目の前にあるのは、淡い灰色の建物だ。入り口に建つ古めかしいミッション系の学舎とは対照的に、コンクリートの打ちっぱなしは近代的な印象を与える。 けれど、この建物もおそらく相当年季が入っている。建築された当時はきっと先進的なデザインだったのだろう。どこかレトロな雰囲気のあるこの棟も、僕はとても好きだった。 ここは、サキの通っていた生物理工学部の研究室が入る棟だ。この大学ではそれぞれの建物にアルファベットが割り振られていて、Ｊ棟というのがこの棟に付けられた名称だった。 ミツキに導かれるまま、エントランスに足を踏み入れる。 サキの研究室があった場所を、今でも僕は鮮明に憶えていた。階段を使い、三階まで登っていく。 サキの邪魔になってしまってはいけないと思いながらも、幾度かここへ足を運んだことがあった。サキが取り組む遺伝子の研究は、僕には難解なものだった。重い病に苦しむ誰かを救うために学問に勤しむ恋人のことを、僕は誇らしく思っていた。 不意に清潔な白い布が目に留まる。白衣の裾だった。 階段で白を纏う男の人とすれ違いざまに思わず顔を見上げ、サキではないかと確認してしまう。全く別の面立ちをしたその人に落胆している自分を愚かに思った。 けれど、この場所には今もなおサキの気配が息づいているような気がしてならない。 ──飛鳥、こっちが俺の研究室だ。 聞こえぬはずの声に導かれ、ミツキと手を繋いだまま僕はサキの亡霊を追いかける。 リノリウムの白い廊下は、サキが死の直前に入院していた病院を喚起させる。二人分の足音が、時を刻むようにカツカツとリズミカルに響き渡る。 この空間が異世界へと続いているような気がして、不意に不安を覚えた。 「ミツキ、どうしてこの場所に来ようと思ったの」 問いかけながらも納得のいく答えが返ってこないことはわかっていた。僕をここへ連れてきているのはミツキではない。僕の旅路にミツキが寄り添ってくれているに過ぎない。 これは、僕の四日間なのだから。 「実はね、アスカに会わせたい人がいるんだ」 思いがけない言葉にミツキの顔を見上げる。凛とした瞳は悪戯っ子のように輝いていた。 「俺が会わせたいっていうよりも、アスカに会いたいと思ってる人がいる。そういう言い方のほうが正しいかな」 ミツキの知り合いに、僕に会いたいなどという人がいるのだろうか。思い当たる節がない。 長い廊下にはひしめき合うように灰色の扉が並ぶ。サキの研究室は、あの角を曲がってすぐの扉のはずだった。 心臓がドクドクといつもより大きな音を立てて鳴っている。自分の生きている証を確かに感じながら、僕はミツキとその角に差し掛かった。 視界に飛び込むのは、白衣に身を包んだ小柄な人影。 意外な再会に僕は息を飲む。 あの頃真っ直ぐに伸びていた髪は、潔いほどに短くなっていた。 「お久しぶり、弟くん」 「マキタさん」 思わずそう口にする。槙田優希。それが目の前にいる彼女の名前だった。 「憶えててくれたのね」 桜色のルージュを引いた唇が、緩やかな弧を描く。 彼女はこの研究室に所属している大学院生で、つまりはサキの後輩だった。 僕が高校生だった頃。まだ僕がサキと隣に住む幼馴染みとして接していたときのことだ。 サキが自宅に連れてきた彼女を見て、僕はひどく劣等感を覚えた。その後、僕が夏休みの時期に大学の公開講座に参加した際に、彼女から宣戦布告をされたこともあった。 結局のところ、サキと彼女の間には何もなかった。サキが家に呼んだのも、当時飼育していた生物を預けるためだったと後から聞かされたのだけど、それでも僕は彼女に強い嫉妬心を抱いたことをよく憶えていた。 彼女がサキに好意を寄せていることはわかっていたし、同じ分野を研究する彼女の方が、僕よりもずっとサキに相応しいと感じていたから。 サキと共に同じ道を歩む、美しい女の人。 『聞いてない？ 私たち、付き合ってるの』 サキに淡い想いを寄せていたあのとき、この人からそんな言葉を投げかけられたことを忘れるはずもない。 その彼女が、今再び僕の前にいる。 ミツキと手を握り合っていることに罪悪感を覚えて、僕は右手を離してしまう。 「どうして……」 そう呟くと、ミツキは狼狽える僕を気にも留めず、穏やかな眼差しを向けてくる。 「アスカの居場所を捜すために、彼女にアスカの家を教えてもらってから、時々連絡を取ってたんだ」