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 桜がちらほらと咲きはじめていた。  その中で、最後の告白をした。  三度目になる告白だった。  これで最後にしようと思った。  これで断られたら、もう諦めるつもりでいた。  あの子はぐっと口を閉じると、ゆっくり頭を縦に揺らした。  あまりに嬉しくて、地球を揺らしてやりたくなるほどに全身が沸いた。  でも、気がついていなかった。  あの子がどんな気持ちで、それを受け入れたのか。  その時の俺は、全く気がついていなかったんだ。  チリチリ、と目覚ましの音が鳴った。その音のありかを手探りで探し、音を止める。更科(さらしな)和季(かずき)はゆっくり目を開いた。 「わ!」  前の光景が目に映ると同時に、和季は声を上げた。二段ベッドの柵越しに、目鼻立ちの整った少年がじっと和季を見つめている。金色に近い色の長い髪が、窓から差し込む朝日を受け、溶けるように輝いていた。 「ゆ、悠吏(ゆうり)……。おはよう」  和季が乾いた声を絞ると、『悠吏』と呼ばれた少年、高崎悠吏(たかざきゆうり)は、にこぉっと笑みを浮かべた。 「おはよ。和季」  その声は随分な甘ったるさを含んでいる。  和季は体を起こし、二段ベッドのはしごを降りた。丸い頭から伸びる黒い直毛がぴょこぴょこと跳ねた。  歯磨き、洗顔を済ませ、髪を整え、服を着替える。その間、悠吏は椅子の背もたれに胸を預けて座り、にこにこと和季の様子を覗っていた。そんな悠吏は既に制服に身を包んでいる。準備は完全に整っているようだ。  和季がネクタイを結ぼうとすると、悠吏が声をかけてきた。 「俺が結んであげよっか?」 「え」  大きな黒目をより丸め、一瞬言葉を失う。ネクタイくらい以前からずっと自分で結んでいるのだが。 「いいよ、ありがとう」  悠吏の申し出を、和季は笑みを浮かべ断った。 「お待たせ。行こっか」  行き先は学校、といっても、ここは学校の寮で、校舎は同じ敷地にある。正確には校舎へ移動すると表現した方が正しいかもしれない。 「今日はどこでゴハン食べる?」  悠吏の言葉は、『朝食を寮の食堂で食べるか、学校の食堂で食べるか』、という意味を表している。 「どこでもいいよ。悠吏の行きたいところに行こ」  鞄を持ち、二人は寮の部屋から出た。  今日は新学期。高校三年生一学期の始まりである。  澤村(さわむら)音楽(おんがく)学院(がくいん)は、中高一貫の全寮制男子校である。(ただし姉妹校に女学院が存在する。)細部は、声楽クラス、ピアノクラス、弦楽器クラス、管楽器クラスの四クラスに分けられており、日本中からプロの音楽家を目指す子供たちが集まるのである。彼らはここで六年間、または三年間みっちりとトップクラスの音楽専門教育を叩き込まれるのだ。そして澤村音楽学院、通称『澤学(さわがく)』の生徒たちは、ここで培った経験や力で日本のみならず、世界へ羽ばたくのである。  学校の食堂で朝食を終えた二人は、それぞれの教室へ向かった。和季は声楽専攻なので、声楽クラスの教室へ、悠吏はヴァイオリン専攻なので、弦楽器クラスの教室へと向かわなければならない。  声楽クラスの教室は、校舎二階の東階段から数えて一番手前にあった。 「後で迎えに行くね」  教室の前で、和季は悠吏に告げた。今日は構内のコンサートホールで始業式がある。コンサートホールへ行くには西側の階段を使った方が早いので、和季が悠吏の教室を訪ねて一緒に行った方が手間要らずなのだ。 「オッケー。廊下で待ってる」  和季は悠吏と別れ、声楽クラスの教室に入った。 「おはよう」  和季が挨拶をすると、教室に居たクラスメイトが口々に挨拶を返した。その中には、まだ和季の体調を心配する声もあった。その声に、もう大丈夫だと返事をし、和季は自分の机へ歩を進めた。  隣の席に座るクラスメイトに、和季は席に着くなり改めて挨拶をした。 「おはよ、唱(しょう)君」 「おはよう」  唱は微笑を湛え答えた。朝日を浴び、柔らかく波うつ茶色の髪がきらきらと輝いた。  佐伯(さえき)唱(しょう)は、声楽クラスで和季が一番馴染みのある生徒である。西洋の血が入っており、天然の茶髪に茶色い瞳の日本人離れした容姿の美少年だ。色が白く気品があり、中性的、初めて見た時、和季はどこの国の王子様かと目を見張ったものだ。実際、中学時代に『王子』というあだ名で呼ぶ人もいたとどこかから聞き、強く頭を上下させたことを覚えている。一年の時はさほど交流もなかったが、二年の『ある時』を境に親交が深まった。  さて、和季と唱には二つの共通点がある。  一つは歌のパートがカウンターテナーという希少なパート担当であることだ。カウンターテナーとは、女性のアルトパートや、メゾソプラノパートに同等する高さのパートをファルセット(裏声)で歌う、変声期を終えた男性歌手のことである。  和季は高校から『澤学』に入学したので、『澤学』でいうところの『高校入学組』だった。中学は地元の公立中学を卒業し、歌は個人レッスンを受けていたのだ。中学三年からカウンターテナーとしての練習を始め、受験もカウンターテナーとして受験した。難関といわれる『澤学』に入学できたことは本当に運が良かったと思い、これからは思いっきり歌に打ち込めるのだと喜んだ。  カウンターテナーなんて他にいるのだろうか、と思っていたところ、最初のレッスンで、中学からの『持ち上がり組』である唱がそれであることを知った。しかしパート関係なく名前順で歌わされたため、『佐伯』唱の次である『更科』和季の頭は、唱を捉えられなかった。こう歌おう、少し柔らかく表現してみよう。そんなシミュレーションで頭がいっぱいになっているうちに、唱の歌が終わってしまっていたのだ。なので、唱の歌に対する第一印象はほぼない、というのが和季の本音だ。  ところが唱は違った。和季の表現力の高さに呆然とするほどの衝撃を受け、嫉妬心を覚えたのだ。そのうえ、和季が唱を意識しなかったため、唱は黒い感情すら芽生えさせたのだった。そのせいもあって、唱は一時行き詰まり、体調を崩し、精神的に荒れたこともあったのだが、『ある理由』から、和季はそれを知らない。  転機を迎えたのは、二年の十二月にあったノエルコンサートという実技試験と文化祭を兼ねたような行事の後だった。『入院中』だった和季は、唱の歌を悠吏がスマートフォンで録った動画で聴いた。想像を絶するほどの美しく優しい音色に胸がいっぱいになり、思わず涙した。知らず知らずのうちに、唱を意識していたのだと思い知らされたのである。  唱が和季の見舞いに訪れた時、和季は様々な思いから、唱にライバル宣言をした。唱は微笑み、そのライバル宣言を受け入れた。他者には理解し難い光景かもしれないが、それから和季と唱は親友である。 「課題はもうできた?」  唱が柔らかな声で尋ねた。その笑みは春そのもののように柔和で美しい。もとから綺麗な顔立ちをしていると思っていたが、二年の三学期になったあたりからますます美しさが増した、と和季は思う。 「うん。なんとか。春休み返上になっちゃったけどね」  和季は半ば苦笑いを浮かべた。それを聞き、唱が軽く目を丸める。 「そんなに? 大変だったね」 「うん。でも間に合ったから良かった。ところで、奏一(そういち)君は? ……英語できたのかな?」  『奏一君』とは、ピアノクラスに所属する唱のルームメイト、五十嵐(いがらし)奏一(そういち)のことである。それを聞き、唱も呆れたような苦笑を浮かべた。 「何とかね。春休み前にかなり口酸っぱく言ったから。もしこれでできてなかったら、別れるところだったよ」  唱は後半、声のボリュームを下げた。そのあたりから、悪戯っぽい笑みに変わったので、和季はすぐに冗談だと気がつく。 「ええ~! そんなぁ」  和季もその茶番に軽く付き合う。二人で顔を寄せて笑った。  チャイムが鳴った。 「そろそろホールに移動しようか」  唱が席を立った。他の生徒たちも移動しはじめている。和季は頷き、同様席を立った。  声楽クラスを出ると、隣のピアノクラスの前に奏一が立っていた。既に待っていたのだ。 「おはよう! 和季」  和季を目に映し、奏一は軽く手を挙げた。 「おはよう、奏一君」  和季は会釈を添え答えた。  奏一は明るく爽やかな好青年である。黒い短髪と黒い瞳が印象的で、涼やかながらもはっきりした顔立ちの美形だ。和季との交流は二年の十二月中頃からなので、さほど長くはないが関係は良好である。 「元気だったか? 『その後』、体調はどうだ?」 「うん。安定してるみたい。心配してた頭痛もほとんど起こってないんだ」 「それって、時々は起こるってことだろ?」  奏一の顔に翳が生じる。 「その『時々』も、今まで一、二回ぐらいで、薬を飲まないといけないほどじゃなかったんだ」  和季は笑みを浮かべ、奏一を安心させた。 「そうか、ならいいけど。でも無理すんなよ」 「うん、分かってる。ありがとう」  二人のやり取りを見て、唱は笑みを浮かべた。唱は細やかな気遣いのできる、奏一の優しいところが好きなのだ。 「勿論、無理なんてさせないよ~」  ふと声が聞こえたので、三人がその方へ顔を向けると、悠吏が妙な笑みを浮かべ奏一を見ていた。 (嫉妬してる……)  ひとまず表向きは穏やかに見せようと努めてはいるが、本音としては奏一が和季を気遣い、それに和季が礼を言うのが面白くないのだ。三人は内心溜め息をついた。 「悠吏、大丈夫だって。俺、『おまえじゃないんだから』、人の恋人に手を出さないぞ」  奏一は宥めると同時に、チクリと一本の針を差し入れた。 「だからー! あれは冗談だったの! からかっただけ!」 「悠吏、人の恋人に手を出したの?」 「いや! 違う! 出してない‼」  和季はただ純粋に疑問として尋ねたのだが、悠吏は和季に要らぬ疑惑を抱かせてしまったか、軽蔑されてしまったか、と思いを巡らし、必死で取り繕った。 「ソーイチ! おまえ、もうそれ言わないって約束だっただろ!」  取り繕うどころか、ボロが出た。悠吏は以前、ちょっとからかって唱にキスをしようとしたことがあったのだ。 「悪い悪い。まぁ、これも『冗談』だ」  奏一は意地悪い笑みを浮かべた。奏一は悠吏に対してのみ、意地悪をする。だがそれは決して仲が悪いわけではなく、単に奏一と悠吏の付き合い方なのだ。悠吏もそれを承知しているため、無闇につっかかりはしない。四人は心地よい笑い声を立て、ホールへ向かった。  和季と唱の二つ目の共通点はもう察しがつくだろう。同性の恋人がいることである。和季には悠吏がいるように、唱には奏一がいた。聞けば、唱と奏一は中学卒業から付き合っているとのことで、和季と悠吏からすると『先輩』にあたる。  和季と悠吏が付き合いはじめたのは、一週間前からだ。ただ、和季が悠吏の想いを知ったのは一週間前ではない。それより三ヶ月も前から、和季は悠吏が自身に恋心を抱いているのを知っていた。それから月に一回、何かの恒例行事のように告白され、三度目に和季が折れる形となって交際がスタートしたのだった。  コンサートホールに着き、四人は各々の座席を目指した。ホールの席順は前の列から、一年、二年、三年の順で座ることになっている。三年生である四人の席は、全体の後ろの方だ。  それから学年ごとに、前から声楽クラス、ピアノクラス、弦楽器クラス、管楽器クラスとクラスごとに分かれ、下手(しもて)から出席番号の若い順に並ぶことになる。三年の最前列下手寄りに佐伯唱と更科和季が並んで座り、次の列の一番下手に五十嵐奏一、またその次の列の真ん中あたりに高崎悠吏が腰を下ろす配置となった。 「あいつだろ?」  ひそひそと囁く声が声楽クラスより後ろの上手(かみて)側から聞こえた。前に目をやると、二年の中にも少し振り返り、様子を覗う生徒がいる。その生徒たちの意識の先には、和季がいた。その視線に、和季は少々困り顔を見せた。  唱はその隣で和季の様子を覗っていた。ひそひそ声は唱にも届いていた。和季を気遣ってやりたいが、上手く立ち回ることができない。 「大丈夫?」  回りに回って、唱は率直な声を潜めた。 「あ、うん。……大丈夫」  和季は小さく頷いた。既に生徒たちの興味は消えてしまったようで、好奇の目も声もなかった。  これはましになった方だ。和季が学校に復帰した二年三学期の始業式はもっと五月蠅かった。『ひそひそ』どころか『ざわざわ』に近いくらいだったのだ。一斉に好奇の目を向けられ、和季は式の間も顔をまともに上げられなかったのだった。  始業式が始まった。生徒たちは黙し、学長や生活指導員の話を聞いた。外部から遮断された山中にある学校は平和そのものである。生徒たちも過酷なスケジュールに追われているので、非行に走っている暇などない。教員たちは式で話す話題を探すのに一苦労のようだ。当たり障りなく垂れ流される形式ばかりの言葉に、生徒たちはすぐ飽き飽きとした様子を見せた。和季も例外ではなかった。  三学期の間は、廊下を行き来するだけでも知らない生徒に視線を送られた。一躍有名人になった、と喜べるような、明るいものではない。謂(いわ)れのない暴力を受けたというほどではなかったが、『噂』という不可解な情報は和季の耳にも届いたのだ。ただ、あまりにも思い当たる節がなかったので、和季は特に気にすることなく、それを流した。  そんな風に晒される和季を守ったのは、三人の友人だった。三人の友人は優しく、手厚く慎重に和季と接した。ただ、和季にとっては、ときに過剰とまでいえるほどの気遣いを見せる三人の様子の方が気になることがあった。勿論、三人の気持ちは純粋に嬉しかったが、少し恐縮してしまい、胸がくすぐられるような温かさと居心地の悪さが交錯する、複雑な感情を覚えることがあったのだ。ただ、そのことは和季の胸中に留められている。  式は三十分ほどで終了した。和季と唱は、奏一や悠吏と落ち合い、コンサートホールを出た。  コンサートホールから教室のある校舎へと続く廊下から、ある建物が見えた。その建物は他の校舎と違って、尖った屋根の建物だ。上層部に鐘が取り付けられているのが見える。聖堂だ。和季はその建物の上の方にある黒い穴を見つめた。  今から半年ほど前、和季は聖堂の窓から転落した。すぐに見回り中の警備員が発見したこと、彼が的確な対応をしたことが幸いした。それに加え、植え込みがクッションになったため最悪の事態は免れたが、和季の意識は三ヶ月以上戻らなかった。  この転落はただの事故ではなかった。そのことが公になった時、和季はまだ病院で意識の戻らない状態だった。病院には連日マスコミが押し寄せ、洋食屋を経営する和季の実家にも姿を現したそうだが、『ある人』によって配置された警備員に追い払われたと言う。それらを全て、和季は目覚めた病院の一室で悠吏から聞いた。 「和季? どした~?」  悠吏の声が聞こえた。和季はいつの間にか足を止め、ぼんやりと聖堂の窓を眺めていたのだ。声の方へ顔をやると、三メートルほど先で、唱と奏一も振り返り、和季を見ていた。 「ごめん、何でもない」  適当に誤魔化し、和季は三人の後を追いかけた。  HRの後、四人はまた落ち合い、一緒に昼食を取った。今日は年度初日ということもあり、昼までで終了である。  食堂に着くと、まだ慣れていなさそうな生徒がちらほら見えた。一年生だろう。中等部と高等部は同じ敷地内にありながらも、生活区域がほとんど違う。中等部からの『持ち上がり組』でも、高等部での生活は新鮮かつ緊張感のあるものだ。かつて自分たちもそうだったと、唱や奏一は懐かしそうに眺めた。 「あの窓際の席ね」  席は既に悠吏が取っていた。四人はそれぞれ食べたい物をトレイに乗せ、運んだ。 「唱、場所替わるか?」 「そうだな……。そうしようか」  奏一は唱と替わって窓際に移動した。 「へ? なんで⁇」 「唱、日に弱いから」  唱の白い花びらの様な肌は、日光にさらされることに弱い。今日は春でも日差しが強かった。 「軽くクリームも塗ってるから、このくらいなら大丈夫だと思うけどね」  唱が言葉を付け加える。そう言いつつも、奏一と席を替わってもらったのは、以前窓際で片頬だけ焼いてしまい、殴られたのかと、ひどく奏一を心配させてしまったことがあったからだ。『念には念を』、というやつだ。 (やっぱり唱君、肌弱いのかぁ)  綺麗な肌してるもんね。内心そう呟き、和季はストローを刺そうと、パックのジュースを手に取った。  悠吏の声がした。 「ストロー、刺してあげよっか?」 「え」  本日二度目だ。ジュースのストローくらい自分で刺せるのだが。 「大丈夫だよ。自分でできる」  和季は思わず笑ってしまった。朝も世話を焼こうとしていたので、恐らく悠吏自身にその意識はないのだろうが、どこか奏一と優しさで張り合っているようにも見え、笑ってしまったのだ。  四人は他愛のない話をしながら昼食を楽しんだ。 「唱とソーイチは旅行に行ったんだって?」 「ああ。二泊三日の温泉旅行だけどな」 「ジジくさっ!」  奏一の返事に、悠吏は吹き出した。 「コーコーセーなんだから、もっと華やかなとこ行きゃいーのに。……で、盛り上がった?」  『何が』盛り上がったのかは敢えて言わない。それでも対面に座る二人は何のことかちゃんと理解している。悠吏の横で聞いている和季も、薄ら頬を赤らめた。  二人の表情がずん、と暗くなった。 「…………盛り上がれるわけないだろう……」  唱がポツリと呟いた。 「そうだ……。…………お互いの母親ついて来てんだから……」  その声に奏一が続く。 「え! 保護者付きぃ⁉」  あひゃひゃ、と悠吏はますます笑い声を立てた。  聞けば、唱の母親と奏一の母親は高校と大学で、先輩、後輩の関係だったらしい。それが去年のノエルコンサートの時に発覚し、二人の母親は交流を復活させたのだった。奏一の母が温泉でもどうか、と唱の母に連絡を取ったところ、折角なので春休みにお互いの息子も連れて行こう、となったらしい。つまり、二人は母親のおまけで温泉旅行に連れ出されたのである。 「こんなことなら、母親だけで行ってくれた方が良かった……」 「そしたら、俺たちだけでどっか行けたのにな……」  二人同時に溜め息をつく。  互いの親に気を使い、親の行きたい所を引き摺り回され、興味もない民芸品や土産物を冷やかした。名物の饅頭(まんじゅう)を食べ、絶景を望みながら風呂に浸かって疲れを癒し、夜は旅館の絶品料理に舌鼓を打ち、満点の星空を見ながら、二人並んでまた風呂に浸かった。 「結構良かったな……」 「ああ……。良かった……」 「楽しんでんじゃねーか!」  思い出に耽る二人に、すかさず悠吏のツッコミが入る。  そのコントの様なやり取りを和季はにこにこ笑いながら聞いていたが、理解できない感覚も同時に覚えていた。和季には母親がいない。『母親』というものに勘が働かないのだ。 「ところで、悠吏たちはどうだった?」  奏一の声で空気が変わり、和季も気持ちを切り替えた。 「一、二日くらい家には帰ったけど、ほとんど寮で和季に付き合ってた」 「うん。僕も家に帰る以外は、ずっと課題やってた」 「大変だったな~!」  奏一が声を上げた。 「でも、それを条件に進級させてもらえたからね」  意識不明になっていた和季は、二年の二学期を一日も出席できなかった。通常なら三年への進級は不可能だったが、『事件』の被害者であるという事情と和季の専門教科の成績から、特別に二学期分の補填を条件に進級させてもらえることになったのだ。 「和季、専門教科は成績いーけど、普通教科イマイチだからね~」 「……うん、そうなんだよね」  和季にとっての試練は専門教科より普通教科である。普通教科の補填に労力を費やしたのだ。 「でも先生が月一で特別にテストしてくれてるんだから、頑張りたい」  そのため、三学期は通常カリキュラムに補習を加え、必死で努力した。ほとんど寝るか、勉強するかの毎日で、土日もほとんどそれに消えた。 「テストはまだあるんだな」  奏一の問いに、和季は答える。 「うん。でも、六月にはなんとか通常に戻れそうだから、もう少しの我慢だね」  三年のカリキュラムは一、二年の時ほど厳しくはない。それは、各生徒の進路がはっきりし、時間の融通が利きやすくなるからである。生徒は個々のカリキュラムで動くようになるので、必須教科が一、二年時より少ないのだ。少なくなるのは、一、二年時に終えてしまう教科もあるからであり、そのため、一、二年時のカリキュラムは厳しくなるのだが。 「じゃ、その時はまたお祝いだね」 「そんな。退院した時もお祝いしてもらったのに」  唱の提案に和季は照れた。  食事が終わっても、四人は暫くその場で談笑した。話を振られない限り、和季は専(もっぱ)ら聞き役に回っていた。三人と一緒に話をするのは楽しかった。和季は三人の友人(一名は既に恋人だが)に恵まれたことを心から感謝していた。  和季が聖堂から転落し、意識不明の重体に陥っている間、真相解明のため動いていたのはこの三人だった。和季の転落後、悠吏はそれが事故や自殺ではなく、殺人未遂であると主張した。一度、警察は『自殺未遂』として処理したが悠吏は諦めず、唱や奏一も加わって、三人は事件解決に向け奔走したのだ。  最終的に三人は、和季を転落させた『犯人』を捕まえた。おかげで真相が明るみに出、和季が目を覚ました時には全てが片づいていたのである。  会話の途切れを覚えたころ、四人は席を立った。それぞれ食器を片づけ、食堂を出ようとした時、和季の足元に小銭が転がってきた。和季はそれを拾い、小銭を追いかけてきた生徒に渡した。 「はい」 「ごめん、ありがとう!」  その生徒は気さくに礼を言ったが、和季のネクタイの色を見てすぐ態度を改めた。 「すみません! ありがとうございました!」 「あ、いや……。うん」  その生徒は逃げるように去っていった。ネクタイの色を見る限り、一年生だったことは和季の記憶にしっかりと刻まれた。  和季の後ろで、悠吏が小さく笑いを堪えていた。 「……今、笑ったよね?」  少し不機嫌そうに和季は振り返った。 「笑ってなーい。可愛いなって思っただけ」  和季の疑いは、屈託のない悠吏の笑みに誤魔化された。和季はまだもやっとしたものを抱きつつも、歩を進めた。  和季の前に奏一が、その左隣に唱が、そして唱の後ろに悠吏が並んで歩いた。時折、誰かの視線がこちらに流れるのを、和季は肌で感じ取っていた。爽快な奏一に、優雅な唱、昂然たる悠吏。奏一と悠吏が長身なこともあったが、この三人は目立った。成績も優秀で、見目も良く華やか。なぜ自分がこんな華麗なるグループにいるのだろう、と和季は少々不思議な気分になることもあった。  ただ、和季は自身の魅力に気がついていない。和季の愛くるしさがどれだけの人を癒し、笑顔にするのか全く分かっていないのだ。先程の下級生も、先輩への非礼から逃げたというよりは、可愛いらしい童顔の先輩を目の前にし、思わず逃げてしまった、と表した方が正しい。唱の様な中性的な美しさはないが、和季は性を感じさせず、無条件で人に『可愛い』、と思わせる魅力があるのである。しかし悲しいかな、和季は敢えていうなら、自身を『ちょっと小さい』くらいにしか思っていない。そこがまた純粋に映るようだ。  唱、奏一と別れ、和季と悠吏は図書館へ行った。和季のすることは決まっている。追試験のための勉強である。  図書館には自習室があり、その中には個室もあった。二、三人で使える小さな部屋である。幸運にも空いていたので、二人はそこを使うことにした。 「ここ、スペル間違ってる」  悠吏に指摘され、和季は消しゴムを走らせた。シャープペンシルを動かし、スペルを訂正する。和季の追試験に付き合い、悠吏も自分の勉強用に問題集を持ってきていた。和季が黙々と問題を解いている間、悠吏はその問題集を解いた。  俯いて熱心にノートを見つめる和季の細い睫毛が、男子にしては少々長めの前髪から覗く。ああ、可愛い、と悠吏はにんまり頬を緩めた。 「悠吏さぁ、」  参考書を睨んだまま、和季は声をかけた。 「進路決まった?」 「まだ~」  悠吏も問題を解きながら答える。 「何も考えてないの?」 「うん」  考えていない、ということは、音楽の道には進まないのだろうか? 和季はふと疑問を感じた。  『澤学』の生徒は音楽の専門機関へ進学するのが定番である。ところが、中には音楽の道を諦め、一般の大学へ進学する生徒も存在する。その割合は九対一から八対二といったところか。その時点でカリキュラムが変わるので、同じ専攻のクラスメイトでも、三年ではほとんど教室をともにしない生徒がいたり、などということもあった。 「和季は?」 「僕は、まだそこまで追いついてないよ……」  まずは補填、なのである。一応三年生になってはいるが、実質、和季の学年は、『二、七年生』くらいなのだ。完全な三年生になりきってもいないのに、進学にまで頭が回らなかった。 「でも、希望くらいあるじゃん?」 「ん…………」  和季は口を噤んだ。  和季の家には借金がある。二年の夏に発覚し、一度和季は学校を辞める決心をした。だが退学届けを出す前に聖堂から落とされ、意識不明となってしまったのだ。目が覚めると、借金が片づいたと父親から聞かされたが、実情は債権者が変わっただけで、借金があることに変わりはなかった。そのため、和季は『澤学』の奨学金制度を利用することにしたのだが、出席日数が足りていないのにも拘わらず、特例で三年生になれた和季は奨学金制度の対象にならなかったのである。今、和季が『澤学』に通えているのは、新たな債権者が無期限、無利子の借金としてくれていることと、父親の強い希望があるからにほかならない。 「考えてないわけじゃないけど……」  音大の授業料は高額である。そのうえ、卒業できたところで、何らかのプロになれる保障もない。音楽教師の教員免許を取っても、その教員にすらなれるかどうか分からない。音楽の道に進めば、厳しい道となることは明らかだ。 「ひとまずは、目の前のことをやらなきゃ」  和季は悠吏の問いをはぐらかした。  ゴールデンウィークもあと一週間に迫っていた。和季は週末を利用して実家に戻った。和季の実家は『澤学』からバスと電車で二時間ほどの距離にある。大袈裟に考えるほどではないが、ゴールデンウィークは公共の場が混む可能性もあったので、ゴールデンウィークより一週間早く帰ることにしたのだ。  和季の実家は、父親が営む洋食屋の上にあるマンションの一室である。2DKのマンションだが、父子二人が住むには不便もない。和季は楽な服に着替え、父の手伝いでもしようかと店に降りた。 「いらっ……。和季、裏口から来ないと駄目じゃないか」  ドアの開く音に和季の父は声をかけかけたが、和季だと分かるとやんわり注意した。 「うん、ごめん」  客が一人いたので、和季は可愛らしい笑みを浮かべ声をかけた。 「いらっしゃいませ」  和季が声をかけると、その客はゆっくり和季に振り返った。小太りで、白いベストに身を包んだ老人だ。所々シミが浮き、深く刻まれた皺を見ると、結構な高齢と思われた。 「和季、この方が借金を肩代わりしてくださった秦野(はたの)さんだ」  和季の父が、老人を紹介した。老人は優しげな目で和季を眺め、弛んだ頬を緩めた。 (この人が……!)  和季はその老人に深々と頭を下げた。 「息子の和季です。……父がお世話になってます」  借金の債権者が変わったのは、この秦野が代わりにもとの債権者へ借金を全額返済したからだ。秦野のおかげで、和季の父は店を手放さずに済んだのである。 「和季君、顔を上げなさい」  秦野はホッホッホ、と籠った笑い声を立てた。その品の良い様子は、人の良さをも覗わせた。 「君が、和貴君の息子さんか。……はじめまして」  しわがれた声だが、暖かみのある声だ。和季は軽く目線を落としたまま、顔を上げた。 「君が気にすることではないよ。単に暇を持て余した隠居じじぃの気まぐれだ」 「でも……」  今、父が店を再開させることができ、学校に通え、借金取りに怯えて人目を避けて生活せずに済んでいるのは、目の前で微笑む老人が借金の肩代わりをしてくれたからにほかならない。 「なに、儂はただ、ここのオムレツが食べられなくなることを惜しんだだけだ。それに、確かに儂は暇を持て余した隠居じじぃだが……」  先ほどの微笑みが、ぱっと輝くような笑みに変わる。 「少々、金を持て余しとる隠居じじぃでもあるのだよ!」  小気味良い冗談に、和季は思わず自然な笑みを浮かべた。 「そうそう。子供はそうやって、笑ってんとな……」  にこにこと微笑み、秦野は小さく何度も頷いた。  こうして話をしていると、とても心地のよい老人だった。なんだか人懐っこいフレンチブルドッグの様だ。失礼だ、と自身を戒める声もあったが、つい和季はそう思ってしまった。 「それで、和季。どうしたんだ? 店まで来て」 「え? あ、手伝いでもしようかと思って」  和季の返事に、父、和貴(かずたか)は穏やかな笑みで制した。 「店は大丈夫だ。もうすぐアルバイトの学生も来るし。それに、勉強もあるだろう? 部屋で休んでなさい」 「うん、分かった。でも、夕飯くらい作らせてよ」 「そうか、助かるな。じゃ、冷蔵庫の中の物は何を使っても構わないから、頼めるか?」 「うん、任せて」  和季は、秦野に失礼します、と一礼し、裏口から店を後にした。秦野はにこにこと和季が消えた後も、裏口のドアを眺めていた。 「……良い子だね」 「ええ。こう言っては親馬鹿でしかありませんが、男手一つで曲がらず、よく育ってくれました」  和貴が秦野にコーヒーを出す。 「それにしても、君は愚直な男だね」 「何の話です?」 「『賠償金』のことだよ」  『賠償金』とは、和季への殺人未遂に対するそれである。 「それなりの金額だったんだろう? それで儂からの借金を返してしまえば、楽になるだろうに」  秦野の言葉に、和貴は失笑した。 「そんなことはできませんよ。あれは和季のものです。これから和季が生きていくために使われなければならない金です」 「そうだがね。……あの子が借金に気兼ねして、進む道を狭めてしまっていたなら、どうする?」 「それはそうですが……」 「悠長なことも言ってられんだろう。もう高校三年生なんだろう?」  和貴はグラスを拭き、暫し口を閉ざしてから改めて口を開いた。 「……そうですね。これを機会に話してみます」 「それが良いだろう。大体『事件』の時も、もっと儂を頼ってくれたら、優秀な弁護士を立て、もっと良い条件で慰謝料を――」  ドアの小さな鐘がコロンコロン、と音を立てた。秦野は仕方なく口を噤んだ。  和季は冷蔵庫を覗いた。サーモンの切り身、タラの芽、油揚げ、玉ねぎ……。献立は決まった。  サーモンはオリーブオイルで焼いてしまおう。味付けは塩と胡椒で良いだろう。タラの芽は胡麻和えにして、油揚げと玉ねぎは味噌汁に。 「ん? 何これ?」  和季は奥にあった袋を取り出した。ピーナッツだ。和貴が晩酌用に買ったもののようだが、残念ながら賞味期限が切れている。和季はそれを一粒口に放り込んだ。風味は多少落ちているが、使えなくもなさそうだ。タラの芽は胡麻和えから、ピーナッツ和えに変更することにした。  和季は料理に取りかかった。夕食を作るのは久しぶりだ。中学生のころは父の帰りを待ちながらよく作ったものだが、今はどうだろうか。幸い、体はまだ覚えていた。手際よく一つ一つを作り上げていく。  料理の道はどうだろうか?  ふと、和季の頭にそんな考えが思い浮かんだ。料理の腕なら生かせる場所も多いのではないか。父の後を継いでもいい。父のような優秀な料理人になれば、多くの人を笑顔にできる。少なくとも音楽の道よりは安定しているはずだ。料理は嫌いではない。むしろ、誰かの喜ぶ姿を想って作るのは楽しいし、幸せを感じられた。何も音楽に固執する必要はない。道はいくらでもあるのだ。和季は自身にそう言い聞かせ、自身の心に灯りを灯した。  和季は先に風呂を済ませ、課題をこなしながら、和貴の帰りを待った。帰りはいつも十時半過ぎになる。  和貴が帰ってきた。 「ただいま」 「おかえり」  ちょうど、味噌汁は温まっている。焼いたサーモンも、破裂しないように電子レンジにかければ問題ない。  流しを見た和貴は目を丸めた。 「まだ食べてないのか?」 「うん、父さんと一緒に食べようと思って」 「別に構わないのに」  その言葉に、和季は楽しげな笑い声を立てる。 「久しぶりだから、一緒に食べたかったんだ」  電子レンジからサーモンを取り出し、味噌汁とご飯をよそった。 「ありがとう。では、いただきます」 「いただきます」  二人は向かい合って夕食を始めた。 「味はどう?」 「ああ、上手にできてるよ」 「よかった」  中学の時は、先に食べ、片づけをし、寝る支度まで整えていた。それから父の帰りを待ち、寝るまでの三十分から一時間程度を一緒に過ごす。それが唯一、父と繋がりの持てる時間だった。だが今は違う。和季は父とともに食卓を囲めることを喜んだ。 「和季」  和貴はタラの芽を口に運んだ。 「なに?」 「高校を卒業したら、どうするつもりだ?」  すぐには答えられなかった。 「ん…………。まぁ、色々……」  和季は言葉を濁した。 「『色々』って。やりたいことはないのか?」 「ん…………」  和季は味噌汁に口を付けた。喉が硬くなり、声が出ない。 「お金のことなら、心配しなくていいんだぞ?」  その声に、和季の喉が解放された。 「父さん……、大きく出すぎだよ。いくら秦野さんが無期限、無利息にしてくれているからって」 「いや、……金ならあるんだ」  和貴は箸を止めた。和季の箸も止まる。 「…………何で?」 「和季にはきちんと話していなかったが、…………おまえには『雪音(ゆきね)』さんからの賠償金があるんだ」  その音を聞くや否や、和季の手から箸が滑り落ちた。何とか冷静さを保ち、椅子に座ったまま、ゆっくり上体を倒して箸を拾う。 「正確には、『雪音』さんの両親からの、だが」 「なに、それ…………」  和季は必死に声を絞った。  『雪音』は和季を殺そうとした男の名だ。その男の手によって、和季は聖堂の窓から落とされたのだった。 「父さん、『事件』のことは片づいたって言ってたけど、……そんなお金のことなんて、一言も言ってなかったじゃん……」  思わず声が震えた。 「すまない……」  和貴は謝罪を挟み、言葉を続けた。 「でも、それがあるから、和季はお金のことを心配しないで、進路を決めたらいいんだ」 「…………そんなに、あるの?」 「ああ。……一千万ある」 「え‼」  和季の背が跳ねた。確かにそれだけあれば、とんでもない進路を選択しない限り、十分足りるだろう。 「父さん」 「何だ?」 「それで、借金を返そうよ。いくら無期限でも、いつまでも人にお金を借りてるのって良くないと思うし。それに、返しても少しは余るんでしょ?」 「余りはする。けど、駄目だ。あれは、そういうためのお金じゃない。秦野さんも納得してくださっている」 「でも……」 「おまえがそう言いだすんじゃないかと思って、今まで言わなかったんだ」  和貴は慌てるように、味噌汁を喉に流し込んだ。 「……分かった。……進路のことは、ちゃんと考えるから」  和季は傍にあったティッシュペーパーでさっと箸を拭い、食事を再開させた。  和季は布団の中で体を丸めた。隣室からは和貴の寝息が聞こえる。和季はスマートフォンを手に取った。画面の明るさに顔を顰(しか)め、慣れない目で無理やり時計を確かめた。午前二時を指している。和季はスマートフォンを枕元に置き、寝返りを打った。  きつく絞められた首。息を吸おうとしても体内に空気の入らない苦しさ。首を絞める手を掴むが、その手の力は一向に緩む様子がない。目の前の判別がつかなくなり、抵抗する力も失い……。  その後のことは覚えていない。気づけば病院のベッドの上で、三ヶ月以上が経過していた。  和季はますます体を丸めた。そっと自身の首に触れれば、まだその痕が残っているような気がした。  和季の脳裏に『雪音』の姿が蘇った。  『雪音』。雪音(ゆきね)桜哉(おうや)は、澤村音楽学院高校専属の声楽教師だった。『麗人』の異名に相応しく、秀麗な顔に柔和な笑みを浮かべ、柔らかい声で、それでも厳しく指導する。誰もが憧れる教師だった。  同時に、雪音は和季にとって特別な人でもあった。雪音は優しい声で、和季に愛を語った。微笑みながら頭を撫で、ときに抱きしめ、和季の心に同調し、和季の魂を舞い上がらせた。  和季にとって、初めての恋だった。和季はあっという間に夢中になった。呑むように雪音の言葉を受け入れ、雪音の心を信じた。たとえ関係に多少の障害があったとしても、これが幸せなのだと信じきっていた。 (頭が、痛い……)  和季は頭を抱えた。薬を飲むほどではない。本当に痛いのかさえ疑問に思うほどの軽いものだ。だが和季は確かに『痛い』と感じていた。  早く眠ってしまいたかった。和季はもう一度寝返りをうち、眠りに落ちるまでの時間を耐えた。  和季が寮に戻ると、机に向かっていた悠吏は明るい笑顔を向けた。 「おかえり~!」 「ただいま」  和季も柔和な笑みを浮かべる。が、悠吏はすぐに和季の優れぬ様子に気がついた。 「どしたん? なんか元気ないね」 「え? そうかな?」  薄手のジャケットを脱ぎ、和季はそれをハンガーにかけた。 「ちょっと、進路のこととか話したからかな」 「へぇ」  一瞬、和季の脳裏に雪音の姿がちらついたが、和季はそれを黙っておいた。  クローゼットを閉め、和季は呟いた。 「……やっぱりさ、親って家を継いでほしいものかな?」 「ん? オジサンそんなこと言ったん?」 「いや、言わないよ。ただちょっと参考意見というか……」 「そうだな~。少なくとも、俺の家は継いでほしいんじゃね?」  悠吏の実家は地方の総合病院である。 「でも今時、男じゃなくても良くね? 妹でもいいと思うんだけどな~」 「妹さんも優秀なんだっけ?」 「まぁ、頭いーけど」 「……いいなぁ」  和季は寂しげに呟いた。 「え? ……大丈夫だって! 和季だって、最近成績上がってきてんじゃん」  妹の頭が良いことを羨んだのかと思い、悠吏はすぐ気遣いの言葉をかけた。それを察し、和季は慌てて言葉を補った。 「いや、そうじゃないよ。兄弟がいていいなってこと」 「ああ……。和季一人っ子だったね」 「うん。唱君にもお姉さんがいるでしょ? 奏一君なんて、お兄さんも、妹さんもいて。しかも妹さんは双子だし。……ちょっといいなって」 「まぁソーイチのところは欲張りだよね。でも、良いコトばっかじゃないけどね~」  喧嘩もするし、仲が悪ければそれこそ毎日が地獄である。 「そうなんだろうけど」  和季は小さく笑い、この話題に区切りをつけた。 「和季」  突如、和季の背が熱に覆われた。悠吏の声とともに、和季はクローゼットと悠吏の間に挟まれていたのだ。和季の体の向きが違えど、『壁ドン』である。  悠吏は和季を自身の腕に収めた。和季の小さな体は、悠吏の腕の中にすっぽりと収まった。後ろから覆い被さるように抱きしめる。 「寂しかった……」  たった二日弱離れていただけなのだが、悠吏は和季に甘えた。 「……うん」  和季は悠吏の腕に手をかけ、ゆっくり外した。振り返り、悠吏の方へ体を向ける。それでも悠吏は和季を自身とクローゼットの間に挟んだままで、完全には解放しない。  長身の悠吏から、和季の表情はほとんど見えなかった。ただ長い睫毛が不規則に上下するのが見えるだけだ。悠吏は少しかがみ、和季の視線まで顔を下ろした。  二人の視線が近い位置で合う目線になったが、和季は少し俯き視線を逸らした。悠吏は小さく笑むと、和季の額に軽く口づけた。和季は黙ってそれを受け入れた。  悠吏の左手が和季の頬を撫でた。親指で軽く和季の唇をなぞる。この後起こることを察知し、和季の肩が僅かに揺れた。それでも抵抗しない和季の唇に、悠吏はそっと自身の唇を重ねた。その感触に戸惑い、和季は一瞬顎を引いたが、悠吏はそのまま和季の唇を追いかけ、唇を重ねた。 「あ~、和季メッチャ可愛い……。マジ好き……」  初めてのキスに舞い上がり、悠吏はなおも和季の体をぎゅっと抱きしめた。 「うん……。…………僕も」  和季は悠吏の背に手を回した。 「ゴールデンウィークが明けたら、その次の週くらい、遊園地にでも行こっか」 「え……」  和季の胸に、きゅっと締めつけられるような緊張感が走った。 「嫌?」 「……嫌じゃないよ。でも、まだ追試があるのに行けるかな……?」 「それを楽しみにゴールデンウィーク頑張ればいいじゃん。ね」 「うん……。行こっか」  和季は悠吏の背を抱く手に少し力を込めた。  久しぶりに、和季は声楽の個人レッスンを取った。『澤学』の専門授業には共同レッスンと、個人レッスンがある。個人レッスンは完全予約制で、時々教師からの『お呼び出し』もあるが、基本、生徒の希望があって初めて成り立つものだ。スマートフォンや構内のパソコンで希望の時間と教師の名前、希望のレッスン室を入れ、他に希望者がいなければそのレッスンが叶うのである。 「おはようございます」  和季がレッスン室に入ると、担当教師の逢坂(おうさか)瑛壽(えいじゅ)は既に待機していた。 「おはよう」  雪の様な白く冷たい表情を浮かべ、逢坂は和季の挨拶に返した。  逢坂は『澤学』専属の声楽教師である。かつて、和季の学年の声楽教師は雪音と逢坂の二人だったのだが、事件で雪音が抜けたので、現在、三年の専属教師は逢坂のみとなっている。  逢坂は和季が被害者となった事件と無関係ではなかった。和季が聖堂から転落した時、逢坂はたまたま聖堂に居たのである。逢坂は別件で慌てて聖堂を出たのだが、和季を助けた警備員にその姿を見られ、事件の重要参考人にされてしまったのだ。  和季はそのことを目覚めた後に知り、復帰してすぐ話をしに行った。謝罪をするのは違ったが、何も言わないのも違う気がした。逢坂はただ、気にするな、と告げた。そんなことより、これからのことに集中しろと、厳しくも鼓舞する言葉をかけたのだ。 「その後、体の調子はどうだ?」  逢坂が和季に尋ねた。 「はい、特に問題ありません」  和季は小さな笑みを湛え、答える。 「そうか、良かった」  逢坂の表情が微かに動いた。 (あ、今、笑った?)  和季は目を、珍しげに開いた。  逢坂は滅多に表情を変えることのない教師だ。綺麗な顔立ちをしているため、無表情ですらよく似合った。ただ、そのせいで初めて逢坂を見た時、和季は能面を見ているような気になり、息の詰まる印象を覚えた。それから和季は、逢坂に若干の苦手意識を持ってしまっていたのだが――。 「では、始めようか」 「はい」  和季は逢坂の奏でるピアノの音に合わせ、歌いはじめた。ポロン、ポロンと清澄な音とともに、和季のファルセットが漂う。透明と不透明を行き来する和季の独特な声は、レッスン室いっぱいに広がった。 「うむ、問題ない。大分勘が戻ってきているようだな」  鍵盤から指を離し、逢坂は感想を述べた。 「ありがとうございます」  和季は小さく頭を下げた。 「でも、以前からの君の問題点ではあったが、まだまだ体力面に問題があるな。ジョギングなど体力作りはしているか?」 「それが、……普通教科の補填とかで……」  和季は気まずそうな表情を浮かべた。 「そうか。でも、今後も音楽の道を考えるなら、できるだけ行うようにしなさい。大変だとは思うがね」 「はい」 「では、もう一度」 「はい」  ピアノの音が零れた。また和季はそれに合わせ歌った。  心が解放されるようだった。補填学習や追試験のつらさ、将来への不安など、抱えている全ての暗いものを消し去ってくれるような心地だ。和季は曲がどんな風に歌ってほしいのかを探り、曲に語りかけるように、曲と会話するように歌った。  一曲が終わり、ピアノが止まった。 「……君は、本当に表現が上手い」  逢坂は零れるように呟き、和季の表現力に感嘆した。この繊細な表現力は教えてどうこうなるものでもない。恐らく天性のものだ。感受性が強いのかもしれない。逢坂は前々からそう推測していた。 「ありがとうございます」  和季は照れ臭そうに笑みを浮かべた。 「でも、だからこそ、その基礎体力のなさが惜しまれる」  逢坂は釘を刺しながらも、僅かな笑みを浮かべた。恐らく苦笑だろう。その程度の笑みだったが、和季はやはり逢坂に何らかの変化があったのだと確信した。  変化を感じたのは、復帰した二年の三学期だ。逢坂の雰囲気が柔らかくなった気がして、和季は以前の苦手意識を和らげた。いつの間にか逢坂と親交を持っていた悠吏に、『逢坂センセーは良い人だ』と言われたからかもしれない。 「君は、本当なら二年のノエルコンサートで何を歌うつもりでいたんだ?」 「課題曲のアヴェ・マリアしか考えていませんでした……」 「誰の?」 「シューベルトです」 「そうか。では、それを練習してみようか」 「はい……!」  和季は既に終わってしまったノエルコンサートの舞台に立てるような気がして、思わず声を弾ませた。  ゴールデンウィークに入り、寮は心なしか閑散としていた。地元が近場の生徒の中には、実家に帰る生徒も存在した。特に今年のゴールデンウィークは長いので、帰る生徒が多かったようだ。唱と奏一も珍しく、実家に帰っていた。 「あいつら、メッチャいちゃついてんだろな~、今頃」  寮の部屋で問題集を広げ、悠吏はぼやいた。唱の実家と奏一の実家はさほど離れていない。行き来は容易である。恐らく実家に帰りつつも、お互い時間を見つけては会っているだろう。場所はホテルかもしれない。 (こっちは勉強漬けだってのに……)  楽しげな二人を想像し、悠吏はシャープペンシルを握り締めた。それを見兼ね、和季は小さな声で注意した。 「悠吏、シャーペン折れるよ」 「大丈夫。これ『セイウチが百頭のたうち回っても潰れない』ってやつだから」  その謳い文句、騙されているのではないだろうか。和季は小さな溜め息をつくと、ひとまず自身の勉強に集中した。 「でもさ、悠吏も僕に付き合って勉強する必要ないんじゃないの?」 「和季あまーい!」 「え、そう?」 「あのね、人に教えるって自分が分かってる以上に分かってないとできないモンなんだよ。それに勉強はしておいて損はない」  そうして、問題集のページを捲る。 「へぇ~」 「なに? 『へぇ~』って」 「いや、ごめん。なんか悠吏って勉強できるけど、勉強なんかクソ食らえって感じに見えたから」 「俺、そんな風に見えてたん?」  和季は正直に答えた。 「うん。……ごめん」 「そっかー。でも、これでまた俺の新たな一面が見えたね?」  悠吏は嬉しそうに和季の顔を覗った。 「そうだね」  悠吏は本当にポジティブだなぁ、と和季はノートに目を落としたまま微笑んだ。

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