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 人混みでごった返している夜の池袋駅西口の改札を出た時、絶妙なタイミングで川島のスマホが鳴った。川島はナンバーで相手を確認すると、心を落ち着かせながら着信ボタンをタップした。  警察に連絡することもできただろう。でも、もしその行為により彼女に何かしらの危害が及んだらと思うと、どうしてもできなかった。自分は何も悪いことなどしていないはずなのに、見知らぬ相手の脅迫に負け、為す術もなく言いなりになっている。 「ああ、川島さん。ちゃんと私の言うことを聞いてくれましたね。ありがとう。それでは、そのまま池袋西口公園を左に見ながらまっすぐ進んでください。信号が見えたら左に曲がり、東京芸術劇場の裏の道を進んでください。そこに最近出来たばかりのタワーマンションが見えます。そのマンションの入り口で今から私が言う暗証番号を入力したら、エントランスに入り、エレベーターに乗って三五階で降りてください」 「ちょ、ちょっと待って! マンションって何?」  川島は相手の指示に戸惑い、声を裏返しながら叫んだ。 「大丈夫です。あなたに危害は一切加えない。ただ私の言う通りにしてくれればいいんです」 「な、何で? 俺あんたに恨まれるようなことしたの? もしそうなら謝るから。こんなこともうやめてくれよ!」   川島がそう訴えた時、相手はボイスチェンジャー越しの声を、更に低く響かせた。 「恨み?……ああ、そうですね。これは恨みなのかもしれませんね」 「え?」  その声の奥に潜む相手の強い感情に川島は戦き、危うくスマホを落としそうになる。 「ああ、すみません。独り言です。さあ、早く。暗証番号を入れてください。番号は~です」  逃げ出したい。スマホを放り投げこのまま逃げてしまいたい。なのに、川島の手と足は固まったまま動かない。 「どうしたんですか? 早くしないと、あなたの素敵な婚約者を危険に晒すことになる」 「……婚約はまだしていない」 「でも、いずれするんですよね?」  このやり取りに何の意味があるのだと苛立ちながら、川島は彼女の姿を思い浮かべつつ、投げやりに言われた番号を叩くように押した。すると、ロックの外れる音がし、恐る恐る入り口の扉を押してみると、すっと前へ動いた。 「エレベーターで三五階まで上がったら、三五七号室に入ってください。鍵は開いています」  まるで川島の行動を監視しているように電話の相手はそう言った。 「入って何をするんだ?」  川島は何をされるのか分からない未知への恐怖に、震える声で問いかけた。 「何もしません。ただ、あなたに知ってもらいたいだけです」  相手は意味不明なことを言うと突然電話を切った。 「ちょっ、おい!」  川島はわけが分からない状況に途方に暮れながら、言われた通り無人のエレベーターに乗り込み、指示された階まで上がった。そして、三五七号室を探しドアの前で立ち止まると、一呼吸置き、震える手でゆっくりとドアノブに手を掛ける。  今の自分の心境は、上着のポケットに忍ばせた護身用のスタンガンを使いたくないということだ。もし、相手が川島を襲おうとしてきたら、迷わずこれを使おう。でも、そうではなくただの顔見知りの悪戯で終わるかもしれない。川島は後者であることを切に願いながら、ゆっくりとドアを引いた。  部屋の中は異様なほど真っ暗だった。その闇を見てしまった川島は、思わず恐怖で後ずさりをした。だが、次の瞬間、暗闇からにゅっと手が現れ、その手が川島の手首を強く掴んだ。相手からの不意打ちの行為に体の反応は鈍り、川島はその手に強く引っ張られ、部屋の中へと引きずり込まれた。 「うわっ、だ、誰だ! ん、んぐっ」  そう言いかけた川島の口を、部屋の中の人間が後ろから川島を羽交い締めにしながら器用に塞いだ。 (やばい、殺される!)  そんな思いが頭を過ぎった時、 「落ち着けよ。千秋」  (え……)  その聞き覚えのある声に川島は我が耳を疑った。そして、まさかと思いながら恐る恐る振り返ると、そこには川島の良く知る人物が立っている。 「本、宮?」  その人物が本宮だと気づいた瞬間、体から力が抜け床にへたり込んだ。腰が抜けたように力が入らず、川島は床に座り込みながら、強烈な安堵感に箍が外れ、思わず声を上げて泣きそうになった。 「……な、何? 何なの一体?」  川島は必死で泣くのを堪えながら、両足を抱えるように座り、自分の頭を強く膝小僧に押し付けた。 「すまない。本当に悪かった。こんなことして」  本宮は川島の前に膝を突くと、苦しそうにそう言った。 「まさか、こんなにうまくいくなんて思いもしなくて」 「はあ?」  川島が驚いて頭を持ち上げると、照明がオレンジ色のライトを放ちながら玄関を照らしていた。目を凝らすと、廊下の奥にはダイニングらしき部屋が見える。 「何それ? お前、もしかして俺の間抜けな姿見て楽しんでたの? ふざけんなよ!」  大声で怒鳴っても、腰が抜けたこの状態では格好が付かない。川島は益々情けなくなって涙目で本宮を睨みつけた。 「違う。そうじゃない。おい、立てるか?」  本宮は思い詰めたような顔で川島の脇に手を入れると、そっと川島を立たせた。そして、廊下を歩きダイニングまで川島を連れて行くと、肩を押すようにしてソファーに座らせた。ダイニングは十畳程でたいして広くはない。ただ、大きな窓の外には、キラキラと輝く夜景が嫌味な程綺麗に広がっている。  何故自分はここにいるのか。この非現実的な状況に、川島は呆然としながら意味もなく夜景を見つめ続けた。

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