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act.7 Angelic Kiss 〜 the 1st day 16

ハルカは誰かに身を委ねることに怯えている。こうして一緒に過ごしていると、なぜかそれがひしひしと感じられる。 それは、ハルカにあの所有印を付けた誰かと関係があるんだろうか。 右手を繋いだまま左手で買い物カゴを持ち、スーパーの野菜売り場から順番に回ろうと足を踏み出せば、ハルカがおもむろに訊いてくる。 「タクマさん、今夜は何にする?」 「何でもいいけど。夜はちょっと冷えるし、寄せ鍋なんてどうかな」 「うん、いいね」 頷きながら、ハルカは野菜の並ぶ棚で品定めをするようにじっと商品を眺める。 すれ違う人から向けられる好奇の視線が、俺には心地いい。その目はハルカを見て、俺を見て、またハルカを見る。その時にはもうこの奇跡のようにきれいな姿に釘付けになってる。 恥ずかしいなんていう気持ちは微塵もない。ハルカを連れて歩くことに優越感を覚えている俺は、見知らぬ通りすがりの誰かにさえ見せびらかしたくて仕方がない。胸の中はそんな子どもじみた気持ちでいっぱいだった。 売り場を回りながら、ハルカは白菜、長ネギ、椎茸と鍋用の野菜を次々に俺の持つカゴの中へと放り込んでいく。 「鍋って、つい作り過ぎちゃうんだよね」 「俺もだ。あれって、どうしてなんだろうね」 二人で顔を見合わせて笑って、手を握り直す。そんなささやかなことが幸せだと素直に思った。 「僕、何でも食べられるしタクマさんの好みに合わせるよ。鍋の中身、どうする?」 「葛切りは好きだから入れたいな。豆腐は木綿がいい。ここのスーパーで売ってる黒豚がうまくて、しゃぶしゃぶ用の豚バラでペラペラに薄いのがあるんだ。その食感がすごく好きでさ」 「じゃあ、それにしよう」 こんなに気分が弾むのは、いつ以来だろうか。 こうしてハルカと話しながら食材を選ぶことが妙に楽しい。まるで同棲を始めたばかりのカップルのようなこの状況に、俺は完全に浮かれていた。 ハルカが棚の上に腕を伸ばした拍子に、腰を引き寄せてみる。頬に触れる髪がくすぐったい。ふわりと鼻を掠める甘い匂いに誘われながら、俺は口を開く。 「ハルカ、好きだよ」 耳元で秘め事のように囁けば、ハルカは俺を見上げてゆらりと(くゆ)るように笑った。 「タクマさんって、本当にかわいい人だね……」 十四も年下の、こんなにかわいいハルカに言われては俺も立つ瀬がない。 この位置なら、誰からも見えない。 屈み込んで盗むように桜色の唇に口づける。一瞬で離したのに、覗き込んだその瞳にはもう濡れた光が浮かんでいた。 もっととせがむ眼差しに揺らぐ理性を必死に抑え込み、身体を離して二度目のキスの代わりにその唇に指で触れた。 この調子で帰ったら、食事なんてどうでもよくなってしまうかもしれない。 繋いでいる手を引いて、止めていた歩みを進めればハルカは少し残念そうな顔をしながら俺についてくる。 全く、ハルカと二人で外を歩くのは危険だ。 目ぼしいものはほぼカゴに入れ終えて、レジの方へと向かっていく。 「そうだ。明日の朝はパンがいい? ごはんにする?」 自分は朝食がいらないと言っていたのに、俺のためにそんなことを訊いてくるのがまた健気でかわいいと思う。 「トーストの一枚もあればじゅうぶんだ。ハルカは明日ゆっくり寝てればいいよ。自分でするから」 「そんな……手間なんて気にしなくていいのに」 ハルカはそう言って俺を横目で見つめる。きれいな顔に浮かぶのは、悪戯っ子のような魅惑の笑み。 「だって、そういうのは全部料金に含まれてるから」 ──料金? 唐突に飛び込んできた違和感のある言葉に眉を上げた瞬間、俺の目は視界の隅に映る人影を捕らえる。 無人のベーカリーコーナーに立つ、一人の少年。 小柄でやや痩せぎすの身体に、これから登山にでも行くのかというほど大きなリュックを背負っている。 キョロキョロと視線が泳いでいて、ひどく落ち着きがない。それで周りを見ているつもりなんだろうが、緊張しているせいで視野が狭くなっている。 だから、離れた位置から俺達が見ていることにも気づかない。 関わっちゃいけない。俺はもう仕事を辞めるけど、今のところ身分は年次休暇消化中の警察官だ。そんな中途半端な立場で面倒事に巻き込まれるのは、絶対にごめんだった。 けれど、こちらを見上げたハルカは俺の視線の先を追いかけて、同じものに目を留めてしまう。 ハルカと俺が見ている中、少年の細い右手が棚に伸びていく。その手が袋に入った菓子パンを掴み、無駄が多くぎこちない動きで、着ているジャケットのポケットまで持って行こうとする。 コマ送りのようなその光景から咄嗟に目を逸らそうとしたそのときだ。 「ちょっと待って」 唐突に発された言葉に、今にもパンをポケットの中に納めようとしていた手が不自然にぶれた。 けっして大きくはないが静止力を伴う鋭い声に、驚いて振り返る。 急にそんな声を出したのは、俺じゃなかった。ハルカだ。 「──おい、ハルカ」 繋いでいた手を解いて、ハルカは一人颯爽とした足取りで少年のもとに近づいていく。強張った顔で目を見開いて凝視するその子に、ハルカは至近距離で声を掛けた。 「それ、最後の一個じゃない?」 「えっ、あ……」 後ずさりするその子の手からパンの袋を取って棚を一瞥し、目線を合わせるようにまた顔を覗き込む。 「ほら、そうだよね」 確かに、そのチョコチップが入ったクロワッサンはもう棚には陳列されておらず、ハルカの手にしているものが最後の一袋だった。 この一瞬で、そんなところまで見ていたんだ。

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