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第6章 天の川 7.透明な檻

 境一有にとって、照井七星の第一印象は「おとなしそうなオメガの子」だった。少なくとも、彼が後部座席に乗り込むときの姿勢や、シートベルトを締めながらおずおずと発した言葉は、それを裏付けるものだった。  細身で小さめの顔の中、くるりと大きな目が印象的で、やや子供っぽく見える。しかしベータの一有から見れば、きわだった容姿というわけではない。 「すみません、あの……車まで出してもらって……」  一有はモニターで周囲を確認する。八月九日、水曜日の午前十時。道路に停車中の乗用車はなし。宅急便その他の配達車両もなし、ガスや水道の検針業者もなし、不審な歩行者もなし。 「全部仕事のうちですから、気にしないでください」 「境さんってSP……なんですよね? あの、ドラマに出てくるような」  おっと、おとなしいだけでなく、案外好奇心の強いタイプなのかも。一有は苦笑しながら車を出す。 「そんなかっこいいやつじゃないですよ。弊社ではCPと呼びます。クローズド・プロテクションの略です」 「クローズド――やっぱり映画みたいだ」  七星はぼそっとつぶやき、座席に沈みこんだ。ミラー越しにその様子を観察し、一有はまた印象を修正した。七星はふざけているわけではないし、皮肉をいったわけでもない。外界で起きていることに流されず、自我を保ったままついていくために、緊張をほぐそうとしているのだ。  クライアントの性格や行動分析は個人警護の基本である。照井七星はけっして気が強い方ではなく、積極的に前に出ていく性格でもないが、本当の困難に直面した時、おとなしく他人のいうままになる人間ではないとみえる。 「鷲尾崎に聞いたと思いますが、自分の他にもうひとり担当がいます。木谷という男ですが、今日帰宅した時、照井さんの立ち合いでご自宅の安全確認をさせてもらいます。基本的には盗聴器やカメラなど、不審な機材がないかの確認です。木谷は主に裏取り調査に回るので、今日以外は顔を見ることはないと思います」  脩平は今ごろ、三城伊吹と七星が連れ込まれたビジネスホテルを調べている。他の盗撮犯罪にも使われている可能性があるからだ。 「会えばわかりますが、自分の倍くらい幅があるベータです。びっくりしないでください」 「は、はい。ありがとうございます」 「これも鷲尾崎が説明していると思いますが、ヒヤリングを職場でさせていただく件、上司の魚居さんには許可をいただいています。ヒヤリングの際、魚居さんやパートナーの方に同席してもらいたいですか? かまいませんよ」 「え……いえ。大丈夫です。祥子さんたちにはもう迷惑をかけてるから、これ以上は……」  ミラーの中で、七星は何かに気づいたようにハッとした目つきになった。 「すみません、気遣っていただいて」 「いえ。通常の手順ですから」  職場だという〈ユーヤ〉は一有にはなじみのない施設だった。多目的アートスペースというのだろうか。再開発でいずれ取り壊されるという建物はみるからに古く、内装も手作りの雰囲気がある。センスはいいが庶民的だ。名族にサービスを提供するアウクトス・コーポレーションの業務にはあまり関わってきそうにない。  七星の上司の魚居もアルファだが名族ではなく、物腰は柔らかかった。だが、ヒヤリングのために用意してくれた白い空間――小規模の展示に使われるという――に一有を案内したときの目つきは鋭く、一城の主であるアルファの迫力は十分だった。  名族でなくてもアルファはアルファだ。家、店、劇場――自分のもの、自分の領域、そう決めたものを必ず守ろうとする。その中心にはつがいのオメガがいる。  それが〈運命〉だったら?  一有は白いテーブルに七星と向かいあって座った。ファイルとレコーダーを正面に並べる。 「何度も同じことを話すのは嫌かもしれませんが、繰り返し話していると、忘れていた細部を思い出すことがあります。四月からの出来事を順に確認していきましょう。話しているとき、どんな細かいことでもかまいません。おかしいと思ったことや、理由はわからないが印象に残っていることなどがあったら、全部教えてください。宮久保家との交渉を有利に持っていくヒントが見つかるかもしれない。それから、三城さんと知り合ってから、照井さんが会った宮久保家の関係者について、できるだけたくさん思い出してほしい」  七星は一有をまっすぐみつめている。 「それ、伊吹さんの助けになりますか?」 「まだわかりません。我々はほころびを探しているんです」  七星はきゅっと唇を噛んだ。 「わかりました。がんばってみます」  一有はファイルを広げると、レコーダーのボタンを押した。  八月の宮久保家は、いつもにも増して人の出入りが激しい。  といってもそれは広大な敷地の中の話であって、宮久保姓の家族が暮らす屋敷の中心は、特に変わったことはない。  人の出入りが激しいのは盂蘭盆の準備のためである。宮久保家独特のしきたりもあれば、この地域独特の様式でひらかれる盆の行事もある。  幼い頃、宮久保蓮はそんな八月の雰囲気が好きだった。夏休みもなかばをすぎ、退屈していたところに大勢が集まってくるのだ。毎年、蓮に割り振られた役割も何かしらあった。  しかし今年の夏は、何かがおかしかった。  化粧室を出て家族のリビングへ向かう途中で、蓮は何気なく後ろを振り返った。今日も扉は閉じていた。この一週間、ずっとそのままだ。家政婦長に伊吹は社用でしばらく帰らないと聞かされてはいる。しかし蓮に直接連絡は来なかった。  結婚して三年経っても、いまだに伊吹は蓮にとって「親にあてがわれたアルファ」だった。つがいになっても、愛情はもとより友人同士のような親しみすら感じなかった原因に「あてがわれた」という意識はもちろん大きく作用した。だから伊吹が寝室の外で「夫」の立場で行動しようとするたび、蓮は反発し、伊吹を軽んじた。  だが伊吹はそれでもアルファだった。同じ家内にいれば、オメガの蓮はその存在を意識せずにはいられない。伊吹が帰ってこない一週間は、蓮がそれを再確認した一週間でもあった。  リビングに入っていくと、ソファから志野が立ち上がった。妙にうろたえたような仕草である。 「蓮」 「どうしたの、志野姉さん。深刻な顔をして」  蓮はきょとんとした顔で問い返した。 「あのね……蓮。武流さんから聞いたんだけど……」  武流。その名前を聞くだけで、蓮の鼓動は早くなる。子供のころから好きだった従兄は、秘密の恋人同士になった今、以前にも増して蓮の胸をどきどきさせるようになっていた。まさか、と思った。ふたりの関係を志野に話したのだろうか? 「武流さんが? 何を?」  だが、志野の答えは蓮の想像とはまったくちがうものだった。 「伊吹さんのことよ」  志野は蓮をソファに座らせると、武流に聞いたという「伊吹の浮気」について話しはじめた。

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