんな偶然でこんなことになるのだろう?

ともだちにシェアしよう!