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act.4 Lost-time Kiss 〜 the 1st day 2
「絵が上手なんだね」
「うん。おえかき、好き」
一心に鉛筆を動かす歩の手元をアスカが興味深そうに覗き込んでいる。
「アスカの顔、描くね」
そう言って、さらさらと紙に鉛筆を滑らせる。ここへ来てからというものの、歩はまるで俺に関心を示さない。
「できた! アスカにあげる」
歩が描いたアスカの顔は、拙いなりにもかわいかった。ご丁寧に目の中にキラキラした星まで入っている。
「うまく描けてる。ありがとう」
アスカはふわりと花開くように微笑みながら小さな頭をそっと撫でた。歩はデレデレとはにかんでいる。おい、お前そんなにいい子だったか? いつものライダーキックは封印か。
「そろそろお昼ごはんの支度をしようか。何が食べたい?」
「カレーライス!」
目を輝かせながらそう答える歩を見るアスカの瞳は優しい。まるで母親が我が子を見るみたいだと思う。
「じゃあ、買い出しに行こうか」
三人で近所のスーパーへ行くことになった。マンションのエントランスを出て右に曲がったところで、後ろから歩が俺を呼ぶ。
「光希!」
振り返った瞬間、ライダーキックが飛んできた。小さな足裏がまともに脛に入って、崩れたバランスを立て直しながらケラケラと笑う歩を両腕で捕まえる。
「こら!」
小さな身体を抱き上げると、アスカがこちらを見て笑っているのが目に入った。その微笑みがあまりにもきれいで、俺はどぎまぎしてしまう。
歩が来てくれてよかったのかもしれない。アスカとあのまま二人でいたら、ずっとぎこちないままで間が持たなかっただろう。
広い遊歩道を、歩を挟んでアスカと三人で手を繋いで進んでいく。
「アスカってママみたい。男だからパパかな。でもいいにおいだから、やっぱりママかも」
歩が嬉しそうに繋いだ手を振り回す。こいつ、こんな性格だったのか。
「じゃあ、ミツキは?」
アスカが歩にそんなことを訊く。アスカがママなら、俺はパパぐらい言っとけよ。
「しもべ」
「おい、いい加減にしろよ」
全く、こいつは。生意気だと思いながらも、こうしてじゃれてくる歩は俺にとってそれなりにかわいい甥っ子だった。
スーパーで食材を買って家に帰りつく。アスカは出かける前に洗っていた米を炊飯器に移してスイッチを入れ、野菜を切り始めた。
「俺も何かするよ」
「大丈夫。ミツキはアユムくんを見てて」
やんわりと断られてしまって、俺は歩のもとへと戻る。心なしかアスカの態度は今朝より解れているような気がした。
ごはんが炊ける頃には、カレーとサラダができていた。三人で小さな円卓を囲んで手を合わせると、まるで家族みたいでなんとなく照れくさい。
「アスカのカレー、おいしいね!」
口に入れた途端、歩が目を丸くして感嘆の声をあげた。
「りんごをすりおろして入れただけだよ」
幸せそうな顔でカレーを頬張る歩を、アスカは笑顔で見つめている。
一口食べてみれば、程よい甘味は確かにおいしくて子どもが食べやすそうな味だった。
「ミツキ、カレー好きじゃなかった? よく食べてたよね。学食で」
不意に話し掛けられて、落ち着いていた鼓動が少し速まるのがわかった。
「よく憶えてるな。今でも食べてるよ、学食のカレー」
「懐かしいな」
そんなことを言うなよ。いつでもあそこに戻れるんだから。
もう一度カレーを掬ったスプーンを咥えると、フルーティな味がじんわりと口の中に広がっていく。
アスカに料理ができるなんて、知らなかった。そもそも俺はアスカの友達なのに、アスカのことを何もわかっちゃいなかったんだ。家がどこなのかも、よく行く場所も、他に仲のいい友達も。
だから居場所を捜すのは本当に大変だった。友達だなんて言っても、俺たちはその程度の仲に過ぎなかった。
「ごちそうさまでした!」
カレーを二杯もお代わりして満足した歩は、空いた皿をキッチンのシンクへと持って行く。
「お片付けができて、えらいね」
「ねえ。俺、いい子?」
「うん、すごくね」
必死にアピールしながら擦り寄る歩をアスカが抱きしめる。歩、何だよそのデレた顔。お前、まさか。
「俺、アスカと結婚する!」
アスカ。お前、魔性の男だな……。
それでも、歩を抱き寄せて天使のような微笑みを浮かべるアスカはすごくきれいで、俺はつい見入ってしまう。
「なあ。なあなあ、光希」
小悪魔が俺を足蹴にしながら呼んでくる。こいつといると妙に疲れるのは、エネルギーを吸い取られているからかもしれない。だから歩は俺の分まで元気なんだ。
「あれ、取って。あれで遊びたい」
姉ちゃんが持って来た玩具にも飽きてきたんだろう。歩は部屋の壁を指差す。
フレームのない、青のグラデーションカラーで数字が並んだ掛時計。以前ふらりと入った北欧系のインテリアショップで買ったものだった。針がむき出しになっているから、回して遊ぼうとでも思っているのかもしれない。
「あれは駄目だ。壊れたら時間がわからなくなるだろ」
「ちぇっ、ケチ」
一丁前に悪態をつきながら頬を膨らませる歩に、アスカが優しく話しかける。
「お家の中、飽きてきたんでしょ。外で遊ぼうか」
はしゃぎながら遊具を渡り歩く歩を、俺とアスカはベンチに腰掛けて見ている。
公園にいるのは、俺たちの他に親子連れが一組だけだ。
アスカの横顔をそっと見ると、その姿は空気に溶け込んでしまいそうなほど儚くて、思わず目を凝らしてしまう。
俺の視線に気づいたのか、アスカがこちらを振り向く。間近で目が合って、心臓が大きな音を立てて鳴り響いた。
「ミツキ、ずっと心配掛けてごめん」
「謝ることじゃないよ」
謝らなければいけないのは俺の方だった。そのために捜していたんだ。
冷たい風が頬を撫でて、アスカが小さく身体を震わせた。
「ちょっと肌寒いね」
「薄着だからじゃないか」
上着を脱いでアスカに掛けてやると、一瞬だけ手が触れ合った。
「いいよ。ミツキが寒いでしょ」
「俺はこれでちょうどいいんだ」
嘘じゃなかった。気を遣ってるわけでも何でもなく、アスカといるとそれだけで身体が熱を持っているような感じがした。
「……ありがとう」
頬を染めて微笑むアスカは本当にかわいくて、一瞬あの頃に戻ったような気がした。
「アスカー!」
こちらに向かって大きく手を振る歩にアスカが手を振り返す。それを眺めながら、俺は心の中で問いかける。
なあ、アスカ。今でも俺たちは、友達なんだろうか。
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