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act.7 Angelic Kiss 〜 epilogue 2
「もしもし」
慌てて電話に出ると、優しい響きの声が聞こえてきた。
『遅くにごめんなさい。拓磨、今大丈夫?』
落ち着いたトーンの朗らかな声に気持ちが安らぐ。仕事に忙殺される日々に荒みがちな心が洗われていくような気がした。
「謝らないといけないのはこっちだよ。俺に電話をするためにこんな時間まで起きてたの? 夜更かしは身体に障るから駄目だよ」
ソファに身体を沈めながらそう気遣えば、小さな笑い声が耳元をくすぐる。
『私なら平気よ。少しお昼寝をしてしまったから、目が冴えてるの。お昼にメッセージを送ったとき、今日もきっと終電で帰るって返事をもらったから、このぐらいの時間なら繋がるかと思って』
そうだ。そんなやり取りをしたというのに、仕事に追われるうちにすっかり失念していた。
忘れっぽくなっているのは疲れている証拠だ。
「母さん、元気にしてる?」
俺も話がしたいと思っていたんだ。
育ての母とこうして会話をするのは、仕事を辞めると報告して以来だった。それほど前のことではないけれど、あれから随分状況が変わったなと思う。
『もちろんよ。元気が私の取り柄だから。それよりあなた、この間電話した時は仕事を辞めると言ってたのに、ちゃんと続けてるのね』
探るような言い方に、内心舌を巻く。
ああ、やっぱり俺はこの人には敵わないな。
「そうだよ。辞めるのを辞めたんだ」
軽快にそう返せば、嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。
『いいじゃない。頑張ってね。応援してるわ』
警察官になりたいという子どもの頃からの夢を、この人はずっと応援してきてくれた。俺が採用試験に合格したときには誰よりも喜んで、辛く苦しいときも支えになり、見守ってくれていた。
ねえ、母さん。
全ては、俺があなたに電話をしたことから始まったんだね。
他愛もない会話を交わしながら、俺は確信している。
この人は、実の息子──羽山誠が失踪した後も連絡を取っていたんだ。
結婚して妻の姓を名乗るようになったにもかかわらず、妻の妹と不倫の末駆け落ちをした、不実な俺の義兄。
時が経っても薄れることのない記憶を呼び覚まし、あの端正な顔を思い浮かべる。
妻の家にこの上なく不義理なことをした男であっても、母にとっては血の繋がった息子だった。親子を結ぶ糸は、彼が姿を消してからも確かに繋がっていたのだろう。
そして慈悲深いこの人は、俺にも等しくその愛情を注いでくれていた。
「そうだ。次に会ったとき、母さんに見せたいものがあるんだ」
『見せたいもの?』
意外そうな声に、俺は半分だけタネを明かす。
「プリントシールなんだけど」
『ゲームセンターにある、あれかしら』
「そう。まだしばらくは帰れないけど、そっちに行ったらその時にね」
少し考え込むような間の後に、クスリと笑い声が聞こえた。
『ええ。何だかわからないけど、楽しみにしてるわ』
ハルカとミチルと俺の、三人で撮ったプリントシール。
母の驚く顔が、目に浮かぶようだった。だって、そこに写っているのは、あなたの── 。
「じゃあ、身体を大事にね。また連絡する」
『あなたこそ、身体には気をつけてね。おやすみなさい、拓磨』
「おやすみ」
通話の途絶えた音を何度か聞いたあと、安堵の溜息をついて電話を切った。
リビングを出て寝室へと入る。母と話をしたことでふと思い出したことを、眠りにつく前に実行したかった。
しんと静まりかえる部屋の明かりを点けて、ローボードの中を探ればガラス製の灰皿とシルバーのオイルライターが見つかった。
三年ほど前に禁煙して以来使ったことのないそれをテーブルに置いて、メモ用紙とペンを取り出す。
一呼吸おいてから、俺は幼い頃の記憶を辿っていく。
小さな炎に包まれて、空へと立ち昇る煙。
それは、生みの母に宛てて書いた手紙が天国まで届くよう、育ての母と一緒に燃やしたあの時の想い出だ。
自分の気持ちを整理するために、俺は子どもの頃と同じ儀式をしようとしていた。
俺の心を奪ったまま姿を消した人たちに、祈りが届くように。
小さな紙片にペンを走らせて、名前を書いていく。
一人目は、生まれて初めて本気で好きになった初恋の相手。
そしてその下に書くのは、ここで四日間を一緒に過ごした、初恋の人と同じ顔と匂いを持つ人。
ふと見上げれば、壁の掛時計が目にとまる。この時計を見る度に、俺はハルカと過ごした最後の夜を想い出すだろう。
四日間を終えたあの夜、ハルカが出て行ったのは午前0時ではなかった。
この時計は、四十分ほど時間を早められていたんだ。恐らくは、俺がミチルと職場へ行って家を空けていた間に。
そんな細工をしてこの家を出た後、ハルカが日付が変わるまで誰と一緒にいたのか。俺にはもう想像がついていた。
二人の名が並んだ紙を灰皿の上に置いて、ライターに手を掛ける。
何度かホイールを弾いた後に着火したライターをそっと灰皿に近づければ、紙は一瞬で燃え上がった。
断ち切れない想いを乗せて、煙が細く立ち昇っていく。
どうか俺の大好きな二人が幸せでありますように。
心の中で呟きながら、ゆっくりと目を閉じる。
これでもう、大丈夫だ。
俺は今度こそ過去の全てを昇華させ、前を向いて歩んでいくことを心に誓う。
忘れられない大切な二人の名前を瞼の裏に思い浮かべながら。
『羽山 朋未』
『羽山 飛鳥』
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