はらはらと涙を流す顔を覗き込むその瞳は慈愛に満ちていて、まるで聖母のようだ。 いや、待ってハルカ。連れて帰るって、俺の家なんだけど。 ──帰るところがない、か。 つい溜息をついてしまったのは、ハルカも同じことを言っていたのを思い出したからだ。きっと他人事じゃないんだろう。 「お前、年は幾つだ」 「……十八」 涙声で答えるものの、それが嘘なのは明らかだった。改めて視線を下から上にゆっくりと移していく。肉づきの悪い未発達な身体に、幼い顔立ち。せいぜい十五、六歳ってとこだろう。 それでも、俺は律儀に騙されてやる。 「来たいんなら来いよ。でも、少しの間だけだからな」 信じられるか？ 俺は今日、初めて会った男を二人も家に招き入れることになったんだ。 車に乗り込んでエンジンを掛けてからルームミラーに視線を流す。そこに映るのは、後部座席でガチガチになりながら座ってる少年の硬い表情だ。 「おい。名前は何て言うんだ」 声を掛ければしばしの沈黙の後に、小さな声でぽつりと答えが返ってくる。 「……ミチル」 チルチルとミチル。メーテルリンクの青い鳥。 お前が家を出てきたのは、幸せを探すためか？ 「いい名前だ。ミチル、よろしくね」 助手席から聞こえる柔らかな声音は、強張った心を解すような優しさを含んでいる。ミチルは少しだけ頬を緩ませて、声に出さずにこくりと頷いた。 乗りかかったこの船は、もうとうに波止場を遠く離れているんじゃないか。 そんな懸念を抱きながら、俺はシフトレバーを切り替えてゆっくりとアクセルを踏み込んでいく。 家に帰ればハルカはすぐに買ってきた食材を手早く整理して夕食の支度に取り掛かった。 「ハルカ、俺もするよ」 そう申し出る俺に、ハルカは小さくかぶりを振った。 「ううん、タクマさんはゆっくりしててくれたらいいよ。ミチル、こっちにおいで」 「……うん」 所在なくリビングの隅に立っていたミチルは、名前を呼ばれて恐る恐るキッチンへと向かう。 「今から寄せ鍋を作るんだ。手伝ってくれる？」 優しい微笑みにおずおずと頷きながら、ミチルはハルカのすぐ傍へと近寄っていく。 まあ、任せておけばいいか。 手持ち無沙汰になった俺は、ソファに腰を沈めてテレビをつけてみた。 平日のこの時間帯に放送される報道番組が映し出される。今朝方、資産家の遺体が自宅で見つかったらしく、それがトップニュースとして流れていた。 ふたつ隣の署の管内だ。仕事を思い出すのが嫌で新聞を取らなくなり、俺はすっかり世間から置き去りにされていた。それでも、ニュースを見るとどうしても職場のことを考えてしまう。 画面を注視していると、視界に見慣れた鮮やかな青と黄色が飛び込んでくる。ブルーシートと現場保存テープの色だ。 遺体の腹部には数ヶ所の刺し傷が認められるという。被疑者も凶器も見つかっていない。 ディスプレイに映るのは、被害現場にいる捜査員や機動鑑識、制服警察官の硬い表情。そこに知った顔がいないかを、つい確認してしまう。 『きちんと挨拶はされるし、お孫さんと一緒に歩いているところをよく見かけましたねえ。温厚そうで、誰かに恨まれるような方じゃありませんよ』 近所の住人が被害者について語るのをぼんやりと眺めながら、俺は頭の中を整理していく。 被害者は独り暮らしをする高齢の女性資産家だ。物盗りか、金の拗れか。そのどちらかの線だろう。 捜査一課の帳場は当然もう設置されているはずだ。こんな事件がうちの署の管内で発生したら、ここみたいに大きな署じゃないから大変だろうな。現場でDNA鑑定に掛けられるような資料が採取できれば、被疑者の特定は容易い。それが無理でも、この事件に金が絡んでいる可能性は高い。被害者の口座を徹底的に洗って、過去の金の動きを調べる。それを糸口に、被害者と金のやり取りをしている人間関係を全部洗い出して、その中から対象者を絞って── 。 そこまで考えて、ようやく我に返る。 そうだ。俺はもう、警察組織を去ったんだ。 この身体に染みついた捜査員としての性分は、すぐには抜けないらしい。苦々しい気分でリモコンを手に取り、バラエティ番組に切り替える。 顔しか知らない芸人の饒舌なレポートを聞き流しながら、俺はキッチンの様子を窺う。仲良さげに肩を並べて立つ二人は、俺のことなどまるで気にすることもなく夕食の支度を進めていた。 「包丁の使い方、上手いね。家でも料理はしてた？」 「うん。少しだけど」 「僕も子どもの頃から料理をしてたんだ。簡単なものばかりだったけど、隣に住んでたおばさんが手取り足取り教えてくれて。でも最初は包丁がなかなかうまく持てなくて、よく指を切ってた」 そんな会話を交わしながら、時折目を合わせてクスクスと笑っている。まるで仲の良い兄弟のようだ。 こうして手伝わせることで、ミチルの居場所をうまく作っている。ハルカは相手の懐に入るのが得意なんだと改めて思う。 作為的なのかどうかはわからないが、ハルカは相手の求めているものを敏感に読み取り、それに応えようとする。俺に対してもそうだ。 けれど見方を変えれば、ハルカは誰かのために自分自身を押し殺してしまう人間なのかもしれない。 食材の下ごしらえが整う頃合いを見計らい、俺は二人掛けのダイニングテーブルに予備の折り畳み椅子をひとつ付け足してそこに腰掛けた。 ミチルは俺の様子を窺いながら、おずおずとダイニングチェアに浅く座る。 「こうして食卓を囲むのは久しぶりだ」 俺がそう言えば、ハルカが「僕も」と答える。一瞬、その眼差しに淋しげな光が滲んだのを見逃さなかった。 コンロに掛けた鍋の出汁が一煮立ちしてから、ハルカが豆腐や野菜を入れていく。グツグツとした音と共に食欲を刺激する優しい匂いが部屋に立ち込めてきた。