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第1話

 マイク・デュランはベッドの上で膝を抱えて座ったまま、午前5時の窓の外から聞こえてくる、朝の喧騒の始まりを耳にした。車の走行音、クラクション、人々の微かな話し声。 「またか……」  くたくたに伸びた白いタンクトップと、ボクサーパンツだけの身体は粟立ち、青白かった。 「くそっ、これで何度めだ……」マイクは頭を抱えた。  眠れなくなってしばらく経つ。  一ヶ月前の朝、マイクは出勤途中に地下鉄の事故に巻き込まれた。車体はひどく損傷、大幅な遅延が発生し、負傷者も多く出た事故だったとニュースは語る。凄惨な事故だ。 「はぁ……」  マイクは顔をしかめながらベッドを降り、生地の薄くなったローブを羽織って、リビングへと移動した。窓際のソファへーーこの部屋で一番朝日が差し込んでくる特等席だーー身体を縮こませて座った。目が眩む眩しさに構わず、夜と悪夢の残滓を振り払うために、朝日を浴びまくる。  その時、サイドテーブルにあったスマホが震え始めた。マイクは一瞬躊躇ったが、手に取った。 「はい……」 『やぁ、マイク。おはよう』明瞭な男の声だ。 「おはようございます……ドクター……」 『ナイジェルでいい。調子はどうだ?』 「あー……、まぁまぁです、はい」 『そうか』  マイクは「まぁまぁ」と言って嘘をついたが、心理カウンセラーのドクターナイジェルも「そうか」という言葉に納得の響きを感じさせなかった。豊かな茶髪をハーフアップにし、顎のラインにふわふわの髭をたくわえた彼が、訝しげに片眉をあげる顔が想像できた。 『やっぱり眠れないか?』 「はい、ドクター……」 『何日目だ?』 「一週間以上……たぶん」 『そうか……』  応えながらマイクは目を閉じ、ナイジェルの声にうっとりと耳を傾けた。低く男らしい声には優しさを感じられ、マイクは時折、この声を聞いていると眠れるんじゃないかと思う。  事故の記憶ーー悲鳴じみたブレーキ音、電車が壁に擦れる音、人間がぶつかり合い、倒れ、吹き飛ばされる音ーーを忘れられる。しかし今日だけは、彼の声に違和感を覚えた。  マイクは目を開ける。 「ドクター、今日は診察室にいないんですか?」 『どうしてそう思う?』 「声がやけに……反響している気がして。もしかして自宅からかけているんですか?」 『相変わらず耳がいいな。だが、惜しい』  ナイジェルが小さく笑った気配がした。 『今、君のアパートの扉の前にいるんだ』 「えっ?」  マイクは慌ててソファから降り、裸足のまま扉の方へ向かった。鍵を開けて扉を引くと、そこにはスマホを片耳に当てた、美しい茶髪をハーフアップにした男が立っていた。ベージュのジャケットの肩に毛先が触れている。 「入ってもいいかな。これ以上廊下で喋っていると、寝巻き姿の住人から追い出されそうでね」  寝巻き姿ーーそこでマイクははっとし、今の自分がいかにはしたない姿なのかを思い知らされた。慌ててナイジェルの腕を掴み、部屋へと引き入れる。 「く、来るなら先に言ってください!」 「すまない。事前に連絡すると断られると思って」 「もちろん断ります!」  マイクは扉を閉めながら言った。ドアノブを掴む手が震えている。溶けてしまいそうなほど顔が熱い。 「……何しに来たんですか。診察なら僕の方からドクターの方へ伺います。それに、これが診察なら、予約外だから……その料金とかは……」 「診察で来たんじゃないよ」   ナイジェルはそう言い、こちらへ一歩近づいた。心地よいコロンの香りのおかげか、マイクは、首筋に彼の吐息を感じても、さほど動揺はしなかった。ただ、彼に抱き締められた身体の震えは小刻みになった。この震えが嫌悪からではないことは自覚している。 「初めて会った時、私と君は互いに同じことを感じていた……そのことについては、君からの承認も得ているね」 「はい、ドクター……でも……」 「でも、なんだい?」  事故後のトラウマ治療を受けることになったマイクは、そこでナイジェル・オコナーに出会った。彼の辛抱強さと優しさには、言葉にできないほど感謝している。その感謝の中で、彼に対する好意が目を覚ました。 「患者とドクターの関係だけならまだしも、それを越えてしまうのであれば、眠れない自分のお守りをさせたくはないんです……色々してもらって感謝してます。だけど……すみません」  マイクは俯き、そっとナイジェルを押しやった。彼の好意は感じているが、自分よりももっといい人がいるはずだ。こんな世話が焼ける男といて楽しいはずがない。  するとナイジェルの溜め息が聞こえてきた。 「君が望むなら。じゃあ本日付で、僕から君への治療は終了だ」 「はい……」  マイクが頷きかけた時、ナイジェルの指がそっと顎下に添えられた。くいと上向かされると、変わらず優しさを称えた瞳と視線が合う。 「だから最後に、眠るのにいい方法を教えてあげよう。いいかな?」 「はい……でも何ですか?」 「おいで。ちょうどいい場所があるじゃないか」  ナイジェルが歩み寄っていったのは、朝日を浴びるソファだった。彼はそのそばに立ち、指差した。「ここへ座って。そしたら教えてあげよう」 「はい、ドクター」  マイクはそろそろとソファへ近づき、ナイジェルの表情を伺いつつ腰を下ろした。朝日を浴びた生地は暖かく、クッションに沈んでいきながらマイクはふぅと溜め息を漏らす。朝日の眩さに目を閉じた時、耳元で彼の声が聞こえた。 「お邪魔するよ」 「え?」  突然、背中と足の下に腕を差し込まれ、ぐんと身体を持ち上げられた。驚いて思わずナイジェルの胸にすがると、そのまま彼の膝に座る形でソファに座られた。二人ぶんの体重を受け止めたクッションは、微かな抗議の声をあげたが、しっかり二人を支えた。  ふぅと溜め息をついた後、ナイジェルが優しく抱き締めてきた。彼の鼓動が直接胸へと伝わってくる。マイクは何が起こっているにかわからず、ひたすらきょろきょろしていた。 「ドクター、あの、これは一体……」 「しー……患者とドクターの関係が気に入らないのなら、私は君のドクターでいることをやめよう。別のものになりたくなった」  ナイジェルはそう言うと、身じろぎをして、マイクの胸へと頭をもたれかけた。そしてくすっと笑う。「心臓の鼓動が聞こえる。かなり速いリズムだ」 「あなたのせいです……」マイクは熱い顔を手で隠す。 「毎朝、こうして君の心臓の鼓動を聞かせてほしい……この音は、あの大事故から戻ってきた君が、ここで生きているという揺るぎない証拠なんだ。君自身には中々聞こえないだろうけどね……」  マイクはそこで、ナイジェルの喋りが緩慢になっていることに気づいた。あくびまでしている。 「ちょっと、そこで眠るつもりですか?」 「あぁ、だってまだ朝早いんだから……」  そう言うとナイジェルは顔を上げ、身をよじって再びマイクを抱き寄せた。マイクは彼の胸に抱かれる体勢になり、心臓の鼓動は加速していく。 「ちょっと……ドクター……ねぇ」 「私は眠るよ。君も一緒にどうだい?」  抱き枕のようにされたマイクはついに抵抗をやめ、ナイジェルの胸に頭をつけて溜め息をついた。  頭上から彼の寝息が聞こえてくる。  心臓の鼓動が聞こえるほど近くにいる。  彼の腕がしっかりと抱き締めてくる。  窓から注がれる朝日が暖かい。  その眩しさに目を細めながら、マイクは思い出す。  あぁ、一体何度、これを望んだろうか。 「僕も少し眠るよ、ナイジェル」                    END

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