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 携帯電話やデジタル家電のソフトウェアを開発する会社に勤務する川島千秋(かわしま ちあき)は、システムエンジニアとして毎日多忙極まりない日々を過ごしている。  納期が短い仕事を与えられた時などはまるで地獄だ。連日の残業や徹夜などはごくごく当たり前。それに、追い打ちをかけるように、開発した製品に対しクレームが届いたりすると、こっち側の不具合であれば、即座に生産ラインを止め、同様の不具合をチェックし、原因究明のための緊急会議を開かなければならない。それが、最悪なことに自分のせいだったりした時の苦痛は大きい。自分の不甲斐なさに心は落ち込み、同僚達が「気にするな」と励ましてくれても、根っからの完璧主義で融通の利かない堅物な川島は、身も心も疲れ切ってしまう。  そんな生活を五年間も続けていれば、さすがに「限界」という二文字が頭をちらつき初めるが、気力でその二文字を心の奥に押し込め、今日まで何とか頑張ってきた。  だから、別な何かに気持ちを向ければ、新たなモチベーションが生まれ、仕事に対し少しは肩の力を抜けるんじゃないかと考えた川島は、多忙のせいで恋人を作る余裕もなかった自分を反省し、ずっと断り続けてきた上司の勧めるお見合いを、思い切って受けてみようという考えに行き着いたのだ。 (環境を変えるのは一つの契機だ。今の自分を変えることができるかもしれないし……)  しかし、こういう考えに行き着くのは、実は世間体と関係していることが最も大きい。川島は今まで、親や会社の上司から、「結婚」というプレッシャーを強く掛けられてきた。最初はひどく鬱陶しく感じていたが、結局、誰かの意見に流されてしまえば楽だし、それが一番幸せな生き方だという世間一般の意見に従うことが、大して自主性のない自分にはきっと合っている。 「何物思いに耽ってるんだ?」  今日の主役が、ビールを片手に川島の脇に座りそう言った。 「別に」  川島は不機嫌に友人である男を睨みつけた。 「俺の晴れの門出をもっと明るく祝えないもんかね。そんな暗い顔しながらちびちび酒飲むなよ」 「してるか? 俺」 「ああ。してる」  今日は六本木ヒルズ内の洒落たバーで、結婚式を半年後に控えた、川島の友人である本宮良(もとみやりょう)の、内輪だけの簡単な婚約パーティーをしている最中だ。  彼とは大学時代からの友人で、川島とは真逆の性格の男だ。頭脳明晰の彼は、その理路整然とした頭で、常に自分においての損得勘定に抜け目がなく、実に要領よく生きることにたけている。だからと言って、決して欲深い冷酷な男というわけではない。本宮は頭が良すぎるのだ。自分の人生に置いて、ほぼ無意識レベルに最良の決断を今までしてきたのだろう。そんな風だから、人生をまるで泳ぐように軽やかに生きる本宮と一緒にいるのは楽しい。自分に無いものを持つこの男といると、刺激的だし、元気が湧くし、わくわくした気分を味わえる。  だが、本宮が結婚してしまえば、今までのように頻繁に会うことはなくなる。そう思うと、正直、寂しさが川島の胸に大きな穴を空ける。 結婚という二文字も、漏れなく彼の最良の決断であったのだろうと推測する。半年間付き合った妻となる彼女は、会社の同僚が主催したコンパで知り合ったお嬢様で、洋酒や菓子などの輸入品を扱う会社社長の一人娘だ。長男が既に跡を取っている本宮は、結婚を機に今の証券会社を辞め、必然的に彼女の家に婿入りすることになった。それだけでも川島には勘弁したい話だが、本宮は、彼女の両親にその手腕ぶりをたいそう買われていて、後々は次期社長の座を本宮に譲る計画まで立てているという……。  本当にこいつは憎らしいほど人生を謳歌している。欲しいものを手に入れるための無駄のない努力や、何事にも躊躇いや拘りのないフレキシブルな感性は、この男の最高の財産だ。  川島も本宮みたいに生きてみたいと思ったこともある。しかし、そんな生き方ができるような川島なら、本宮とここまで長くつき合ってはこなかっただろう。川島たちは対局に位置しながら、さも別の生き物のように、お互いをおもしろがって見つめているのがいい。そして、弱い者が強い者に引っ張られる道理のように、弱い川島が強い本宮に、叱咤激励されながら引っ張られてきたこの関係性がよりいいのだ。でも、いずれ「結婚」という人生の転機によって、この関係性などお互いにどうでも良くなっていくのだろうと思うと、川島の心は不安定に揺れる。 「先週話したと思うけど、明日ついにお見合いなんだよ。でも、ちょっと気が重いんだよね」  川島は溜息をつきながら、ウイスキーの入ったグラスを意味もなく傾けた。 「何で気が重いんだ?」 「うーん。少し後ろめたい気持ちがあるんだよ。このままうまくいったら俺も結婚ってことになるだろう?」 「お見合いなんだから当たり前だろうが。往生際の悪い奴だな」 「そうだけど、結婚したら今までみたいな自由がなくなるわけじゃん? 俺らももうそんなに会うことなくなるだろうし。そういうこととか色々、心の整理がうまくつかないっていうか……」  本宮は困ったように眉根を寄せると、切なげな表情を作る。 「甘いな、千秋。自分の人生だけ生きてるような奴なんてな、悪いが、大人の男とは言えないんだよ」  堂々と川島に説教をしながら、本宮は勢いよくビールを飲み干す。 「……はは。そうだな。分かったよ。これからはもっと余裕ある大人の男を目指す」  川島は本宮を見つめ軽く微笑んだ。でも言葉と心は裏腹だ。川島は今、それを実感している。 「……なあ、千秋(ちあき)」 「何?」 「お前の友人代表のスピーチに、俺泣ける自信ないんだけど……」  本宮はふっと川島に近づくと、ふざけたように川島の腰に腕を回し、脇腹を強く抓った。 「いってっ、ちょ、なんだよ。ハンカチ二枚用意して待ってろよ!」  酔っ払っていたのもあって、川島も本宮の腰に腕を回すと、同じようにやり返した。その時、 「りょうくーん」  本宮の彼女が甘ったるい声で本宮を呼んだ。本宮は「はい、はい」と二つ返事をすると、するりと川島の側から離れた。

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