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act.6 Platinum Kiss 〜 prologue 1

嫌なにおいがする。 息の止まるような大きな衝撃からようやく目を開ければ、何かに押し潰されたようにひしゃげた車内が見えた。 全身が痛くて堪らない。息を吸って吐く度にヒューヒューと鳴る自分の呼吸音がうるさくて耳障りだ。 前の座席に座る二人の身体が、不自然な角度に歪んでいる。まるで、糸の切れた操り人形が人間に踏みつけられたようだ。 隣を見ようとするのに身体に力が入らない。 目だけを必死に動かせば、二歳年上の姉が目を閉じて眠っているのが見えた。 天使のように穏やかな寝顔だ。 ──(ソラ)。 名を呼んだはずなのに、声は出ない。 遠くでくぐもった声が聞こえたかと思えば、唐突に耳元で派手にガラスの割れる音がした。 窓の割れ目から伸びてきた手が、ドアの内側に掛かる。大きく力強い手だ。ロックが外れて、ドアが勢いよく開放された。 『おい、大丈夫か!』 切羽詰まった知らない男の声と共に、鼻につくにおいを孕んだ冷たい空気が流れ込んでくる。 この状態が大丈夫と言えるのか。俺にはそれさえわからない。 オレンジ色の服を着た男に抱き上げられた。赤いライトが天上に広がる闇を裂くように照らしている。 ああ、今は夜だったんだ。車の中でずっと寝ていたから、気がつかなかった。 『よく頑張ったな。もう大丈夫だ』 その力強く優しい笑顔に、俺は懸命に縋ろうとする。 ──空を、お父さんとお母さんを助けて。 声を出そうとしても言葉にならなくて、必死に目で訴える。 その後ろにいた、同じオレンジ色を身に纏う男が後部ドアから車内へ入っていくのが見えた。 よかった。空、もう大丈夫だよ。 身体中の痛みで気を失いそうになりながら、俺は安堵する。 『危ない、逃げろ!』 どこかから声が聞こえた途端、俺を抱えた男が勢いよく走り出した。 ドン、と破裂するような大きな衝撃音がした。 男の肩越しに、車のボンネットから紅蓮の焔が上がるのが見える。 ──待って。あの中には、まだ。 心の叫びは声にならない。 女の子を抱いた男がこちらに駆け寄ってくる。その逞しい腕に小さな身体を預けて、空は死んだように眠っていた。 瞬く間に焔に包まれていく車を、俺は呆然と見つめることしかできない。 あの光景、におい、音。幼い頃の遠い記憶は、今も鮮やかに脳裏に焼き付いている。 それが、俺たちきょうだいが両親を失った日になった。 仄かにダウンライトが灯る薄暗い空間は、海の底を連想させる。 『PLASTIC HEAVEN』の名を掲げたこの店は、会話の邪魔にならない程度の音量でジャズが流れる落ち着いたバーだった。 店の奥へと歩みを進めながら、天井に目をやる。プラスチックの空には、俺の望むものは見えない。 テーブルの間を縫って辿り着いたカウンター席に腰を掛ければ、この店のマスターらしき整った容姿の男が目の前で俺をじっと見据えていた。 モデルだと言われれば素直に納得できるほどに、人を惹きつける特有の雰囲気を醸し出している。 愛想の欠片もないぞんざいな態度は、およそ客商売に向いていない。ある程度の年齢にならなければ出せない男の匂いを漂わせるその姿は、なぜか見ているだけで神経に障る。 それは多分、威圧的な視線のせいだ。 「ご注文は」 よく響く低い声が、耳に届く。 「人を雇いたいんだ」 俺の言葉に、マスターはスッと目を細める。 「悪いが、うちはそういう店じゃない」 俺はこの男の気に食わなかったらしい。けれど食い下がるわけにいかない。 「頼む。アスカの噂は知ってる」 その名を口にすれば、こちらに注がれる眼光が一層鋭くなった。 「……あいつは、今あまり外に出せる状態じゃないんだ」 重苦しい沈黙が続く。 おもむろに、マスターが手を動かしてカクテルを作り出した。軽やかにシェイカーを振る手つきは優雅で美しい。 グラスにゆっくりと液体が注ぎ込まれる。 カウンターに置かれた小さな衝撃に、白く濁る液体がグラスの中でゆらりと揺れた。 手に取って口をつければ、酸味の効いたドライな味が舌を刺激する。──ギムレットだ。 なぜこのカクテルを出したのか。そこに隠されているかもしれない意図は、俺には窺い知れない。 「どんな奴の心にも入り込める男が必要なんだ。アスカにはそういう力があるはずだ」 男は俺の目を見つめる。全てを見透かすような瞳は、平均的な日本人より淡い色をしている。 「俺にはアスカが必要だ。これさえ終えれば、俺の人生はもう目的を果たす。頼む」 視線が絡まり合う。引くわけにはいかない。その眼差しに呑まれないように、俺は必死だった。 「……ギムレットには、早すぎる」 不意にその口からこぼれた言葉に、俺は眉を顰める。 「何だって?」 訊き返しても、答えは返ってこない。 「契約には幾つか条件がある。その前に、約束してほしい」 俺を捕らえる眼差しには、焦燥と翳りが見えた。 「アスカが無茶なことをしようとしたら、絶対に止めてくれ」

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